第7話
《七》
三月十日、五重奏の本番。
院生たちにとっては試験である。七重は失敗しても成績に関係するわけではないが、彼らにとっては半年の課題の結果につながる。そう思うとミスは許されない。
会場はアンサンブル用の小ホールで、ステージも十人ほどしか乗れない広さだ。
客席は、椅子を並べると百人ほどが入ることができる。その最前列に、今日は机が三台ほど並べられている。そこに審査員の教授たちが並んで座ることになる。その後ろには、学部生や院生が三十人ほど観客というよりもむしろ勉強のために集まっている。
ステージで簡単にチューニングをして、教授たちが揃うのを待つ。
さすがに院生たちで、緊張している様子はない。一番緊張しているのは七重だった。
「吉野さん、気楽にやりましょう。いつものように楽しんで」
七重の様子を見て、高田さんが声をかけてくれる。
「はい。でも」
「いいの。評価されるのは私たち。あなたが少々ミスしても関係ないのよ」
「わかりました。がんばります」
「いいえ、頑張らなくていいの。いつも通り」
すぐに教授たちが現れた。
主席審査員の広中教授ともう一人はよく見かける教授で、その他にも更に三人が審査員席に着く。年齢的にも若く、助教授か助手なのだろう。そして、もう一人少し年配に見える男性が、審査員席のすぐ後ろに座って、広中教授と二言三言笑顔で言葉を交わしている。
合図を受けて、一応のリーダーである中山先輩が、曲目とメンバーを紹介してよろしくお願いしますと一礼する。
お互いに顔を見合わせて頷きあう。
結城さんが楽器で合図を送り、曲が始まる。
最初の全員での四分音符のあと、クラリネットの分散和音に乗ってオーボエのメロディが流れる。ホルン、ファゴット、そしてフルートが音を分け合ってそれを支える。
曲が流れ始めると、いつものように五人だけの世界がそこに広がっていく。
テンポの変わり目や、同じタイミングで音を出すときには、お互いに眼で合図をして、体を揺らせて呼吸を合わせる。
皆、これが試験だという雰囲気ではなく、純粋に音楽を楽しんでいる。
一楽章、二楽章と問題なく進む。三楽章はフルートが目立つ楽章である。いつもより他のメンバーから寄せられている期待が大きく感じられて、ほんの少し華やかに歌う。
そうしたやり取りが自然にできるようになっていることが楽しい。
ただ、皆の気持ちも高揚していたのか、四楽章はいつもよりも少し速いテンポで始まった。中盤のファゴットの速いパッセージは苦しいかもしれないと思う。しかしそれも杞憂で、中山先輩は遅れることも音を飛ばすこともなく見事にこなした。
最後のコーダではそれぞれが心の整理をつけるように落ち着きを取り戻して、一つ一つの音を丁寧に扱う。そして最後の四分音符二つは全員の和音で曲が終わる。
残響が消えたときに、各自が楽器を唇から離す。
その一瞬の沈黙を破るように、一人の拍手が聞こえた。先ほどの教授たちの後ろに座っていた男性が立ち上がって拍手を送ってくれている。
そしてすぐに、観客の学生たちも、審査員だった教授たちも、それに納得するように頷きながら拍手を送ってくれる。
中山先輩の合図で、五人が立ち上がって会釈をする。
広中教授が他の審査員に確認を取って、メンバーに笑顔を向ける。
「本来ならば、持ち帰って再度採点会議を行うところだが、その必要はないようだ。審査員一致で全員『優』。トレビアンだ。いい演奏だった」
他の審査員たちも頷きながら笑顔を向けている。
院生はそのままステージを降りて、教授たちのところへ行き挨拶をする。学部生と教授の関係よりもずっと近く、遠慮したり緊張している素振りはない。
「随分練習をしたのじゃないかね」
広中教授が中山先輩に話しかける。
「年末からスタートして二ヶ月です。でも、メンバーが良かったので楽しんでできました」
「ああ、それは今日の演奏を聴いてよく分かった。音を楽しむ原点があった」
「はい、途中からは試験の課題だったことも忘れていましたから」
「ははは、そりゃあいい。しかし、この演奏をここだけで終わらせるのは惜しいね。何か特別企画でも考えてはどうかな」
「なるほど、みんなと相談してみます」
「期待しているよ。じゃあ、ご苦労さん」
教授陣が会場を後にすると、学生たちもそれに続いて解散していく。
それを見送って、五人だけがホールに残った。
「みんなお疲れ。おかげで全員優だってさ」
発案者の中山先輩がほっとした顔を見せる。
「まあ、優はどうでもいいが、いい時間を過ごせた。中山君の計画のおかげだ」
小宮がそれに応え、高田さんと結城さんも頷く。
ホールはすでにがらんとしている。ただ、五人ともこれで解散してしまうのが名残惜しくて、それを言い出せない。
「反省会、やるか?もしもみんなの都合がよければだけど」
小宮がためらいがちに提案すると、皆笑顔で賛成する。七重も同感だった。
「じゃ、代わり映えはしないが、また家へ来てくれるかな。ばあさんが今度はいつ来るのかって楽しみにしているんでね」
他のメンバーに異存はなかった。迷惑ではないかと高田さんが気を使ったが、小宮からは逆に何も持ってこないように釘を刺された。
その場で小宮が家に電話をして、前回と同様に夕方六時に集合となった。
ただ今度は、おばあ様と美幸さんから是非ともメンバーの演奏が聞きたいとのリクエストされた。皆それを断る理由はない。ちょっとしたホームコンサートというのも新鮮だ。陽の目を見なかったダンツィもやってみようということになる。
その時に事務の女性が現れた。
「ええと、吉野さん、いる?」
「はい。私です」
「広中教授が呼んでらっしゃるの。一緒に来てもらえる?」
「は・・・い」
広中教授はピアノが専門である。講義も指揮法で七重との接点はオーケストラだけだ。教授に呼ばれる心当たりはない。
「あ、お客様とご一緒で」
七重の不思議そうな顔を見てそう付け加える。
「まあ、行ってらっしゃいな。じゃ、六時にね」
高田さんの言葉に押されて、彼女に付いて行く。
「あの、お客様って?」
「さあ?でも教授の言葉遣いから、少し上の方みたい」
本館二階の長い廊下の途中に研究室があり、その隣にいくつかの研究室が兼用で使っている応接室がある。その前で立ち止まって軽くノックをする。
「吉野さん、ご案内いたしました」
そう言って、七重を中へ引き入れて去っていく。
「ああ、済まないね。今日はご苦労だった。少し時間はあるかな」
「はい、大丈夫です」
お客様は、先ほど教授たちの後ろで演奏を聞き、最初に拍手をしてくれた男性だった。広中教授よりは十歳程度年上に見える。
「こちらは、Kフィルの森本さん。芸大の大先輩で、私がフランス時代に大変お世話になった方だ」
そう紹介されても七重にはピンと来ない。
「森本です。わざわざお呼び立てしてすみませんね」
「吉野です。今日はお聞きいただいてありがとうございます」
「おや、気付いていてくれましたか」
「はい、最初に拍手をいただきました」
「ああそれで。院生の試験だということを忘れて場違いでした。でも、いい演奏でしたよ。さ、どうぞお掛けになって下さい」
言葉は丁寧だが、じっと見つめられると身がすくむような柔らかな迫力がある。
「いいえ、私はここで」
七重は遠慮してしまう。
森本さんはにこりとしたものの、それ以上は勧められなかった。
実はねと広中教授が話を続ける。
「森本さんはたまたまお出でになったのだが、これから試験があると申し上げたら是非聞かせてもらいたいと仰ってご案内したんだ」
「はあ」
「それで今ようやくお話を伺って、君を呼んだというわけだ」
「私に何か」
「森本さんはKフィルでフルートの主席をしてらっしゃる。そこで、誰か有望な若手を探してらしてね」
ようやく少し話が通じてきた。
「私ももう六十になるのでね、そろそろ引退を考えないといけません。そこで、昔からの友人の広中君に相談に来たんですよ」
「そこでちょうど先ほどの演奏を聞かれて、君に是非と」
七重は言葉が出なかった。
「院生の演奏だと聞いて、それならばと思ったんですがね、吉野さんはまだ学部なんですね」
「はい。三回生です」
「残念です。学部じゃ勉強との両立は難しいでしょう。ですから、もう一、二年頑張ることにしました。卒業まで待ちますよ。いかがですか」
「いえ、私なんか、そんな」
「吉野、大きなチャンスをいただける。素晴らしい話じゃないか」
「あの・・・私、音楽は大学までと・・・」
「何だって?」
いつもは温厚な広中教授が驚いて血相を変える。
「まあまあ、広中君。吉野さんにも考えがあるんでしょう。それにしても、吉野さん、今日のライヒャの三楽章。あの華やかな歌い方は?ベルリン?」
「はい。先輩のCDを参考に」
「ゴールウェイですね。だと思いました。しかし、彼の透明感と表情は簡単に真似できるものじゃないんですよ」
「何度も何度も聞きましたから」
「いやいやそういう話ではなくて、いくつもの音色とその使い分け。少々の練習で身につくものでもない。きっとあなたがもともと持っているものが近いのですよ」
「そんな、とんでもないことです」
「ま、今日すぐにどうこうという話でもありません。どの道、あなたが卒業してからの話でもありますしね。でも、一度考えてみてください」
そう柔らかく引かれると、無碍に断るわけにも行かない。
「はい。ありがとうございます」
七重はそれぞれに丁寧に礼をして応接室を出た。きっと広中教授は森本さんに詫びていることだろう。楽器を志す者にとっては、飛び上がるほどの誘いであるはずなのだ。
そのことは七重にも理解できる。
実力があってもチャンスに恵まれなければ、プロになって稼いでいくことは難しい。
どんなオーケストラでも管楽器のポストは限られている。メンバーが辞めるときにその空席を埋めるため、倍率の高いオーディションをパスしなければならない。こうしてスカウトの眼にとまって誘われることは例外なのだ。
しかし七重には、どうしても自分がプロでやっていけるとは考えられない。
真似をしたり、その結果演奏が似ているということと、それが本当の実力であるということとは別の話である。
もっとも、それができているのかどうかも今の七重には大きな関心事ではない。
小宮に、そして博志兄さんに言われたときでさえ、七重の心は変わらなかった。要はその気がないのである。
確かに今回の五重奏のように、音楽を作り上げていくのは楽しい。その中で自分の足りないところを磨いて、回りに喜んでもらう努力も楽しい。
それを職業にする気がないのだ。
考えてみてほしいという森本さんの要望をすぐに断るのは失礼だと思い、一応考えることに同意はした。しかし、実際のところ考えてみるまでもなく、答えは出ているのだ。
ただ、広中教授には申し訳ないと思う。少し時間をおいてから、きちんと七重の考えを伝えて、断わり詫びる必要があると思う。
「やっぱり変わっているのかな・・・」
長い廊下を引き返しながら、自分にそう問い直す。
「でも、それが私だもの、仕方ないよね」
演奏を終えた充実した気分にちょっと陰りが生まれてしまった。
きっと小宮の家に行けば、皆から何事だったのかと問われることになるだろう。
嘘を言ったり、ごまかすことはできる。でもそうはしたくなかった。
私は私で、自分の考えをきちんと伝えるべきだと思う。
しばらく歩いていると、短いクラクションを二度鳴らして車が七重の横で止まる。
振り向くと小宮だった。
「一緒に帰らないか。どこか寄るところがあれば付き合うよ」
助手席の窓を開けて、笑顔でそう声をかけてくれる。
「いいえ、今日は何も持ってくるなということでしたから」
「早くに着いてしまうが、美幸も話したがっているから」
「はい。お願いします」
小宮は手を伸ばして助手席のドアを開けてくれる。
相変わらずホルンは後ろの座席でシートベルトをかけて落ち着いて座っている。
「で、広中教授の用事って何だった?」
「はい・・・」
七重は何から話そうかと迷う。
「スカウトの話だったんじゃないか?今日来ていた人は、確かKフィルのフルートの人だろ。名前は思い出せないが、何度か聴きに行ったことがある」
「森本さんと仰るそうです」
「そう、森本さんだ、森本高明。フルート協会の重鎮だ。それで?」
「はい、そんな話になったんですが、私がまだ三回生だと聞いて残念だって」
「やはりな」
「もう六十歳になるので引退を考えてるんだそうです。で、一、二年それを延ばして待っていると言われました」
「すごいじゃないか。そんな人から誘われるなんて、これ以上はない」
「はい、ほめてもいただきましたが・・・」
「まさか断ったんじゃないだろうな」
驚いて路肩へ車を停める。
「いえ、考えてほしいと言われて、そのことには、はいとお答えはしたんですが」
「それでも実家のお茶屋を継ぐ方を選ぶのか」
「私としては」
「まあ、否定はしないが、こんなチャンスは二度とないのに」
小宮はちょっとため息を漏らして、再び車を動かす。
「すみません」
「俺に謝ることじゃないが」
一号線に出て、赤池のあたりで少し渋滞にかかる。
小宮はしばらく黙っていたが、信号で止まったときに七重を振り向いた。
「吉野がKフィルにいくなら、俺は一足先にオーディションから入団しても良かったんだ」
「そんな、小宮さんは市響にって仰ってたんじゃないですか」
「ああ、もちろんそれもいい。しかし日本でオケに入るなら、そこまでこだわりはない。それよりも吉野と一緒にやりたかった」
「私と?」
小宮は、少し微笑んで見せて続ける。
「いや、ムードがなくて済まないが、これは俺流の告白だ」
「告白って、何のですか」
「相変わらず鈍いなお嬢様は。吉野の才能云々もあるが、それだけじゃなく俺は吉野と一緒にいたいってこと」
「まさか」
「なんでまさかなんだ?」
「でも、え?やっぱりまさかです。そんな」
小宮の言葉が、よく飲み込めずにうろたえてしまう。
「まあ、すぐに返事をもらおうとも思っていない。しかし俺は、一、二年もは待てないが」
七重にはどう考えても信じられることではなかった。こんなコンプレックスの塊のような自分なのに。
驚いて恥ずかしくて顔を上げられずにいると、涙がこぼれてきた。止めようとする意思に反して次々と湧き上がってくる。
「どうした?」
運転しながら少し振り返って小宮も驚いたようだ。
七重はハンカチを取り出して涙を拭こうとしたが、その手が震えて止まらない。
嬉しいという気持ちはある。だがそれだけではない何か激しい動揺が心を揺らせて ただ涙がこぼれる。
こんな姿を小宮に見せてはいけないと思いながら、どうにもコントロールできない。
「すみません」
ようやくそれだけを言って、眼を閉じて心を落ち着けようとする。
しばらくして、車が止まる。国道沿いにあるファーストフードの広い駐車場だった。
「どうした?」
小宮は先ほどと同じ口調でそう尋ねる。
涙は止まったものの、今度は恥ずかしさで顔を上げられない。
「あの・・・自分でも分からなくて・・・」
「困らせてしまったかな」
そう言って七重の顔を覗き込む。その視線が辛くてまた余計に小さくなってしまう。
「あの、小宮さん、こっちを見ないで下さい」
「ん?・・・ああ、わかった」
「困りました。って言うより、信じられません。また私のことをからかっているんですか」
「それこそ、まさか、だ。そんな人間だと思うか?」
「でも・・・」
七重の心の中で少しずつ動揺の理由が分かってきた。
七重の小宮を思う気持ちは自分で思っていたよりもずっと大きかったようだ。だがそれを自分で否定して、見ないようにしてきていたのだ。自分への自信の無さと、進む道が違うという理由から、思ってみても仕方のないことだと押さえ込んでいた。
そして、小宮の優しさや気遣いも、単に音楽上のことだと割り切っていた。博志兄さんからそんなことを言われた時でさえ、自分にはその資格はないと決めつけていた。
そうすることで心の平穏を保っていたのだ。
その思いは今も変わってはいない。いつもなら小宮の言葉をきっと冗談にしてしまうか、一般的な音楽の話にしてしまっていたのだと思う。
ところが今日の演奏は七重の気持ちを高ぶらせていた。そして森本さんからのスカウトの話で少なからず動揺していた。そこへ突然の小宮の言葉だったために、傷つかないでいるための鎧を身にまとうことができなかったのだ。
「最初はあのリハーサルで、言葉はおかしいが『ひと耳惚れ』でしかなかった。でもな、それがきっかけで、お前のことをいつも気にかけるようになった」
小宮は静かに話し始めた。
「吉野が、お茶の話をするときの生き生きとした様子。演奏会のアンコールで頼りなく立たされて真っ赤になっていた姿。アンサンブルでは一番に来て準備をし、忘年会に他の連中を待たせないように早く来ていた。どれも俺には新鮮で、好ましく思えた」
「そんな、当たり前のことですし、単に私が単純で頼りないっていうだけのことなのに」
「他にもある。兄貴とも仲がいいこと、家の美幸や春江さんがすぐに好きになったこと」
「春江さん・・・が?」
「ああ、あの日みんなが帰って開口一番がそれだった。控えめで素直だし、所作のきれいな人は人柄もいいって。その点は俺にはよく分からなかったが、後になって考えると吉野がお嬢様に見えたのはそんなところからかもな」
「かいかぶりです」
「ま、そんなことは取ってつけたような理由だ。実は俺も少し悩んだ。音楽仲間としての気持ちなのか一人の人間としての思いなのか。そして、吉野が音楽から離れることになったらどうなのかってね」
七重は頷きながら、小宮の言葉が快く自分の心に浸みてくるのを感じていた。
「だけど、今日アンサンブルが終わって、やはりいつも一緒にいて吉野のことを見ていたいと思った。言葉にすると軽々しいけど、お前のことが好きだ」
決して小宮の言葉は軽々しくはなく、好きだという一言で七重は逃げ場がなくなってしまった。そして自分も小宮のことを好ましく思っている気持ちを認めざるを得なくなった。
だが同時に、自分には小宮の気持ちに応えていくことができないことも、あらためて思い知らされるのだ。
「嬉しいです。そんな風に言ってくれた人は初めてです。こんな頼りないくせに融通の利かない、美人でもなくて魅力もない私に」
「でもそれが吉野七重で、俺はそのままでいいと思っている」
それまでぐずぐずと動揺していたはずなのに、一旦結論が出ると七重は揺るがない。
「小宮さん、本当にありがとうございます。でも、私には小宮さんの気持ちに応えていくことができません・・・ごめんなさい」
小宮は行き過ぎる車や人をぼんやりと見ながら、やはり七重の言葉に少し視線を落とす。
「・・・そうか、仕方ないな」
七重には同じ気持ちがないと受け取ったようだ。だが、それは少し誤解している。
「あの、私も小宮さんのこと大好きです。いつも気遣ってくれているうちに。でも私なんかが、っていう気持ちで押さえ込んでいました。だから、動揺してしまって」
「じゃあ、なぜ?」
堪えられなくなって七重をまっすぐに見つめる。
七重は、今も照れくささは変わらずにあるものの、その視線から逃げようとは思わなかった。小宮の視線に無理やり笑顔を作って応える。泣き笑いのひどい顔だろうと思う。
「あと一年で私は音楽の世界から離れて、宇治で生きていきます。小宮さんには市響だけでなく世界で活躍してほしいし。住む世界が違いすぎます」
「吉野の意志も尊重しているし、俺もチャンスがある限り頑張っていくつもりだ。しかし、音楽を止めてしまうこともないだろう」
「はい。今回、院生の皆さんとの音楽はすごく勉強にもなったし楽しかったんです。でも、皆さんの姿勢にも触れることができて、趣味程度で同じ世界に身をおくなんて、とっても失礼なことだとも気付きました」
「まあな、それは分かる気がするが」
「二つのことを同時にこなしていくなんて器用さもないですし」
「しかし、まだ一年ある。一年かもしれないが、俺は大切にしたい。同じ時間を過ごして、吉野のことを見ていたいし、理解したい」
「そんな価値のある人間ではありません。それにそんなことになったら、お別れするのが辛くなるだけではないですか」
「俺はそれでもいいと思う。が、お前に無理は言えない」
「私って、やっぱり変わってますね。こんなに嬉しいことはないはずなのに」
「ああ、変わっている。だから面白い」
「面白いだなんて・・・少し考えさせてください。こちらは本気で考えます」
「こちらは、って?」
「Kフィルの方は建前でそうお答えしたんですけど、私の気持ちは決まっていますから」
「なるほど」
一年間を大切にしたいという小宮の考えも理解できる。
高田さんに言われたように一つくらい恋をしてみたいという思いもあった。それにどんな恋でも終わるときには終わるのだ。そうしたら、どうしたって辛い思いをすることは避けきれるものでもない。
少しいい加減かもしれないが、そんな風に考えることもできそうな気がする。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
「はい。すみません」
「じゃあ、もう少し先に落ち着いた喫茶店がある。そこでコーヒーでも飲むか」
「時間は大丈夫ですか?美幸さんに会うのは私も楽しみです」
「その顔じゃ俺が泣かしてしまったことがすぐに分かる。美幸に叱られたくはないからな」
「すみません」
小宮はゆっくりと車を走らせて、八幡市に入る手前にあるコーヒーのチェーン店に入る。
七重は注文だけしてすぐに化粧室に入る。
鏡に向かうと、小宮の言ったとおり、今まで泣いていましたという顔をしている。そのことが可笑しくて今度は一人で笑ってしまう。
簡単にお化粧を直して、いつものように笑顔でいなきゃと気を取り直して席に戻る。
そしてしばらく二人が出会ってからの思い出や、お互いに考えていたことを話し合って小宮の家へと向かった。
美幸さんと春江さんも一緒にお茶を飲んで話が弾んだ。
春江さんから、小宮から聞かされた所作について尋ねられた。思い当たるのは茶道で学んだことくらいですと応えると、道理でとひどく納得していた。
途中からは小宮のおばあ様も会話に加わって、改めて自己紹介をする。あなたが山吉のお嬢さんでしたかと親しみのこもった笑顔を送ってくれた。初めて会ったおばあ様は、八十歳が近いと聞いていたのに、凛とした雰囲気のある素敵な方だった。
あれこれと話の飛ぶ中で、美幸さんから一度だけ首をかしげてじっと見つめられた。だが、特段何かを尋ねられもしなかったので、七重もそのことに気付かないふりをしていた。
やがて、約束の六時を待たずにメンバーが揃い、観客はおばあ様と美幸さんだけのコンサートとなった。
もとより誰かに聞かせるための集まりではなく、自分たちが楽しむための時間である。
楽章の合間に、今日の試験での演奏を振り返り、更に良くするためのアイデアや意見を伝え合う。そしてそれを実際に音にして楽しむ。
きっといい音楽というものに終点はないのだろう。
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