第6話

  《六》

 二月十四日、五重奏の練習日。

 五人が集まったところで高田さんが男性陣へチョコレートを配る。

「いつもお世話になってます。吉野さんと私から。義理だけど、感謝の気持ちは本当よ」

 七重は高田さんの後ろで会釈をする。

 彼らも義理だと分かっていても、笑顔で喜んでくれる。

 そしていつもの練習が始まった。

 先週の練習の後、高田さんから声をかけられて、二人で百貨店へ出向いたのだ。

 この時期は、どこのお店でもチョコレート一色になる。小学生から中年の女性まで、バレンタインコーナーは女性で溢れている。

「結城君は童顔だから女子高校生風、中山さんは体重を気にしてあげて甘さ控えめね」

 高田さんの意見に笑ってしまう。

「そして、小宮さんは七重色を出して抹茶入りでどう?」

 そう言って少し微笑んで見せる。

「どうして私色なんですか?」

「だって小宮さんのお気に入りじゃない。それとも、本気チョコを準備する?」

「いいえ。そんなこと考えてもみませんでした」

「でも、それもいいんじゃない?目下、あのメンバーで決まった相手がいないのは、小宮さんとあなたの二人。それとも吉野さんには内緒の人がいるのかしら?」

「いいえ、残念ながら」

「じゃ、それでいいじゃない」

「でもちょっと恥ずかしいです」

「いいのよ、どうせ義理なんだから。もしもそこから何かが始まったらラッキーってね」

 終始高田さんのペースだった。

 感謝の気持ちからすると、やっぱり小宮に対してその思いが強いのは事実でもある。その気持ちを込めるのならば、そう気にすることはないのかもしれない。

 買い物を済ませて、近くのオープンカフェでコーヒーを飲むことになった。

「高田さんは、本気チョコは良かったんですか?」

「あ、うん。彼もちょっと太り気味だから、甘いものは禁止してるのよ」

「じゃ、お酒とか身の回りのものですか」

「それも、向こうは社会人だから、足りてるし。悩んじゃうのよね。いっそのこと、その日は自分にリボン巻いてデートに行こうかな」

 少し考えて、その意味が分かると、聞かされた七重の方が赤くなる。

「どうしたのよ、赤くなっちゃって」

「いえ、ちょっと驚いただけです」

「全く。ウブなんだから。でもそういうところが放っておけないのかもね」

「は?」

「小宮さん」

「まさか。もしそうだとしても、きっと妹さんと同じように思ってくれているだけです」

「そうか、確かにそれもあるかもね」

 そんな会話をしたものだから、高田さんが結城さんと中山先輩にチョコレートを渡すときに、ちょっと笑ってしまった。

 それがちょうどいいご愛嬌になったようで、見咎められることもなかった。

 七重は、しばらく特訓を続けてきた成果で、高めの音域で細いけれども弱々しくならず艶のある音色が出せるようになってきた。中低音の楽器全体が震えるような豊かな音はまだ出せない。

 メンバーはすぐにそのことに気付いてくれて、中山先輩が輝く絹の糸のようだとほめてくれる。もちろん、そんな詩的な表現が似合うほどのものではないことは、七重がよく分かっている。ただ、その一つの音色を手にすることで、表現方法の幅が格段に広くなる。それはこれまでの経験の中で画期的なことだった。

 そして、予定の時刻になると、あっさりと打ち切って次の予定に向かう。

 そのことが七重にはちょっと可笑しくもあり、自分にそういう予定のないことが少し淋しくも思えてしまう。

「吉野は、予定はないのか?」

 小宮も少し苦笑いの顔である。

「はい。私は」

「ああしていそいそと出かけていくのを見せ付けられると、連れ合いのいないのはお互いに淋しいな」

「そうですね。でも私はもう諦めていますから」

「ほ、それもそれで淋しいことだ。どうだ、少しドライブにでも行かないか」

 七重は内心どきりとする。

「小宮さん、旧友の妹だからといって、私なんかのために気を使わないで下さい。一人には慣れていますから」

 小宮の言葉の意味をあえて形式的なものに片付けてしまおうとしてしまう。

「そういうわけじゃない。俺が一人でつまらないから」

 小宮も七重の意図を感じたのか、軽く冗談めかした言葉になる。

「じゃあ、いいところを紹介しますから、乗せて行ってもらえますか?」

「お、付き合ってくれるか」

「はい。小宮さんに是非とも紹介したいところがあるんです。和束ってご存知ですか?」

「いや、どこ?」

「木津川の近くのお茶の産地なんです。本当にはずれですけど、一応京都府なんです」

「あの辺りまでだと一時間と少しだな」

 すぐにキャンパスを出て、車を走らせる。そして途中からは高速に乗る。

 小宮は七重が家業を継ぐつもりであることを知っている。そしてある程度理解もしてくれている。そんな小宮だから、和束の風景や茶畑を見てほしいと思ったのだ。

「小宮さん、茶畑ってご覧になったことありますか?」

「ああ、漠然とはね。静岡辺りだと新幹線からも見えるだろう」

「ええ。今日は私が子供の頃から駆け回っていたところをお見せします」

 山岡なら、ひと声かければ出入りは自由にさせてくれるはずだ。そろそろ春に向けて鍬を入れ、最初の肥料をやる時期で、おじさんも頑張っているかもしれない。

 小宮も年末の忘年会から春江さんやおばあ様に勧められて、お茶を飲む機会が増えたという。そして、やはりそれまでのお茶についての概念を変えざるを得なくなったらしい。

 七重にも厳密にはまだあやふやなところはあるが、一通り宇治茶の歴史や種類、育て方や淹れ方の知識はある。それを話していくと、小宮は一つずつに驚いたり感心したりする。

「なるほどな」

 ふと言葉が途切れた後に、小宮がそう呟く。

「もっと上手くお話できればいいのですが」

「いや、お茶の話も面白いが、吉野のことだ。本当にお茶の世界が好きなんだなって」

 七重が小宮の顔を見上げると、優しい顔に出会う。

 夢中になって話していた自分が、何だかひどく子供じみているように思えてもくる。

「退屈なお話でしたか?」

「まさか、話の内容も、それを話している吉野も新鮮だった」

「お茶は好きって言うより、子供の頃からそういう環境で育ちましたから、それが私の住む世界になっているんだと思います」

「なるほど。しかし、フルートに夢中になっている姿を見ると、それにも感心させられるんだけどな。面白いやつだ」

「多分、何かを適当にこなしていく器用さがないんだと思います」

 車は二十四号から百六十三号へと折れ、途中から和束へ抜ける五号線に入る。狭い谷あいを抜けると、和束の町になる。道の右手にはすぐ横に茶畑があり、左手には四、五メートルほどの高台に幾分広めの茶畑がある。

 そして市街地になり、数少ない信号で止まる。市街のすぐ裏にも茶畑が広がっている。

 その光景に小宮も驚いていた。

「もう少し先に、山吉がお世話になっている山岡さんの畑があります」

 小宮は言われるままに車を進め、年末に七重が挨拶に来たときと同じ空き地に停める。

 いつもなら納屋の隣に停めてある軽トラックがない。どこかへ出ているようだ。

 畑への小道で、小宮に少し待っててくださいと言い、一応山岡の家を訪ねる。

 やはり格子戸に鍵がかけられていた。

「お留守でした」

「そう。いいのかな、勝手にうろついて」

「大丈夫です。泥棒するって言っても、お茶の木を持っていくわけにはいきませんから」

「そりゃそうだ」

 斜面を歩き、畝の間の細い隙間を通って、年末におじさんと話をしたところまで登る。

 慣れているとはいえ、一気にここまで来ると少し息が切れる。

「すみません。ここからだと畑が見渡せますし、遠くも見えますから」

 言葉の途中で息継ぎをしながら、そう言って小宮を振り返る。

「ああ、いい眺めだ。しかし運動不足だな、俺も」

 同じように言葉が切れる。

 まだお茶の木は冬の顔で、葉の表面は白く見える。

「茶畑って言うのは、自然の地形を活かしながら一定のリズムがあって、一枚の絵だ」

 周りを見渡しながら小宮がそう言う。

「一番寒い時期ですから、緑もくすんでいますけど、夏になると本当に素敵なんですよ」

「ああ、きっとそうだろうな。ところで、あの高いところにある扇風機は?」

「新芽の頃に霜が降りないように風を送るんです。新芽が痛むと、いいお茶の葉が取れなくて大変なことになりますから」

「なるほど。自然が相手だと苦労も多いってことか」

「だから面白いって、おじさんには言われています。気まぐれに悩まされることはあるけれど、手をかけただけ応えてくれるのも自然だって」

「いい言葉だ。それは音楽にも通じるな。これくらいで、と思ったら、それくらいの音楽にしかならない」

「あ、本当にそうですね」

「道は何であれ、極めて行くってのは同じかもしれない」

 遠くの山の斜面にも茶畑が広がり、よくあんなところにと小宮は感心する。

 たしかに、停めてあるトラックが斜めになっていて、その坂道の急な勾配が見て取れる。

 ずっと見慣れている七重にはそう珍しくはないことが、小宮には興味深く映るようだ。そしてその言葉で改めて気付かされることがいくつもあった。

 おじさんと歩いたコースを通って家の裏に出る。山裾の若木も元気でほっとする。

 まだ、帰ってきてはいないようで、しんとしている。

 もっとも、おじさんに会ってしまうと、小宮をどう紹介すればよいのか困るところもある。きっと、おつき合いあいをしている男性だと思われるだろう。むしろ今日だけは会わずにいたほうが良かったようだ。

「寒いばかりで、あまりムードがなくてすみません」

 二人で坂道を下る。

「いや、いい所を見せてもらった。同じ日本で、同じ京都で、知らないことが山ほどあるってことがわかったよ」

「お店は宇治ですけど、私は半分くらいここで育った気がします」

「そうか、自然の中で。いい環境だ」

「だから、お嬢様なんかじゃありません。お茶の木の間を走ってて、いつも足には引っかき傷がありました。そんなお嬢様なんていないでしょう」

「あはは、そりゃそうだ」

 陽が傾くと盆地の和束には早く夕方が来る。

 小宮はそのまま宇治へ送ってくれる。

 そして新茶の頃にまた行ってみたいと言ってくれた。

 来る道では七重が一人で話していた。そのことを反省して、黙っていると、小宮から遠慮をせずにもっとお茶の話をしてほしいと見抜かれてしまう。

 とはいえ、そうそう小宮に関心を持ってもらえそうな話があるわけではない。今度は小宮の順番だと聞く側に回る。

 お眼にかかっていない両親の話になり、何度か連れられて行ったタイの話になる。親日的な国であり、治安もいい。だから多くの日本企業が東南アジアへの拠点をタイに置き、自ずと日本人もたくさん住んでいる。何しろ物価が安く、八幡の家も広いが、それよりも更に豪華な家が普通の賃貸マンション並みの値段で借りられる。

 そして日本の学生アルバイトよりも安くメイドさんが雇えて、何から何まで任せられる。

 お母様も、日本から赴任している奥様方と同様に優雅な暮らしをしているそうだ。エステにスポーツにグルメ、それも日本とは比べ物にならない値段で楽しめる。どうやら奥様方にとっての楽園で、帰って来たがらない気持ちがわかるという。

 ただ、特に京都のように深みのある文化とは縁遠く、季節のうつろいを自然とともに感じていくという風情はない。

 そういう意味で、日本人が永住して老後を送る場所ではないようだ。

 そろそろお父様も定年を迎え、そう遠くない将来、帰国することになるらしい。

 小宮自身は、音楽活動の面からは、一度はヨーロッパへ行きたいという気持ちもある。しかし、住むとなると日本がいいという。

 人には原点というものがあって、そこへのこだわりは人によって異なるものらしい。

 七重にとっての原点は、やはり宇治と和束なのだ。

 そんな話をしてくれているうちに宇治に着き、あっさりとまた来週、と別れてしまった。

 高田さんの言った、そこから何かは始まりはしなかった。

 ただ、僅かでも何かを期待してしまう自分の気持ちに気付いて、少し動揺してしまう。そして、無理をしてそんな自分を無視してしまおうとする。

 いつもなら、稔や佐和と夕食を済ませ、しばらくは一緒にドラマを見ていても、すぐに自分の部屋へ戻る。今夜はそんな自分と向き合うことが怖くて、遅くまであれこれと他愛のない話をする。

 夜遅くなって風呂に入り、そこで鏡の中に自分のコンプレックスを見つけて、ようやく悲しい冷静さを取り戻したのだ。

 おかしな所に逃げ場所があったことに驚く。それが本当に良いことなのかどうかは分からないが、とりあえず、いつもの七重に戻れたことにほっとしてしまう。そんな自分がちょっとだけ嫌いに思えてしまうが、それでいいのだとも思う。

 次の週、いつもの通り七重は一時間ほど早く行き、場所の準備をしてウォーミングアップしていると、珍しく高田さんが早く現れた。

「相変わらず早いのね。いつもありがと」

「いいえ、これくらいしか貢献できないので」

「で、先週は何かあった?」

 最初からあまり期待はしていないようだ。

「はい、いいえ」

「何、それ?」

「あのあと、ドライブに連れて行ってもらったんです」

「すごいじゃないの、どこへ?」

 楽器を出して、リードを選びながらちらりと七重を見る。

「和束ってご存知ですか?お茶の産地なんです。私の第二の故郷のようなところなので」

「あまりロマンチックとは言えないわね」

「はい。で、お茶の話をして、茶畑を案内して帰りました」

「はあ?年頃の二人が今から茶のみ友達でもないでしょうに」

 高田さんはちょっと天を仰ぐような素振りをして笑う。

「でも、まあ、ゼロじゃなかっただけ、抹茶チョコにも意味があったのかしらね」

「いいえ、もともと、私なんかでは」

「そんな風に言わないの。でも、私の勘違いだったのかな」

「そうです。きっと」

「ま、縁だから」

「高田さんは?やっぱりリボンを?」

「あはは、まさか。もうそんな時期は過ぎてるわよ。おつき合いも二年にもなるとね」

「うらやましいです」

「いいのかどうだか、それにこの先どうなっていくのかもわからないんだけど」

 ちょっと音を出してみて、あまり気に入らなかったようで、違うリードに付け替える。

「吉野さん、お家を継ぐって本当なの?」

「はい。と言っても、まだ父は私に限らず誰かに譲る気はないようで、これから交渉なんです。でも私は卒業したら修行を始めようと」

「修行だなんて。お寺の住職さんにでもなるみたい。じゃあ尚更、学生時代に一度くらいは恋愛もしておかなきゃ」

「私には向いていないようです。あまり器用でもないので」

 高田さんがウォーミングアップを始めたので、七重も同じように音を出しながら指をほぐすことにする。

「器用、不器用っていう問題じゃないわよ」

「そうでしょうか」

 音の合間に言葉を交わす。

「多分。それにしても小宮のオヤジ・・・」

 ちょうどそのタイミングでその小宮が姿を現した。

 高田さんは驚いてちょっと首をすくめたが、すぐに何事もなかったように、こんにちはと声をかける。七重も笑いをこらえて同じように挨拶をする。

「どうした?」

 その不自然さを感じて小宮が尋ねる。

「いいえ、別に」

「何か俺の悪口を言っていたような顔だな」

「とんでもない。ね、吉野さん」

 高田さんにつられて、はいと返事をする。

「何なんだ、二人して」

 ちょっと二人を睨むような顔をしてみせるが、今度は七重もそ知らぬふりをする。

「まあいい」

 そして小宮も楽器を出して、息を送り込んで暖め始める。

 そうしているうちに結城さんと中山先輩が現れて、部屋中に音が響き始める。

 何を思ったのか、結城さんが選ばれなかったダンツィの曲を奏で始める。

 気分転換のつもりなのだろう。

 ところが皆興味を示して、それに会わせ始める。七重も驚きながら途中から加わる。最初に楽譜を見て以来、練習もしていない。早いパッセージのところは自信がなかったはずなのだが、思いのほかすんなりとこなすことができる。

 結局、四楽章まで一気に通してしまう。

 たしかに、こうしてあまり苦労することなくできてしまうのだから、無難にこなせる曲ではある。しかし、曲という意味では、決して面白くないわけではない。

「吉野、上手くなったな」

 中山先輩が声をかけてくれる。

「いつもの曲だと気がつかなかったが、久しぶりにダンツィをやると随分変わった」

「いえ、そんな」

 七重は思いがけない言葉に恐縮してしまう。

「そりゃあ、ここしばらくは特訓していたからな」

 小宮がフォローしてくれる。

「ほう、我々の課題なのに」

「私が皆さんの足を引っ張るわけにはいきませんから。少しだけ頑張っています」

 実際、こうした機会がなければ、普段どおりのペースでしかなかったと思う。七重にとってはありがたい機会だったと思う。

「我々も負けてられないな」

「とんでもないです。私が教えていただくばかりで」

「謙遜するなよ。じゃ、真剣にやろうか」

 といつものライヒャが始まる。

 ちょっとしたことだが、それがきっかけでメンバーの集中力が変わった。

 慣れてくると流してしまいがちな音符も、今日は一つ一つに思いが込められる。そうすると、これまでいろいろ検討していたことが一つのまとまりとなって曲を引き締め、表情の変化も増してくる。

 ライヒャももう完成の域に達しているとも思える。ふと小宮の言った、こんなものかと思えばそんなものになってしまうという言葉を思い出す。

 ここ数ヶ月で七重の音楽に対する考え方が変わってきているのは自分でも分かる。

 このメンバーに誘ってくれた小宮にやはり感謝するしかない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る