第15話
《十五》
十一月十四日秋の定期演奏会。
七重は佐織と並んで客席に座っていた。第一部が終わっての短い休憩時間。この後が今日のメインプログラム、アルルの女である。
「緊張してきちゃった。二宮さん大丈夫かな」
「自分のことじゃ動じないくせに」
「それは、きっと他のことを考えてる余裕がなかっただけみたい」
「そういうのを動じないって言うの。でも、残念だったね。最後の定期演奏会だったのに」
「うん。でも、これまでが順調すぎたんだと思う」
一ヶ月前に、冗談半分で怪我をしないでくださいねと言われた。
その心配が現実のものとなってしまったのだ。七重の左手の小指は、添え木を当てて薬指と一緒にテーピングで固定してある。
二週間前の日曜日、七重はいつもと同じように店に立ち、お客様の相手をしていた。
今年の新茶が熟成されて、いい味に仕上がってきた時期である。お客様にそのことをお知らせするために、カウンターで試飲をしていただこうと案内する。お茶は田村さんが淹れてくれる。今年の天候から、上出来とまではいかないものの、いつもの年と変わらない仕上がりですよと説明する。お客様もそうですかと頷いている。
三歳にはならない女の子を連れての買い物のようだ。お茶の出来具合など子供には関心のあることではない。待ちきれない様子で、母親のスカートを引っ張ったり、鮮やかな色のパッケージが気になって、店の商品をつついたりしている。
表の通りは、車も走る県道である。外へ飛び出してはいけないと、七重は子供の近くで気を付けていた。そんな七重を見てはにこりとして見せる。母親に買ってもらったのだろう、赤の飾り織にオレンジの紐の巾着を七重に見せてくれる。
「ママに買ってもらったの?」
そう尋ねると、うんと大きく頷く。
バッグとは違って紐をもってぶらぶらできるのが、お気に入りのようだ。
それをぐるぐる回していると、勢い余って店の暖簾の下まで飛ばしてしまった。
七重がそれを見て取りに行き、そこへ彼女も駆け寄ってくる。彼女が道へ出ないように外側から巾着を渡そうしたときだった。
キイーッというブレーキの音とともに、自転車が七重にぶつかってきた。
車を避けようとして、バランスを崩したのだろうか。七重は中腰で不安定な姿勢だったせいもあって、よろけてしまう。右手には巾着を持っていたために、左手を地面についてなんとか体を支える。そこへ倒れてきた自転車のサドルなのか荷台なのかが当たった。運転していたおばさんも転んで、膝をついている。
「大丈夫ですか?」
七重がそのままの姿勢で、おばさんに声をかけると、ごめんねと腰を撫でながら立ち上がったので大事なかったようだ。通りかかった人が倒れた自転車を起こし、七重が立つのに手を貸してくれる。
「はい、これ」
巾着を彼女に渡すと、ありがとうと受け取る。
母親がその様子を見て、ごめんなさいとしきりに頭を下げる。
七重はそれほど激しく転んだわけでもなく、打ってしまった左手もかすり傷もなかったので、大丈夫ですと笑顔を向ける。
「大丈夫ですから、叱らないであげてください」
お客様も七重の様子から安心したようだ。
もしも女の子が取りに行っていたり、もっと自転車のスピードが出ていたら大変だったと、ほっとする。
地面に手をついてしまったので上がって手を洗うと、左手の小指に痛みが走る。深く曲げようとすると痛むのだが、力を入れなければすぐに痛みはなくなる。とりあえず大したことはなさそうだった。
ところが時間が経つと次第に痛みが増してきて、いくらか腫れてもきた。
七重がそれを気にしていることに田村さんが気付いて、これはすぐに病院に行ったほうがいいと言う。ちょっと打っただけですと言っても、何もなければそれでいいのだからと、佐和にそれを告げる。佐和もすぐに病院へ行きなさいと言う。
日曜日なので、ほとんどの病院は休みで、年明けに稔がお世話になったT病院の救急を受診することになった。
受付に行くと、看護師さんがどうしましたかと尋ねる。
かいつまんで説明をすると、手を見せてくださいと言われて左手を差し出す。
「ひびでも入っちゃったかもしれませんね。腫れてきているようだし。ほかに痛むところはありませんか」
「はい。ちょっとよろけただけですので」
一般的にはそう重症でもないので、看護師さんの表情もそう深刻ではない。
そのほかにも一通りの問診を受けて、待合室でかけて待つように言われる。しばらくすると、先ほどの看護師さんが、診察前にレントゲンを撮っておきましょうと案内され、左手だけを撮影してまた待たされる。
やがて診察室に通されると、まだ若い医師がモニターを見ている。手の骨の画像なので七重のものだろう。
「吉野、七重さん」
「はい」
「ちょっと手を見せて」
そして、どれくらい痛むか、指は曲げられるかと質問され、七重はそれに答える。
「はっきりとは写らないものなんですけどね、まずひびがはいっているでしょう。応急処置で固定しておきますから、明日、整形外科を受診してください」
「あの、どれくらいかかりますか?十四日に演奏会があるんですけど」
「聞きに行くの?出るの?」
「出ます。フルートなんです」
「うーん、ちょっと無理かなあ。その頃ようやくシーネが取れるかなってところですよ」
「そう・・・ですか。わかりました」
「まだお若いし、折れてしまっているのでもないので、大事にしておけばひと月もすれば、元通りになると思います。ま、詳しくは受診のときに」
そして、月曜日、午前中に診察を受け、やはり全治三週間と診断されたのである。
「順調すぎたって、どういうこと?」
佐織が意外そうな顔を向ける。
「だって、西野先輩があんなことになって、たくさんのチャンスがあったからここまで来られただけ」
「でも、七ちゃん、いっぱい努力したじゃない」
「それも必要に迫られて、だったもの。西野先輩がいたら、小宮さんとも出会ってなくて。そしたら、ここまで真剣に取り組んでなかったと思う」
「そっか、全てはそこから始まったんだ」
ばらばらとメンバーがステージに集まり、最後にコンサートマスターが現れると、チューニングが始まる。
急に主席を務めることになった二宮さんも、午前中のリハーサルではそつなくこなせていた。技術的に心配するとこはなく、むしろ七重よりも柔らかな音質なので、他の木管楽器とはうまくなじんでいるようにも思える。後は本番で緊張しすぎて力が入ったり、ブレスをうまくコントロールできなくなることのないように気を付けるだけだ。
「七重先輩、緊張してきました。先輩はどうやってこの緊張感を処理していたんですか?」
「前にも言ったけど、多分、私は不器用だから、あれこれ考えられないだけ。だから緊張する余裕もなかったのかな」
「そうなんですか?」
「例えば、上手く吹こうなんて考えずに、練習の通りってそれだけを考えていたり、他の楽器と音程がずれないようにとか、ブレスの場所と量を間違えないようにとか」
「わかりました。真似してみます」
「大丈夫。じゃ、客席で応援してるからね」
「はい、頑張ります」
「ううん、頑張らなくていいの、いつも通りよ」
三月の五重奏の本番前に、高田さんから言われた言葉が自然に出る。
「あんまり上手く吹いて、吉野が怪我してよかったなんて言われたら悲しいから、ほどほどにしておいてね」
そう冗談を言って、笑わせる。
そして、佐織と一緒に客席へと向かったのだ。
二宮さんと矢沢さんを見ると、やはり少し緊張しているようだ。
隣の高田さんが七重と佐織を見つけて、それとなく小さく手を振る。七重はそれに気づいて、二宮さんを指さして、よろしくと手を合わせる。言葉を交わすわけではないが、それで通じる。
高田さんが二宮さんに何かを伝え、二宮さんはその言葉に少し笑って頷いている。
そして、広中教授が登場して、すぐに曲が始まった。
第一組曲、第二組曲と曲は進んでいく。目立つところ、他の楽器と合わせるところ、心配する必要もなかったように安心して聞くことができた。
そしてメヌエット。広中教授がサインを送り、二宮さんがそれに頷く。ハープの前奏に乗ってソロが始まる。
どうやら楽譜に何かを書いてあるのか、じっと眼をそらすことなく見つめている。七重もブレスの場所や量を自分流の記号でよく書き込んでいた。それを見ると安心もでき、ミスもしないで済むのだ。
それぞれのフレーズの終わり方も練習通り大切にしている。
全体のフォルテの後、少しテンポが速くなったが、それも広中教授からの合図ですぐに修正された。
予定よりも一回多く小さなブレスを入れ、最後の伸ばしが弱々しくならないようにしていた。
上々の出来だった。七重が吹いていても、ここまでミスなく演奏できたかどうか自信がないほどだった。
曲は終曲のファランドールになり、次第に盛り上がってくる。そして、曲が終わり、会場が拍手に包まれ、七重も佐織と一緒に拍手を送る。といっても、まだ実際に手を合わせると少し痛むので、形だけの拍手ではあった。
これで長いようで短かった音楽活動が終わった。そう心の中で思う。
最後の最後で、怪我をしてステージには立てなかったが、不思議とそのことに対する後悔はなかった。
それなりに長く付き合ってきたのだが、やはり音楽に対してそこまでのこだわりがなかったようだ。元々大学までで終わるつもりでいたし、終えられるものであったのかもしれない。
「残念だったな」
陽の傾きかけた嵯峨野の小道を歩きながら、小宮がそう言う。
紅葉のきれいな季節で、そこここに鮮やかに色づいた木々が並んでいる。
「少し。でも、二宮さんがいい演奏をしてくれたので」
「まあ、技術的にはな。残念がっているのは俺の方かもしれない。俺はやっぱり七重のメヌエットが聞きたかった」
「ひやひやしながら、ですか?」
「ははは、それはあるかもしれない。大丈夫だとわかっていてもやはり心配するだろうな」
道沿いにある小さな公園のベンチに腰掛ける。子供用のブランコや滑り台はあるが、もう子供の姿はなく、近くの人だろうか犬の散歩で公園を横切って行った。
「小宮さん、今日は良かったのですか?打ち上げ」
「ああ。高田に今日は七重と一緒にいてやれと言われてな」
「あは、もっと落ち込んでいるって思われてたんですね。でも、だからこうしていられますから、嬉しいです」
「本当に大丈夫?悔しいとか、辛いとか。泣いたり、八つ当たりしたり。俺の前なんだから遠慮しなくていい」
「大丈夫です。もし、そんな気持ちだったら、遠慮なんかしません。ただ、これで終わったんだなあっていう淋しさはあります。最後のステージに立てなかったことより、そちらの方が。中学から、もう十年になりますから」
「なるほど」
「でも、明日からは、課題もないし鬼コーチもいないので、ちょっとほっとするところもあります」
七重はベンチから立ち上がって、薄暗くなってきた空を見上げる。
「鬼コーチ?俺のことか?」
「だって、ずっとあれこれ要求されて、随分練習させられました。多分この十年で一番」
「そうだな。確かに随分上手くなったと思う」
「鬼コーチだなんて嘘です。こんな七重をいつもじっと見ていてくれて、感謝してます」
「それだけ期待していたってことで勘弁しろ。で、指、どうなんだ?」
「はい。もうそろそろ添え木もとれます」
「これまでのように動くようになるのか?」
「先生は多分大丈夫だろうと仰ってましたから。まず日常生活に支障はないって」
「楽器の方だよ、心配なのは」
「さあ、やってみないと。でも、それももう終わりですから」
「そう・・・か」
「畑仕事には影響ありません。きっと」
「そういえば、七重農園の動画、最高だった。まるで別人だ。なんか、こう、生き生きしてて」
「本当に農家の娘みたいでしょう。自分でも笑ってしまいました」
「いつか高田が言っていたが、あれが本当の七重の姿なんだろうって思える」
「そんな気がします。指がよくなったら、第二弾で、藁敷とか肥料遣りなんです。いよいよ本格的な農業でしょう」
「いよいよだな。俺も・・・春からもう一度アメリカへ行こうかと思っている。向こうの知り合いから誘われててな」
小宮も立ち上がって、暗くなってきた、と嵐山の方へ歩き始める。
「やっぱりニューヨークですか?」
「いや、今度はサンフランシスコ。できれば三月には来てくれと」
「三月ですか。七重も卒業です」
「そうだな」
七重の卒業は、二人のお付き合いが終わるときでもある。しかし、それをお互いに言葉にはできなかった。
「ね、小宮さん。おなかが空きました」
「そういえば、少し太った?」
「はい。春からだと二キロほど。わかりますか?」
「何となく。コンプレックス卒業までもう少しってところかな」
「でも、ついてほしいところにはなかなか回ってこなくて」
「気にするなよ。何が食べたい?」
「茶そばがいいです。今日はちゃんと食べられます」
「茶そばだけっていうわけにもいかないだろう。またあの店へ行くか」
「どこでもお任せです」
半年ぶりに四条の『島』へ行くことにする。そこは思い出の店である。
佐和に電話をかけて、小宮と食事に行くことを告げると、しっかり甘えてらっしゃいと言い、遅くならないようにとも言わない。
怪我がなければ七重がステージに出ていたことを佐和も知っているので、きっと随分七重が落ち込んでいると思ったのだろう。それにしてもおおらかな母親だと思う。ひょっとすると佐和も短大から嫁ぐまでの間は、かなり奔放に過ごしていたのかもしれない。
もちろん小宮に会い、人となりから信頼できる男性だと思ってくれているのだろうし、博志兄さんからもそう聞いているのかもしれない。
佐和にそう言われたと小宮に言うと、相変わらずだと少し呆れられる。
『島』で、秋のメニューのコース料理を残さずに食べてしまう。
「今日はよく食べるな。そうでなくちゃいけない」
「いつもこんなにいただいていたら、反対におデブになってしまいそうです」
そして、コースの最後に出された茶そばもおいしくいただいてしまった。
ちょっと調子に乗って食べすぎたようだ。
「どうだ、甘いものでも」
「それはやっぱり無理です」
「そうか。じゃあ少し歩こうか」
「はい。いいえ。どこかへドライブに連れて行ってください」
「そりゃあ構わないが、どこか行きたいこところでもあるのか?」
「いいえ。でも、折角、高田さんが、あ、それに母までが一緒にいなさいって言ってくれたのですから」
「それはそうだが、それとどこかへドライブってのがよくわからないが」
「いいんです。何だかワクワクしているんです」
「子供みたいだな」
「いつものことですから」
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