第4話

  《四》

 一月末には後期の学科試験も終わり、心配していたフランス語も及第点が取れた。

 後は二月の実技試験を残すばかりとなっていた。試験の課題はドンジョンのサロンエチュードからの一曲で、半年間練習をしてきて何とか仕上がっている。

 問題は五重奏だった。小宮から渡されたCDを聴くたびにため息が出る。

 練習は週に一度。これまでに三回の練習があった。他のメンバーは、曲を確実に自分のものにしているのが分かる。

 七重も楽譜を音にするところまでは不安はなくなっている。ただ、CDのように柔らかい音、楽器をいっぱいに響かせる音、艶やかな音、そして可憐に細いけれども芯の通った音など、目標にする音がどうしても出ない。

 それは当然なのかもしれない。何と言っても世界のトッププロなのだ。そう簡単に真似ることなどできるはずもない。それでも、ほんの少しでも近づきたいと思う。

 メンバーとの合奏の後、七重が納得できずに残って練習をしていると、小宮はその様子をじっと見てくれていた。

「随分熱心なんだな」

「どうしてもCDのような音色が出せないのが悔しくて」

「ほう、そこが目標か。そりゃあ道のりは遠い。相手はフルートの神様だからな」

「はい。でも少しでも近づくことができればって思うんです。そうしたらもっと表現が豊かになれると」

「なるほど」

 肝心なのは息の使い方で、常に自分のイメージよりもたくさんの息を使わなければ、多くの倍音は鳴らない。なのに肺活量を気にして、これまでの七重には効率的に息を使う癖がついているらしい。

 そんなアドバイスをしながら、付き合ってくれる。

 他のメンバーに比べて七重のレベルが低いのは仕方がない。ただ小宮は自分が誘ってしまった責任から何とかしなければならないと思ってくれているようだ。

 そのことに感謝もし、また申し訳なくも思えてしまう。

 それでも回数を重ねるにつれて、少しずつでも自分の音やその使い方が変わってきていることを感じられる。

 そんな七重を見て、小宮は、それだけの情熱とこだわりがあれば音楽を続けるべきだと言う。しかし七重はそれは別の話だと応える。するとあらためて不思議なやつだ、とあきれられる。

 そうしてちょっとした特訓が続いていった。

 その頃、父の稔に体調の異変があった。年明けから時折、以前にはなかった眩暈がしたり、何かによく躓いたりするらしい。症状は長引くわけではなく、少し時間がたつと落ち着く。本人は疲れが出たのだろうと深刻には考えてはいなかった。

 とはいえ、年齢も年齢なので、何かがあってからでは遅いと、佐和に強く言われて、しぶしぶ医者へ行くことになった。近くのかかりつけの医院へ行くと、ひょっとすると脳梗塞の前兆かもしれないと言われ、総合病院で検査を受けるように指示された。

 翌週、宇治T総合病院でMRI検査を受けると、一過性脳虚血と診断された。放置すれば、かなりの確率で脳梗塞を発症し、命にかかわったり重い後遺症が残る可能性もあったらしい。早めの受診で事なきを得たようだ。

 幸い症状は薬で改善できる程度で、今後は以前から注意されていた血圧をコントロールしていけば、まず大丈夫だとのことだった。三日間の入院がいい機会だと、他に気がかりなところはないか、詳しく検査してもらうことにした。

 幸い他に心配なところはなく、医者からはストレスや年とともに運動不足となりがちな点を注意された。

 とりあえずは安心して退院してきたが、稔にとってやはり年齢を気にするきっかけにはなったようだった。これまで大病もしたことがなく、自信のあった健康についても、あれこれ気を使わなくてはならない年頃になったのだ。

「ともかく、大事無くてよかったですね」

 退院した土曜日、早めの夕食の後お茶を飲みながら、佐和がほっとした口調で言う。

 稔は居間のソファに深く腰を下ろし、佐和は隣の畳の間で炬燵に入っている。

 七重は洗い物を片付けて佐和の隣に座る。

「ああ、佐和のおかげだな。命拾いをした」

「お互いもう若くはないですから。そろそろ山岡のご主人のようにご隠居することも考えていかないと」

「ははは、ご隠居よりは十歳も若い。今からそんなことを言い出すと、叱り飛ばされる」

「でも山吉、どうするおつもりなんですか。博志は帰ってきそうにもないし」

「まあ、ゆっくり考えるさ。博志には博志の人生がある。無理強いしても、な。最悪、私の代で畳むことになってもやむを得んだろう」

 やはり、以前に告げた七重の決心は耳に残ってはいなかったようだ。

「あの、お父さん。ここにも子供はいるんですけど」

「そりゃあわかってる。心配しなくても、お前を嫁に出すくらいの蓄えはある。もっともそうそう派手なことはしてはやれないが」

「いえ、そんなことじゃなくて、お店のこと。私じゃだめですか」

「お前が後を継ぐとでも?」

「はい」

「そう言えば何年か前にもそんなことを言っていたが、冗談ではなかったのか」

 それまでのにこやかな顔から、一変して厳しい表情になる。

「はい。大変なのはお父さんを見ててわかってます」

「何を言っている。お前にそんな苦労をさせる気はない。そりゃあ大事な暖簾だが、お前が犠牲になってまで守るほどのことはない」

「犠牲だなんて思ってません。それに兄さんが帰らないからっていうんじゃないんです。私自身がやってみたくて」

「女だてらにばかなことを」

「私、大学を卒業したら、山岡のおじさんのところで何年か勉強させてもらおうかと。そのあとお店を手伝いながらお商売の勉強をします」

「何年かかると思っている。三年や五年で一人前になれるってものじゃあない」

「はい。甘く考えているわけじゃありません。それにいくら頑張っても、お父さんのようになれる自信はないけど、それでも山吉は続けて行きたいと思ってるの」

「山吉はしばらく誰かに預けることもできる。いつか吉野の誰かが継いでくれればいいし、私の爺さんがそうだったように養子を迎えて守ってくれることもある」

「でも」

「やめておけ。お前の気持ちだけで十分だ」

 稔は頑として譲らない。

「七重、またお父さんの血圧が上がるようなことを言わないの」

 七重の不満そうな顔を見て佐和が止めに入る。

 確かに今押し問答をしても稔の考えが変わるとは思えない。

 七重の突然の申し出に驚いているところもあるのだろう。これまで稔が思い描いていた七重の将来像とはかけ離れすぎているのだから、急に理解されるはずもない。今日のところは一旦引いておいた方がよさそうだった。

 はいと引き下がりはしたが七重の考えは変わってはいない。それに、否定しながらも言葉の端々には、もしも七重が男であればよかったのに、と思っているところも感じられる。

 それならば時間をかけていけば、男だ女だという先入観は乗り越えられるかもしれない。

 八時を過ぎて電話が鳴った。

 七重が出ると、電話をかけてきたのは博志兄さんで、今日の便でアメリカから関空に着き、入国手続きを済ませてこれから家に向かうということだった。

 稔の状態を尋ね、大丈夫だと答えると、電車の時間がないとのことですぐに切れた。

「博志兄さん。今から帰って来るって」

「今からって」

 佐和が眼を丸くする。

「さっき関空へ着いて、電車に飛び乗ったみたい。お父さんの具合はどうかって。とりあえず大事無いことは伝えましたけど」

「どうしたんだ急に」

 稔も驚いている。

「あなたが入院する前に、一応知らせておいたんです」

「そうか。しかし、電話で済むものをわざわざ半日もかけて帰らなくても」

「心配なんですよ、やっぱり。それに今年はお正月にも帰ってないし」

 そう言いながらやはり嬉しさを隠せない様子だった。そしてそれは七重も同じなのだ。

 少々気まずくなりかかっていた雰囲気もがらりと変わって、落ち着かないものになる。

 関空からだと二時間以上かかり、まして客を迎えるというわけでもないのだから、何を準備するということもない。なのに、佐和は慌てて兄の部屋に布団を運び掃除機をかけたり、風呂を沸かし新しいバスタオルとパジャマを出す。七重も七重で兄用の湯飲みを洗い、また湯を沸かしたが、ポットのお湯はそれほど減っているはずもない。勝手口の鍵をあけ、玄関に兄用のスリッパを並べる。

 それでも一時間も経たない間にすることがなくなってしまう。

 そして元の炬燵に戻る。

「二人して何を慌てている。家族が帰ってくるだけじゃないか」

 稔がそんな二人を見て笑って言う。

「だって、ねえ」

 佐和と七重が顔を見合わせて、やはり笑ってしまう。

「七重も佐和に似てきたな」

 言われてみれば、そうなのかもしれない。取るに足らないちょっとしたことで動揺してしまうかと思えば、周りに流されずに自分の考えややるべきことを淡々とこなしていく強さがあったりする。ただ、いずれにしても、そう計画的に物事を運ぶわけではない。

 もっとも、計画的でないことが必ずしも結果を伴わないというものでもないのだ。

「そうですか?でも母娘ですから、当然です」

「まあ、私も久しぶりに博志に会えることは嬉しいが」

 十時半になって、ただいまと懐かしい声が聞こえた。弾かれるように佐和が玄関まで出迎えに行く。

「お父さん、大丈夫だったそうで。とりあえず良かったですね」

 厚手のダウンの下はスーツ姿で、上着を取るとすかさず佐和が綿入れ半纏をかける。

「ああ、心配をかけた。いろいろ調べてもらったが、他に悪いところもなさそうだ」

「ちゃんと毎年人間ドック受けてますか」

「いや、しかし今度のことで少々反省している」

「これからは、あまり無理をしないようにして下さいよ」

「ああ、気をつけよう」

 稔も機嫌がいい。

「あ、正月はすみませんでした。ちょっと仕事に追われて休めなくて」

 そう言いながら、稔の向かいに座る。

 やはり社会人になってどんどん頼もしくなっているのが、七重から見てもわかる。

「気にすることはない。若いうちは何と言っても仕事が優先だ」

「仕事といっても、ようやく去年からです。二年間は向こうの大学の修士課程で勉強することが仕事のようなものでしたから」

「そうか、それなら余計に頑張らないといけないな。どうだ、向こうの生活は?」

「もうすぐ三年になりますから、かなり慣れましたが、離れてみて日本はやっぱりいい国だと思います。それに日本人も」

「物騒なことはないのか」

「普通に暮らしている分には、日本人より親切なほどです。ひとつ間違えば、本当に命がいくつあっても足りないようですが」

「気をつけておけよ」

「はい」

 博志兄さんが帰ってくると、おかしな表現だが家族が充実する、そんな気がする。

「博志さん、どのお茶がいい?」

 佐和がおっとりと尋ねる。

「ほうじ茶をいただけますか。あ、やっぱり煎茶にして下さい。向こうではまず味わうことがないので」

 七重は小さめの湯飲みを台所から持ってくる。

 佐和が急須に茶葉を入れる量を見て、博志兄さんが一緒に飲みましょうと言う。すると佐和は、自分と七重は二煎めをいただくと答える。

 博志兄さんにもまだお茶の感覚はしっかりと残っているようだ。

「お茶を飲む習慣はないの?」

「はい、ほとんど。むこうでお茶といえば紅茶です。まあ最近は日本食ブームで、緑茶もレストランで頼めば出てきます。それにスーパーでもそれらしきものは売ってますが、日本人はまず買いません」

「おいしくないの?」

「いや、それ以前に、レモン味の緑茶とか、ペパーミント入りの緑茶って、飲む気にはならないでしょう」

「それはひどいわね」

「この煎茶も一度アメリカ人に振舞ったのですが、半分は青臭いと受け付けず、半分はスープだと言ってがぶがぶ飲んでました」

 佐和が湯冷ましから稔と博志兄さん二人分のお湯を急須へ入れると、やはり博志兄さんも言葉が途切れる。

 佐和が二つの湯飲みに注ぎ分けると、ではいただきますと味わう。

 そんな様子を稔は複雑な表情で見ている。やはり博志兄さんに店を継いで欲しいのだ。だがそれを言い出す時期はもう過ぎていることを知っている。

「ああ、やっぱり家のお茶はおいしいですね」

「そう?一番慣れた味ですからね」

 それからも、あれこれと話が弾み、休むことになったのは一時を過ぎてからである。

 七重が最後に風呂から上がって、部屋に戻ろうとするといつもは締め切られている博志兄さんの部屋から明かりが漏れている。

 久しぶりの日本で思うところも多いのかもしれない。ノックをして七重ですというとドアを開けて招き入れてくれる。

「どうした?まだ髪が濡れているじゃないか。風邪引くなよ」

「はい。少しだけ」

 机でノートパソコンを開いていた。

「メールだけチェックしていたんだ。ちょっとだけ待ってくれ」

「大変ですね」

 七重は博志兄さんのベッドに腰掛けてタオルで髪を拭く。

「よし、以上。すまんな、待たせた」

「いえ。そうか、向こうはお昼なんですね」

「ああ、時差もあって、まだ眠れそうにないし。どうだ大学のほうは」

「はい、真面目に行ってます」

「そりゃあ当たり前だ。もう三回生だろう。そろそろ就職活動が始まる頃じゃないのか」

「そのことで、お兄さんに相談があって。いいですか?」

「もちろんだ。まあ、音大っていうのは特殊だからな。教職は取っているんだろう?」

「一応」

「できればそれが一番じゃないか?一般の企業となると、音大っていうのは敬遠されがちだしな。まあ、大卒にこだわらなければ一般職という道もあるが」

「私・・・山吉を継ごうと考えているんです」

「本気なのか・・・そうか、すまんな、俺が出て行ったために」

 やはり博志兄さんも驚く。

 そして自分が家を出たために、七重にその役割が回ってしまったと考えているようだ。

「いえ、お兄さんがアメリカへ行く前からずっとそう思っていたんです」

「ほう、何でまた」

「あまりはっきりとした理由はないのですが、中学校の頃からそう決めていたんです。お茶が好きで、お客様に喜んでもらえる仕事だし」

「それは分からなくもないが、それを仕事にするってのは結構大変じゃないか」

「お仕事は何でも大変でしょう」

「それはそうだが」

「多分、もっと小さいときから。山岡のおじさん所へよく行ってたからかなあ、なんて今になって思うんですが」

「なるほど。確かに七重は家にいるよりも山岡の方が好きだったように思えるな。死んだ兄さんや俺はそうでもなかったが、お前は茶畑が好きで、何かというとそこにいた」

「恵一兄さんが生きてた頃の記憶はもう断片的でしかないけど、そうなんですか」

「ああ。お前はまだ小学校の低学年の頃だ。親父が和束へ行くといったら、必ずくっ付いて行ってた」

「だと思います」

「それに、店のお茶の香り。今でこそ懐かしいが、俺は一時あれが嫌でたまらなかった」

「ええ?私はずっと大好きです」

「そう、お前は違っていた。話が脱線するが、ひょっとすると俺が家を出たかったのは、あの香りのせいかもしれない。一生それと付き合っていく自信がなかった」

「そうなんですか」

「もちろん、それだけじゃない。先端技術に関わって行きたいという気持ちが一番だけど、心のどこかにはそれもあったような気がする」

「大げさですけど、私はずっと大好きなお茶と一緒に生きて行きたいって思うんです」

 博志兄さんは、七重の言葉に頷いて考えをめぐらせる。

 確かに、好きだということと、それを仕事にするということは全く違うことである。

 ただ、同じように苦労をするならば、好きな世界で苦労をしたいと思うのだ。

「七重も大人になったな」

 賛成してくれるかどうかを気にしていたが、博志兄さんは全く違ったことを言う。

「お兄さん、何ですか」

「この間までは、音楽好きの可愛い妹だったのに」

「今でもです。可愛いかどうかはわかりませんが」

 博志兄さんはもう一度うんと自分の考えをまとめるように頷いて言葉を続けた。

「まあ、俺もまだ社会人三年目だから偉そうなことは言えないが、七重が信じる道を行けばいいんじゃないかな」

「賛成してくれますか」

「それは何とも言えない。部分的には賛成だし、部分的には反対だ。何も苦労する道を選ばなくても、普通に就職して普通に嫁に行って普通に幸せになる道もある。親父やお袋はそれを期待しているんじゃないか」

「だと思います」

「しかし、俺も同じで、どこまでやれるかは分からないが、やらずに後悔はしたくない。だから七重の気持ちも分かる。それに、親父も山吉の暖簾は守りたいに違いないしな。無責任かもしれないが、七重が決めるしかない」

「やっぱりそうですよね」

「ただ、七重が決めたことを俺は尊重するし、応援もする」

「ありがとう、お兄さん。実は、お兄さんが電話くれるちょっと前にそんな話になって、反対されていたんです」

「なるほど、それで。まあ、一応は反対するだろうな。俺も最初はそう考えた。女だてらにってね。でも向こうじゃ男だ女だなんてことは関係ない。情熱と能力があれば女性の取締役や社長だって珍しくはないから」

「そうなんですか」

「ああ、日本じゃまだまだだけど、いずれそういう時代になる。俺も負けていられないな。まあ、折を見て俺からも援護射撃をしてみよう。できることなら親父やお袋にも賛成してもらった方がいい」

「お願いします」

「しかし、本当にそれでいいんだな」

「はい。実は、お兄さんがアメリカへ行くことになって、チャンスが回ってきたって喜んでいたんです。ごめんなさい」

「そうなのか。先に言ってくれていたら、俺も少しは気が楽だったかもしれないのに。これでも少しは責任を感じていたからな」

「すみません。でも、その頃はまだ大学入ったばかりで、女だてらに、だけじゃなく子供のくせに、って言われるころでしたから」

「それもそうだ。ただ、一つ約束してくれ」

「何ですか」

「女性らしさを忘れるなよ。向こうのキャリアウーマンは、皆いい意味で女性としても素敵だ。仕事のために女を捨てるくらいなら、やめたほうがいい」

「あは、そんなこと。今だって女として魅力なんてないのに。捨てるものがありません」

「それもそうか」

「お兄さん、それは失礼です」

 七重の気持ちを分かってくれる兄がいてくれることが素直に嬉しかった。

 おやすみなさいを言って自分の部屋へ戻った頃には、すっかり髪も乾いていた。

「普通に結婚か・・・ピンとこないなあ」

 ベッドに横になってそう呟く。

 母佐和が吉野へ嫁いで来たのは二十三だったと聞いている。そして西野先輩も二十三、いろいろあったにせよこれから準備をしても二十四だ。あと二、三年もすれば七重もその年齢になる。

 第一、七重には結婚を考える以前にそんな相手もいない。

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