第11話
《十一》
翌日、昼過ぎになって家に帰った。佐和にどんな顔をすればいいのか、随分困って、電車を降りてからも真っ直ぐには帰れなかった。近所をしばらく歩いて、意を決して勝手口から、ただいま帰りましたと家に入る。
佐和は、おかえりなさいとだけ言って優しく微笑んでくれた。七重はやはり恥ずかしくて言葉が出なかった。無理をして笑顔を作ってごめんなさいと頷く。すると、お父さんには上手く言っておきました、でもそう何度もは通用しませんよ、と言う。
理解があると言うべきか、やはりいざとなると動じないと言うべきか、いずれにしても、そんな佐和の気持ちがありがたかった。
前の夜はほとんど眠れていなかったために、自分の部屋に入って少しだけ横になるつもりが、着替えもせずに深い眠りに落ちていた。
携帯の着信音で眼が覚めると、もう夕方で四時間以上眠ってしまっていたことになる。
電話は佐織からだった。
「昨日はどうだった?」
いきなり核心に触れてくる。かといってそのまま答えられることではない。
「昨日って、何が?」
「とぼけたってダメよ。誰かと一緒だったんでしょ」
「どうして?」
「何年付き合っていると思ってるの。七ちゃんの顔見てたらピンとこないほうがおかしいわよ」
「そっか、佐織には隠し事はできないか。うん、最近、お付き合い始めた人と・・・」
「やっぱり。でも、良かったね」
七重がちょっと口ごもると、それを察してかそれ以上追求はしてこない。
「ありがと」
「ひと安心ね。このままじゃ、七ちゃん淋しい大学生活になりそうで心配だったんだもん」
「それはご心配をかけました。で、何か?」
「ああ、そうそう、打上げのこと」
「ごめんね、実習中で忙しいのに」
「ううん、これくらいしか貢献できないし、私も息抜きしたいから」
「ならいいけど」
「で、去年は計画倒れになったけど、今回はホルンパートと合同でどうかな。山崎先輩から誘われちゃって。人数も同じだし」
「うん、それは異議なし。でもどうして?」
「だって、小宮さんが一緒になるでしょ。七ちゃん最初に怒ってたから」
佐織は、七重が昨日一緒にいたのがまさか小宮だとは思っていないようだ。ちょっとありがたい誤解だった。
「なんだ、もう古い話なのに。あれから五重奏でも一緒だったし、関係は修復できてる」
「そう。じゃ、その線で進める。日程が決まったらまた連絡するね」
「うん、お願い」
成り行きでごまかしてしまったことで、少し心が痛んだ。
いずれ白状させられる日が来るかもしれないが、佐織ならきっと許してくれると思う。
そんな会話で、ようやくしっかりと眼が覚める。そうすると昨日の記憶が蘇ってきて、心が熱くなる。
そして一年間この幸せが続きますようにと願ってしまうのだ。
ゴールデンウィークがあけて、オーケストラは六月末の演奏旅行に向けての練習になる。今年の行き先は島根県の松江だった。
いつもの演奏旅行だと、春の定期演奏会のメインの曲に一、二曲新曲を加えたプログラムである。ところが今年は、定期演奏会がフランス音楽に統一されていたために、メインが誰でも知っている曲ではない。
地方と言うと失礼なのだが、やはり観客を集めるためには、有名な曲が必要である。
そこでリヒャルト・ワーグナーの金管楽器の派手な曲を二曲とベートーベンの序曲と交響曲、そして中間に木管五重奏というプログラムとなった。一ヶ月と少しで仕上げるには練習回数も増える。その間に五重奏も入ってくるために、結構忙しい日々となった。
七重は教職を取るつもりで、卒業に必要な単位はほぼ去年のうちに終えていた。そしてそれを諦めたことでこうして音楽漬けの日々が送れている。一方、佐織はやはりそれどころではなくなって、練習にもたまにしか顔を出せない。
セカンドについてくれた二宮さんも最初は遠慮していたが、佐織の状況から、今ではしっかりとやる気を見せてくれている。技術的には心配はないものの、小柄であるために七重と同じようにブレスに気を使うところがある。いくつかこれまでに学んできたことをアドバイスすると、驚くほど飲み込みが早い。このペースなら秋の定期演奏会では主席がこなせそうだと安心する。
小宮はアメリカでの単位と研究レポートで修士課程を修了し、専科生としてちょっと中途半端な形での在籍となっていた。
小宮とのお付き合いは順調に続いている。七重のコンプレックスはなくなったわけではないが、小宮の前では気にしないでいられるようにはなってきた。
七重の生活は忙しいながらも充実していた。
ところが、山吉の方は厳しさが増してきているようだ。
今のところ長い付き合いの客は山吉を選んでくれている。だが、春風園も知名度だけではなく、歴史も技術もある会社である。山吉にかげりが見えると、そうした客も春風園に流れていくことだって考えられる。
経営の厳しさと同時に、稔の健康も気になる。ストレスを溜め込むことが体に良くないと医者からも注意されているのである。
そんなときに、折り悪く発送担当の三好さんがご主人の転職で山吉を辞めることになった。家庭の事情となれば無理を言って引き止めるわけにも行かない。三好さんは、もう七、八年の間働いてくれていたので、日々の仕事は任せきっていた。そのために、翌日からは稔や佐和だけでなく、田村さんも細かな伝票処理やパソコンへの登録といった不慣れな対応に追われることになる。
七重も何かできることがあれば手伝いたいと思う。
そして、あれこれ考えた結果、休みの日にはパートさんと同じように、着物でお客様の相手をすることにした。田村さんは、お嬢さんがそんなことをしてはいけませんと止める。それを押し切って、店に立つ。
そして夜にはパソコン入力を手伝う。こちらの方は、稔や田村さんよりも扱い慣れているので、苦労はなかった。メールでご注文をいただいた方に、ちょっとした情報や自己紹介を添えてお礼のメールを送る。それでも、お茶について尋ねられたことで応えられないことがたくさんあることが分かる。その都度、稔に教えてもらいながら返信していくと、結構勉強にもなる。
そんな中、タウン誌の取材の話があった。お茶の町宇治をPRする材料として春風園のスイーツの店と一緒に、山吉の昔ながらの店を取り上げたいという企画だった。また、山吉の古い店舗と音大生の娘さんというアンバランスが面白いという話である。思いつきで着てみた着物が思いのほか好評のようだ。稔や佐和は少し抵抗があったようだが、今度は田村さんが乗り気で後押ししてくれた。
おかげで、発行される七月以降しばらくは、記事に書かれたとおり土曜日曜は店に出なくてはならなくなった。
とはいえ、今回は特に責任の重い演奏会である。
オーケストラは前日の土曜日の午後現地集合でリハーサルがあり、五重奏は午前中に合わせることになる。土曜日の宿だけは幹事から指定されるが、それ以外は基本的に自由である。
会場の打ち合わせなど仕事のある幹事たちと、五重奏のメンバー、そして広中教授は前日から現地入りすることになっていた。
「小宮さん、金曜日はどうされるのですか?」
その週の火曜日の練習が終わった後、七重を送ってくれる車の中で尋ねる。
「電車かな。四時頃に京都を出れば、向こうへは八時前には着くだろう。一緒に行くか?」
「お邪魔でなければ」
「まさか。しかし、誰かに会うかもしれないよ」
「たまたまってことで・・・」
「まあ、向こうはそうは思ってくれないだろうが」
「それでもいいです」
「ほう、大胆になってきたな。じゃあ、切符は俺の方で準備しておくから、京都駅で待ち合わせだ」
そんな会話で予定が決まる。
宇治から京都まではJRで三十分程度で着く。
いつものように少し早めに着いてしまったので、人の流れの邪魔にならないように、少し離れた柱の近くで小宮を待つことにする。これまで、小宮と一緒のときは車がほとんどで、こうして電車の旅は初めてだった。それだけで少しわくわくしてしまう。
大胆になったと言われて、少し恥ずかしい気はするけれど、一年の間にたくさんの思い出を作っておきたいのだ。小宮を好きだという気持ちに変わりがないとすれば、そして一年後にはどうしても悲しい思いをするのなら、思い出は多い方がいい。今はそう思える。
そんなことを思っていると、やはり早めに小宮が現れる。ホルンのケースを下げ、同じようにキャスター付きのスーツケースを引いている。
「待たせたな」
「いいえ、私も今着いたところです」
「中へ入ってコーヒーでも飲もうか」
小宮はそう言って、切符の入った封筒を一つ七重に渡してくれる。お手数をかけましたと受け取る。
封筒には往復分の六枚の切符が入っていて、改札に向かうのに、どれを出せばいいのか迷ってしまう。すると、これとこれ、と子供に言うように教えてくれる。そして自動改札を通ってからも、七重が切符を取り忘れていないことを確認される。確かに旅慣れているわけではないけれど、やっぱり子供扱いされているようで、ちょっとくやしくなる。
コーヒーを飲みながら、タウン誌の取材を受けて着物姿で載ることを伝えた。実際に発刊されてから驚かせようと思って内緒にしていたが、やはり黙っていられなくなった。
小宮は、驚きながら、あの店には着物姿が似合うし、PRにもなると賛成してくれた。
十分前になって、喫茶店を出たところで、高田さんにばったりと出会ってしまった。高田さんも同じようにスーツケースを引いている。
「あら、偶然ね。お二人さん、何だか新婚旅行みたいよ」
高田さんにはドライブに行ったことも話しているし、その後も時折応援してくれている。
「そうだろう、予行演習だ」
新婚旅行という言葉に七重が照れていると、小宮があっけらかんとそう応える。
「ご馳走さま」
「といっても吉野にはその気はないようだが。な?」
意外なところで振られて、返事ができずに困ってしまう。
「まあ、向こうでゆっくり聞かせてもらうわ。急ぎましょう。何号車?」
「俺たちは九号車だ」
「あは、まさに。私は十五号車だから急がなきゃ。ごゆっくり」
高田さんは笑顔を残しながら振り返って、颯爽と歩いていく。
そういえば、七重は自分たちの乗る車両も気にしてなかった。九号車はグリーン車で、高田さんの言葉も理解できた。
「じゃあ、俺たちも」
「はい。でもグリーン車だなんて、贅沢です」
「任せたんだから文句を言わない」
エスカレーターを上ると、間もなく電車が着いて二人で乗り込む。
初めてのグリーン車で、やはり少し気が引ける。
「窓側、通路側どっちがいい?」
座席番号を探して、小宮が振り返る。
「左側で・・・」
「何だ?おかしなことを言う。じゃ、通路側だ」
「いつも助手席で小宮さんの左側ですから」
さすがにグリーン車はゆったりとして、大きめの座席に七重の体はすっぽりと納まってしまう。
長い間会っていないわけでもなく、会えない日も電話であれこれと話しをしている。なのに、話したいことや尋ねたいことが次々と出てくる。
着物姿が好評とはいえ、店に出たときの大変さや、着物を着るときの苦労話をしている間に岡山に着いた。岡山からは在来線の特急に乗り換える。それもグリーン指定で、贅沢だとは思うが、四時間近くの旅となるとゆっくり座れることがありがたい。
そのことを告げると、だから行きだけは贅沢だがそうしたと言う。帰りは時間も決まっていないので、とりあえず自由席にしてあるらしい。
松江に着いて、改札で高田さんと合流する。幹事が演奏会の会場である県民会館に近いホテルを準備してくれていた。タクシーで宍道湖大橋を渡ってすぐのところである。小宮が、一緒に食事に行こうと誘うと、高田さんはそんな野暮なことはできないと断る。七重が重ねて是非にと言うと、じゃあ食事だけよと付き合ってくれることになった。
チェックインを済ませて、ロビーで待ち合わせる。フロントで近くのイタリアンの店を教えてもらってそちらへ向かう。
食事もでき、ワインで盛り上がることもできるといった気軽な感じの店だった。
それぞれに好みの料理を頼んで、ワインで乾杯する。
「さ、聞かせてもらいましょうか」
高田さんが興味津々の眼を二人に向ける。
それまでにいろいろあったにせよ、きっかけになったのはバレンタインの日、和束へ行ったことだった。
博志兄さんと小宮が高校時代の同級生だったことや、森本さんのKフィルへの誘いを断ったことには、高田さんも驚く。
小宮が、そんな七重を面白いとも思い、放って置けなくなったと言ってくれる。
そして、七重が卒業するまでの一年間だけのお付き合いだと言うと、随分驚き、理解できないと言われてしまう。
「どうしてそんなに迷いなく、って言うか一途でいられるの?」
あらためてそう尋ねられても、これと言って思い当たることはない。
「不器用なだけかもしれません。ただ、音楽の世界では私くらい、いえ、私以上の人がたくさんいます。でも、家の方は、小さなお店ですけど私でなきゃ、って思えるんです」
「ふうん。私だけを必要としてくれている場所なんだ」
「自分でそんな風に思っているだけで、周りはそうでもないのかもしれませんけど。ただ私が好きなだけで」
小宮が笑みを浮かべながら聞いている。
「な、面白いだろう。俺が音楽の世界しか考えられないのと同じなのかな、とは思う。何だか応援してやりたくてな」
「そう言う小宮さんも面白いわよ。保護者みたい」
「せめて兄貴と言ってくれ。しかし、こいつがお茶の話を懸命にしていると、そんな気にさせられる」
「それはわかるな。小宮さんのお宅で見たあどけない表情。音楽やってるときとは別の人で、きっとそっちが本当の吉野さんなんだろうなって思った」
「あどけない、ですか?」
「子供扱いしてるわけじゃないのよ。でも、その言葉がぴったりくるの」
「はあ、でも子供扱いにも慣れていますから」
「あらあら、ごちそうさま」
あまり遅くなるわけには行かないと、結局三人で一緒にホテルに戻る。
お邪魔してしまいました、と高田さんは先にエレベーターに乗る。
「俺の部屋へ来るか、と言いたいところだが二日間はハードスケジュールだしな」
「はい」
七重もそう言ってほしい気持ちはある。だが、寝不足や疲れてステージに立つのはお客様に失礼だとも思う。
「頼みがある」
「何ですか?」
「朝が弱いので、モーニングコールをしてくれる?」
「ダイヤル設定がありますよ、きっと」
「七重の声で起こしてほしいんだよ」
小宮の言葉に思わず表情が緩んでしまうのが止められない。
「わかりました。七時頃でいいですか」
「ああ。どうした?」
「いえ、ちょっと嬉しくて。小宮さんが子供みたいで」
「言ったな。ま、それは認める」
おやすみなさいを言って、それぞれの部屋へ行く。七重は五階、小宮は八階だった。
七重はシャワーを浴びてドライヤーをかけながら、うんと小さな決心をする。
もう一度きちんと洋服を着て、八階へ上がって小宮の部屋をノックする。
「七重です」
すぐにドアが開かれ、小宮は少し驚く。そして七重を見て笑顔を向けてくれる。
「モーニングコール係をお届けに来ました」
「大丈夫?」
「はい。でも、ちゃんと眠らせてくださいね」
「そうだな、一緒に眠ろう」
言葉通り、小宮は短いキスだけで、続きは演奏会が終わってからだと言う。
七重は、はいと答え、小宮の腕枕でやわらかく抱かれながら、髪を撫でられているのが心地よく、すぐに眠りに落ちた。
翌日は十時から五重奏のリハーサルが始まった。もう曲としては完成していて、練習するというよりは、ステージに慣れるというものだった。
大ホールのステージは大編成のオーケストラが乗るだけの広さがある。ある程度は照明でメンバーが浮き立つように調整してくれるといっても、五人があまり近すぎると見栄えがしない。かといって、あまりお互いの間が開きすぎると、それぞれの音がバラバラになってしまって合わせづらくなる。そのあたりを確認して、照明をそれに合わせてもらう。
また、ホールによって音の広がりや反響して返ってくる音も違う。いつもと同じバランスで演奏していても、客席で聞こえるバランスは微妙に変わる。
広中教授が客席で確認してくれて、実際に観客が入るとまた少しは変化するだろうが、大丈夫だろうと言ってくれる。
そして一回だけ通して五重奏のリハーサルは終わる予定だった。広中教授はその途中からステージの中央で腕組みをして聞いていた。
「みんな本当に上手くなった。それに随分こなれてきた」
曲が終わると眼を開いてにこやかにそう言う。
「ただ、この曲とちょっと長く付き合いすぎたせいか、こなれすぎている気がするな。もう一度謙虚に、楽譜に忠実に。そうすることで君たちのアンサンブルがさらに生きるのではないかな」
メンバーは一様に、はっとして眼を覚まされたようだった。
「わかりました。もう一度やってみます」
小宮が声に出す。そしてお互いに顔を見合わせて頷いて、結城さんの合図で曲が始まる。
だからといって、何かを変えるわけではなく、ただ音符とそこにある表情を丁寧に音にしていくだけである。ところが五人のその気持ちがかみ合うと、あらためて作曲家の思いが見えてくる。そこにまた新鮮な驚きがある。
一楽章が終わったところで、またメンバーが顔を見合わせる。
「すばらしい。そういうことだ。演奏する側が謙虚に曲に向き合い、曲に感動していないと聞き手にそれは伝わらない。もう練習はいいでしょう」
教授はそれだけを言ってステージを離れる。
「まいった。でも、たしかにその通りね」
高田さんが椅子に深くもたれてそういうと、他のメンバーも右に同じと言いながら、表情は明るい。
その時に広中教授が再びにこにこしながら近寄ってくる。
「他のメンバーにはまだ内緒だが、君たちには行っておこう。秋の演奏会、ビゼーをやることにしたよ。ある人にリクエストされたのだが、君たちが揃っているうちに是非ともやりたくなった。ラルレジエンヌ。じゃ、午後からもよろしく」
フランス語の発音でそう言って、手を小さく振りながら去って行った。日本語ではアルルの女として誰でも知っている曲である。
それはおそらく森本さんからのリクエストなのだろう。
「なるほど、確かにあれは木管楽器の曲だね。しかし、サキソフォンがいないけど」
「だれかを客演で連れて来るのさ」
皆、第二組曲のメヌエットのことにはあえて触れない。小学校の教科書にも載っているような有名な曲である。四分ほどの短い曲ではあるが、その半分はフルートのソロで、ソリストの技量がそのまま表れる。七重は困ったことになったと俯いてしまう。これではリクエストと言うよりも七重への罰ゲームのようなものに思えて、ため息が出る。
「吉野さん、大丈夫よ。まだ時間もあるし。今は明日の演奏会に集中しましょ」
高田さんが優しく声をかけてくれる。
どれだけ大変な役割かを分かっている証拠だ。
「そうですね、まず、明日。頑張ります」
無理に明るく自分に言って聞かせる。
ちょうどお昼になったので、五重奏のリハーサルは終わりになる。
午後からのリハーサルは、前半がリヒャルト・ワーグナー、後半がベートーベンだった。
広中教授の指示はやはり主に弦楽器の表現に集中する。特にベートーベンの二楽章では、なかなかOKが出ず、教授はどこまでも妥協がなかった。
リハーサルはみっちり三時間。体力的には無理な時間ではない。しかし集中力を保ったままなので、精神的には疲労の限界だった。リハーサルが終わると皆からため息が漏れる。
気がつくと、客席には島根大学オーケストラのメンバーが大勢リハーサルを聞きに来ていた。彼らまでが広中教授の終わろうという言葉にふうっと息をついている。
この後は、パートごとに交流会が企画されていて、それぞれに予約した場所で食事をし、多少のアルコールも出される。幹事からは、明日の本番に向けてあまり遅くならないようにと注意を受けた。
そして、九時過ぎには解散となって、ホテルへ戻った。リハーサルでの緊張が食事会で一気に緩んだためか、ひどく疲れを感じる。
七重がシャワーを浴びて、浴衣に着替えてほっと寛いでいるところへ携帯電話が鳴る。
「おう、俺だ。もう寝たかと思っていたが」
「はい。そろそろ。さすがに今日は疲れました」
「そうだな。起きていたなら、少しだけ外へ出てみないか」
「え、もう浴衣に着替えていますが」
「俺もそうだ。ホテルの玄関横に庭があっただろう、そこにいる。宍道湖がいい眺めだ」
「このままでいいですか?でも、ちょっと恥ずかしいな」
「構やしないさ」
「はい。じゃあ、これから行きます」
バッグに貴重品だけを入れてエレベーターに乗る。
正面玄関から左に行くと、ちょっとした日本庭園があって、砂に浮かべた飛び石を渡って行くと、堤防の向こうは湖だった。対岸の松江の街の明かりが湖に映って幻想的な眺めが広がる。宍道湖大橋を渡る車のライトが流れていく。その上に満月がぽっかりと浮かんでいる。すっかり夜なので、遠くの岸は見えないが、所々に街の明かりが続いている。
「お待たせしました」
「悪かったかな」
「いいえ、大丈夫です。小宮さんもお疲れでしょう」
「まあな、少し」
「ベートーベンは大変そうです。でもホルンって面白い楽器ですね」
「なんだ、今頃」
「いろんな音が求められて。五重奏のときは柔らかい、まあるい音なのに、ワーグナーやベートーベンでもすごい迫力で」
「そうだな。そこが魅力でもある。音量だけならトランペットやトロンボーンには負けるかもしれないが、響きや密度ではやっぱりホルンだ」
「はい。ベートーベンでは珍しいですよね」
「ああ、こんなフォルテッシモは他の曲にはない。でもね、ホルン吹きなら、一度はやってみたいフレーズなんだ。これと六番のアルペンとね」
「小宮さんも、もう少し太った方がいいんじゃないですか?」
いつか小宮に言われた言葉を真似る。
「ははは、まあ、体力の面からはその方がいいのかも知れないが。しかし、俺はコンプレックスはないが」
「あ、また言ってる。せっかく忘れかけているのに、もう」
袂を押さえながら、こぶしを上げてみせる。
小宮がその手を取って七重を引き寄せると、勢いのままとんと小宮の胸に頬がぶつかる。
「明日、頑張ろうな」
そのまま小宮が笑顔を向ける。七重はそんな小宮を見上げながらはいと頷く。
こんな場面を誰かに見られると、間違いなく二人のお付き合いが知られてしまう。そう思って、心残りを感じながら一歩身を引く。
「でも、アルルの方は、どうなるんでしょう」
「ま、それはまた帰ってから考えよう」
「はい」
「実は、どうしても七重に聞かせたいアルルがある。七十年のゴールウェイのメヌエット」
「またゴールウェイですか。私には無理です」
ちょっと弱気な声になってしまう。
「まあ、それは聞いてみてから。しかし、きっと広中教授?それとも森本先生かな。それを知っていてリクエストしたんだ」
「そうだろうなって思います。でも、何だか罰ゲームみたいで」
「まさか。お二人とも、七重に期待している証拠だ」
「それはありがたいとは思いますが、ハードルが高すぎて困ります」
「まだ時間はあるさ」
「はい」
「じゃあ、今日は寝るとするか」
七重はこくんと頷く。小宮はそんな七重の手を握って歩き始める。七重は誰かに見られては、と慌ててしまう。
「ちょっと、小宮さん。誰かに・・・」
「見せつけてやろうじゃないか」
「そんな。ダメです」
「そうか?」
小宮は笑顔だ。
「もう、いじめないでください」
「まだそこまでは大胆にはなれないか」
「まだ、って。ずっと無理です」
そう言って小宮の手から逃れる。そして、少しドキドキしながらエレベーターに乗る。
「明日はゆっくりですから、モーニングコールは必要ないですね」
「ああ、大丈夫だ。七重は一人で眠れるか?」
「もう、そんなに子供扱いしないで下さい。十分大人なんですから」
「だから言っている」
「いじわるな小宮さんです」
「ははは、許せ。ま、今日はゆっくり寝よう。また明日」
五階でおやすみなさいと言って、先に降りる。
そして翌日、予定通りの進行でリハーサルから演奏会へと進んで行った。
アンコール前に広中教授が五重奏のメンバーを指揮台の横まで招き、客席から多くの拍手を受ける。今日は七重もあがることもなく客席を見ることができ、深く頭を下げた。
そうして演奏旅行も無事に終え、七重の大切な思い出の一つになった。
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