第8話
《八》
次の週になって、オーケストラの練習の後、七重は広中教授を訪ねた。
変わらずに、Kフィルの話を勧められる。弟子を取らない主義の森本さんが、期限付きで面倒を見たいとまで言ってくれているとも聞かされた。
そして森本さんへの義理だけではないと言う。広中教授も昨年秋の定期演奏会で、七重の演奏に可能性を感じてくれていたらしい。そのためにチャレンジしてみる価値があると言うのだ。
どれも過分な評価であり、期待されることは心から嬉しい。そして、たしかにやってみなければ分からないところもあるとも思う。
しかし、どうしても七重にはその気にはなれなかった。
「そうか、やむを得んな。君にその気持ちがない以上、どんなチャンスも意味がない」
広中教授も、七重の頑なさに半ばあきれたように、笑顔を見せた。
「すみません。こんな人間で」
申し訳ない思いで涙ぐんでしまう。
「これ以上勧めることは、君を困らせるだけのようだ。わかった、森本さんには私から上手く言っておこう」
「お願いします。広中先生にも森本先生にも感謝しています」
「ああ、その代わり、その家業で辛くなっても挫けるんじゃないよ。ただ、もしも気が変わったらいつでも言ってきなさい。どうやらKフィルには縁がなかったようだが、他に進む道はある。それではもう行きなさい。面白い子だ」
そう言って広中教授はいつもの優しい表情を向けてくれた。
「ありがとうございます。失礼します」
七重はそういい残して、教授の部屋を後にする。心の中はやはり申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ただ、それでもこれでよかったのだと、ほっとする。
来るときと同様に足取りは重かった。廊下から階段を降りると、小宮が立っていた。
「小宮さん」
小宮はほんの少し微笑んで頷いた。驚くのと同時に、そんな小宮の顔を見てほっとする。
「ああ、話は終わった?」
「はい。でもどうして?」
「いや、ちょっと気になってな。帰ろうか」
小宮はそれだけ言って、正門へ向かって歩き始める。何を尋ねるわけでもない。
七重が広中教授のところへ向かってから、ずっとあの場所で待っていてくれたのだろうか。
「小宮さん」
「ん?」
小宮は何事もなかったように振り向く。
「あの、どこかへ連れてってもらえませんか?」
そう言ってしまって、少し誤解を招くような言葉だったと思えてしまう。
「あの、どこか静かなところ・・・」
すぐにそれを打ち消そうとしたが、言葉の途中で今度はそれでもいいと思い直して、おかしなアクセントになってしまう。
といって、それを望んでいると思われるのも恥ずかしくて俯いてしまう。
「なんだ?おかしなやつだな」
「すみません。もし時間があれば、なんですが」
「それは構わないが。静かといってもなあ・・・また、和束へ行くか?吉野が落ち着ける場所だろう」
「いいえ、今日はちょっと」
「そうか。よし、少し帰りが遅くなってもいいか?」
少し考えを巡らせて、どこか思いついたようだ。
「はい」
「じゃ、琵琶湖でも見に行こう。静かで落ち着ける場所がある」
車は九号線に出て堀川通りからは一号線になる。そのまま山科を抜けたところで西大津バイパスを通って山あいを走る湖西道路へ入る。トンネルを二つほど抜けると、右手に琵琶湖が見え隠れする。
和邇インターから湖方面へと降りていく。そして、旧道をさらに北へ行き、蓬莱という駅の手前で湖岸を走る狭い道路へと折れる。少し行くと民家もまばらになり、岸までほんの僅かとなる。道路の横にところどころに空き地があって、適当なところへ車を停める。誰かの土地ではあるのだろうが、管理されているようには見えない。
「このあたりでいいかな」
小宮に促されて車を降りると、すぐそこが砂浜で漣が寄せている。海岸の砂浜のように細かな砂地ではないもののパンプスでは少し歩きにくい。
風がないために、漣といっても本当にほんの少し水面が揺れるほどである。時折、湖西線の電車の音が響くが、それが行き過ぎると、湖面で魚が跳ねる音がはっきりと聞こえる。
「本当に静かなんですね」
「だろう。それに琵琶湖の眺めもいい。寒くはないか?」
「大丈夫です。風もありませんから」
相変わらず小宮は何も尋ねないで、七重と同じように湖の遠くを眺めている。
「小宮さん、どうして何もお聞きにならないんですか?」
「聞かなくても分かっている。っていうと言い過ぎかな。断ってきたんだろう?」
「はい」
「俺が気にしていたのは、その結果じゃなくて、吉野が辛くなかったかなってこと」
「はい。やっぱり申し訳なくて」
「そうだろうな。だから一緒にいてやろうと思った。何ができるわけじゃないが、一人にはしておけなくてな」
「ありがとうございます。とっても嬉しかったです」
「気の利いたせりふの一つでも言ってやりたかったが、思いつかなかった」
「いいえ。そんな」
「ま、とりあえず大丈夫そうで安心した」
小宮は足元の小石を拾って、沖へ向かって投げる。それが思ったよりも近かったようで、もう一度、野球のピッチャーのように足を上げて投げた。ところが、今度はどうやら力が入りすぎて肩を回して痛いと言う。
やっぱり男の人だと思って微笑んでしまう。
そしてそんな小宮にすっかり抱き取られているような気がしてしまう。
「あの、小宮さん」
「なんだ?」
「もう一つの考えてみるお話です」
小宮は意外そうに七重を振り返って覗き込む。
「ああ、そうか。それは今日はやめておけ。今は多少なりとも動揺している。その勢いでってこともある。俺はそれでも構わないが、吉野が後で困るかもしれない」
そう言って、また小石を軽く投げる。ちゃぽんと音がして波紋が静かに広がる。
言われてみると、確かに今日は少し落ち込んでいる。自分の頑なさのために願ってもない期待を裏切ってしまったのだ。そのために広中教授の立場を多少なりとも悪くしてしまった気がする。結論は最初から出ていたことだが、そんな自分が融通の利かないエゴイストに思えてしまうところもある。
ただ、小宮のことを好ましく思う気持ちは変わるものではない。
「そんな、困るだなんて」
「そうか?ならいいが。じゃあ聞かせてもらおうか」
そう言って正面から七重を見る。
「そんな。だめです。向こうを向いていて下さい」
「ははは、わかった」
小宮は二歩ほど遠ざかって、湖面へ眼を向ける。
「あの、本当にこんな私でいいのですか」
「もちろんだ。ええと、何だっけ。頼りないくせに融通の利かない、美人でもなくて魅力もない吉野七重が好きだ」
小宮の声が笑っている。
「それはあんまりです」
「ああ、それは吉野が言っただけで、俺はそうは思ってはいない。どう言えばいいのか分からんが、ある種の強さ、一途さ、迷いのなさ、そういうところがいい」
「不器用なだけです」
「それならそれがいい」
「はい。これから一年間、よろしくお願いします」
「引き受けた。いや、こちらこそだ」
その言い方が可笑しくて笑ってしまう。
やがては諦めなくてはならない恋なのだろうと分かってはいる。
音楽のほかにもう一つ思い出がほしかった。
「でも、皆さんには内緒にしておいて下さい」
「どうして?」
「だって、恥ずかしいじゃないですか」
「よくわからんが、まあその方がいいならそうしよう」
「すみません。わがままばかりで」
「いや、ただ既に美幸には隠せないようだがな。あいつも鋭い。ホームコンサートの後、メンバーが帰ってから、何かあったのかと詰め寄られた」
「やっぱり。私もそんな顔で見られました」
「だから、そのままを話した」
「はい・・・でも、今度会うときはちょっと恥ずかしいな」
次第に陽が傾いて、山を背にした湖の西側は日陰になる。そして向こう岸の風景はオレンジ色に染まっていく。
「美幸は賛成してくれた。ただ、もしも将来俺たちが一緒になったら、吉野のことをお姉さんと呼ぶことになる。それはちょっと複雑だと」
「複雑?」
「ああ、折角いい友達になれたのに、ってね」
「お姉さんだなんて。七重でいいのに。それに、そういう日は・・・」
来ることはないと言う言葉を飲み込む。
今度は七重が水際まで近づいて、小石を投げ込む。
転ぶなよ、と小宮から言葉をかけられて、それに笑って応える。
「一年か。ま、先のことは分からんが、大切にしよう」
「それとも小宮さん、一緒にお茶屋さんやってくれますか?」
「ははは、美幸と同じことを言う。俺にそんな才能があると思うか?」
「いいえ。やっぱり音楽に打ち込んでいる姿が小宮さんらしいって思います。でも、私にも才能があるなんて思ってないんです。ただ好きなだけで」
「それが一番だ。好きこそなんとかって言うだろう。やはり俺は音楽が好きだ」
「いつからなんですか?」
「本気になったのは中学二年のときから。今でもはっきりと憶えている。兄貴が買ってきたチャイコフスキーのピアノコンチェルトを初めて聴いたときに体が震えた」
「ホルンで始まる曲ですね」
「ああ。ホルン吹きになろうと思ったのは、もう少し後だったが、クラシックの限りない世界に引きずり込まれた。クライバーンのピアノのせいもある」
「中学二年、そんなのは迷信みたいなものじゃないですか」
いつか小宮にいわれた言葉を返す。
「お、生意気な」
小宮もそれを思い出して笑う。
「そうだな、そういう意味では、吉野を変わっているとは言えないか」
「はい」
やがて向こう岸までが影に覆われて、上空の雲が赤くなって行く。
このまま、空いっぱいに星が見えるまで、この景色と小宮といることの居心地のよさに包まれていたい。だが、やはり少し寒くなる。それを告げると、小宮もそう思っていたと言う。そして少し心残りではあるが引き返すことにする。
どうしてこんなところを知っているのかと尋ねる。小宮がまだ学部生だった頃、もう少し先にある桜の名所を訪ねたときに、たまたま見つけたということだった。
車に乗って、エンジンをかける。外でいるときにはそれほど暗くなっているとは気付かなかったが、もうライトを点けなければ走れない。
小宮は一度点けたライトをまた消して、七重に少し顔を寄せる。
「吉野、キスしていいか?」
さらりと言うが、突然すぎて七重には返事ができない。驚いて小宮を見る。
小宮は少し微笑んで、七重の肩を引き寄せる。
それに抵抗するつもりはなかったが、反射的に腕に力が入り、あごを引いてしまう。
「とりあえず一年間の付き合いのはじまりだ。力を抜け」
「は・・・い」
七重はようやくそれだけ言って眼を閉じる。小宮の柔らかな唇が七重にそっと触れた。
初めてというわけではないのに、随分緊張している自分が可笑しくなる。
同時に、もしもこれ以上求められたら、と動揺もしてしまう。
「サンキュ」
ちょっとあっけなく思えるほどの短いキスだった。
そう言われて眼を開けると、小宮の顔がすぐ眼の前で、七重を見つめている。
やはり恥ずかしくて俯いてしまう。
「よろしくな」
そんな七重のおでこにもう一度短くキスをしてそう言う。
「はい。不束者ですが」
上目遣いに小宮の顔を見上げながら、ちょっと冗談めかしてそう応える。
「ははは、面白いやつだ」
「ね、小宮さん。一年間ですけど、途中で嫌になったら遠慮なくそう言ってくださいね」
「まさか。本当は一年じゃとても足りない。そんな軽い気持ちで誘っているわけじゃない」
小宮はそう言って、今度は七重の心の中まで見つめるような真剣なまなざしを向ける。
その視線に引きつけられるように七重も眼を逸らせない。今にも触れられる距離を保っているために七重の方が体を寄せてしまう。
「小宮さん」
「ん?」
「もう一度・・・」
七重は自分の言葉に驚かされた。
それが小宮の気遣いだったのかもしれないが、最初のキスは七重の心をそよ風のように通り過ぎてしまった。そのくせ、こうしてじっと七重を見つめて逃さない。そんな小宮がちょっと憎らしい。
小宮はふっと微笑んで頷いて、何も言わずに再び唇を寄せる。
今度のキスは心にずんと響いた。
今までは心の波に流されることを嫌がるように膝から動こうとしなかった自分の手。それがいつの間にか、小宮の腕にしがみついている。
これまで何度か顔を出しかけては押さえ込んでいた七重自身の気持ちが、七重を動かしているのだ。やはり小宮のことが好きだった。
そして、七重自身の心も、小宮の気持ちもしっかりと刻み付けておきたかった。
こうして小宮に触れられていることで、自分の心が本来あるべきところへ戻っていく、そんな気がするのだ。
次第に七重の心は穏やかな暖かさと静けさに満たされ、落ち着きを取り戻してきた。
すると眼を閉じていても小宮の微笑が伝わってくる。
体を引いて小宮を見上げると、今度は和束へ向かう車の中で見せた優しい視線に出会う。
七重は少し子ども扱いされているような気持ちになりながら、それでもいいと思って小宮の肩に頭をうずめる。
「可愛い子だ」
「子、ですか?」
「言葉のあやだ」
「でも、それでもいいです」
「何にでも健気で一生懸命なところがいい。ちょっと危なっかしくはあるが」
「すみません。でも、それが七重です」
いつの間にか空も暗くなって、向こう岸の彦根、近江八幡、守山と街の明かりが点っている。琵琶湖大橋も灯りが続いて、かえってはっきりと見える。
「行こうか」
止まっていた時計をまた動かすように小宮が言う。
「はい」
七重も体を起こして座りなおす。
冷静に戻るとやはりはしたないことを言ってしまったと思う。
「このまま一晩中でも一緒にいたいが」
細い道を注意しながら戻る。
「それは・・・困ります。これ以上幻滅されると辛いので」
「幻滅って?」
「はい・・・女の子として魅力がないのは事実ですし。それに、さっきは女のくせにはしたなく・・・」
「そんなことか。正直俺はほっとしている。またこの間のように泣き出すのじゃないかと心配していた」
「すみません」
「だから嬉しかったよ。ま、たしかに吉野にしてはよく言えた、とは思うがな」
「はい。自分でも自分の言葉に驚いてしまいました」
「いざとなると人が変わる。そういえば演奏でもそうだな。それまではこっちがひやひやしているのに、曲が始まると別人になる」
以前佐織にも同じことを言われた。
「Kフィルのことにしてもそうだ。いつもの吉野からは想像できない意志の強さがある」
「母譲りの性格だと思います」
「肝っ玉母さんてタイプ?」
「いいえ。普段は、優しくて、おっとりしてて、お人よしなんです。でも、こうだと思うと父も押し切られてしまって」
「なるほど、お前をそのまま大人にしたような方だな」
「きっと」
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