第3話

  《三》

 十二月二十一日から大学は冬休みに入る。院生の五重奏は、クリスマスも過ぎて、二十七日が最初の練習だった。

 さすがに年末で学校は閑散としている。それでもいくつかの練習室には学生が出てきているようで、廊下にはピアノの音が聞こえてくる。 七重は約束の一時よりも一時間ほど早めに来て、机を片付けて椅子と譜面台を準備する。

 そしてウォーミングアップを始めたころ、それぞれが楽器を持って現れた。

 メンバーは七重の他は皆院生で緊張させられたが、クラリネットに女性の高田さんがいてくれてほっとする。オーケストラではすぐ近くに座ることが多く、何度か話をしたことがある。オーボエは院から桂音大へ変わってきたためにオーケストラには入っていない結城さん、そして小宮と中山先輩である。

 それぞれによろしくお願いしますと声をかけると、皆気安くよろしくねと返してくれる。

 まず楽譜を見て驚いた。オーケストラのフルートの楽譜は、休みが圧倒的に多い。ところが五重奏の楽譜は逆にほとんど音符が書き込まれているのだ。考えてみると、たった五人で一つの曲を演奏するのだから、そうそう休んではいられない。

 渡された楽譜は、ダンツィとライヒャという七重にはともに馴染みのない作曲家の作品だった。どちらにするかは、実際にやってみてメンバーの意見で決めるとのことだった。

 七重は初見もそう苦手ではない。速いパッセージのところをいくつか確認すると、早速やってみようと曲が始まる。曲はそれぞれに面白さがあった。

 オーケストラでは弦楽合奏が主で、管楽器はその音色の変化のために使われることが多い。そのためにいわゆる伴奏的な和音やリズムの刻みはあまりない。ところが五重奏となると、音に表情や厚みをつけたり強弱のためにも、それぞれがその時々の役割分担をすることになる。主役と脇役とが場面によって目まぐるしく変わっていく。

 これまで全くといっていいほど接したことのなかったジャンルで、七重にはそれが純粋に楽しくてたまらなかった。

 さすがに院生の集まりで、どちらの曲も初めてとは思えない出来栄えなのである。

 七重は、変化に富んで、各楽器が引き立っているライヒャの方が好きだった。ただ、そちらの方がフルートが華々しく扱われていたために、少し遠慮する気持ちもあった。

「どうする?」

 両方の曲を終えて、中山先輩がメンバーに声をかける。

「無難に行くなら、ダンツィ。チャレンジするならライヒャ。ってところじゃないかな」

 結城さんが首を傾げながらそう言う。

「同感。となると、答えは決まりだな。ライヒャで行こう。二ヶ月間も無難にまとめる練習じゃ面白くない」

 小宮が答える。他のメンバーもその意見に賛成のようだ。

 そして、もう一度やってみようということになり、テンポと強弱の打ち合わせをして再び曲が流れ始める。

 一度目はそれぞれが自分の楽譜をこなしながら、全体像をつかんでいたようだった。しかし、二度目になると、それぞれがその瞬間の自分の役割を把握しながら、お互いに視線や身振りで会話をしているように演奏するのだ。楽譜には細かい指示は書かれてはいない。なのに、自分の役割に合わせて、大きく豊かに歌ったり、裏方になればその時の主役を引き立てるように抑えるということが自然にできている。

 そうなると、単に技術が高い低いというレベルではなく、それぞれの音楽性、更には人間性の織り成す物語のようで、七重にはまだまだついていけない。

 四つの楽章で三十分程度の曲である。オーケストラのように壮大な感動はなくても、それに負けないくらいの達成感がある。楽器も長くやってきてはいるが、全く知らなかった世界がそこに繰り広げられ、ほんのひとときで虜になってしまっていた。

 その日の練習は、メンバーの顔合わせ、曲決め、と同時に忘年会も、という話しになっていた。練習の後、夕方には皆でどこか安い居酒屋で語り合おうという計画である。七重としては、院生の中に一人学部生が入っているだけでも随分気が引けるのに、忘年会にまで同行するのはおそれ多い気がしてしまう。しかし、中山先輩に時間をあけておくようにと指示されると、いやとは言えなかった。

 ところが、いくつか当たってみても、この時期市内の店はどこも予約でいっぱいだった。そこで小宮の発案で八幡市にある小宮の家へ行くことになった。海外から帰ってきて初めての仲間であるから是非にと誘ったのである。

 少し時間はあるが、六時に京阪電車の八幡市駅に集合ということにして、一旦解散する。

 七重も一度家に帰って、着替えていくことにした。母親にそのことを告げると、よそのお宅にお邪魔するのだから手ぶらではいけないと、贈答用の茶とお茶うけの和菓子を持たせてくれた。忘年会にお茶とは場違いではある。しかし、おばあ様にと言えば理解してもらえそうだ。

 八幡市までだと、京阪電車を中書島で乗り継げば三十分程度で着く。

 それでも遅れてはいけないと早めの電車に乗ると、二十分ほど前に八幡市についた。小宮が皆を迎えに出ると言っていたのであたりを見渡すと、駅前のロータリーを歩いてくる姿が見えた。

「なんだ、随分早いじゃないか」

「はい、でも先輩方を待たせるわけにはいかないですから」

「オケじゃ先輩だが、こっちでは単なる仲間だ。フランクに行こうや」

「ありがとうございます。でも、小宮さんも早くから」

「ああ、多分君が早く来ると思ってね」

「そのために?」

「一人で待ちぼうけは可哀想だからな」

「すみません。気を使っていただいて」

「それに、今日は、練習場で椅子と譜面台を準備してもらっていたから、そのお礼だ」

「そんな、当然のことです」

 意外にも細かいところに気を遣う男のようだ。七重としては当然のことだと思っていても、そうして労ってくれるとやはり嬉しい。

 夕暮れの駅前にはすぐ近くに岩清水八幡宮の小高い山と森の影が見える。静かな町だ。

 小宮に促されて改札口が見えるベンチに腰掛ける。

「しかし、無理を言ったが、君に参加してもらってよかった」

「今日はひやひやでした。まだまだ練習しなきゃいけないところが多すぎて」

「まあそれは皆そうだ」

「でも木管五重奏ってこんなに楽しいものだと知りませんでした。一人ひとりは大変ですけど、みんなで音楽を作り上げているっていう実感があります。私はまだついていくのがやっとですけど」

「そうだな、俺がアンサンブルが好きだっていうのもそのあたりにある。オケじゃやっぱり弦が主役だが、こっちだと全員が主役だろう」

「はい。個性がぶつかり合って、でもちゃんと調和してて、皆さんが楽しく会話しているようです」

「そして何よりそれぞれの音色のバラエティも魅力だろう。だから君に頼んだ。俺の知っている中では一番フルートらしい音だから。技術は練習すれば上達するが、音色はなぜかそうそう変わらない。不思議なことだけど」

「そんな。私は技術がまだまだです。でも、そう言っていただけると嬉しいです」

「ただ、惜しむらくはもう少しパワーが欲しい。もう少し太りなさいっていうのも、まんざら冗談じゃないんだ」

「またそれを。これでも気にしているんですから。痩せぎすコンプレックスなんです」

「そうなのか、悪い」

 上りの電車が着いて、高田さんが降りてくる。七重が手を振ると、にこりと笑いながら近寄ってくる。

「小宮さん、すみません。あつかましく押しかけることになって」

「こちらこそ、わざわざここまで来てもらって」

「少しだけど、食材買って来ました。ありきたりの物だけど」

「悪いな」

 すぐに、中山先輩と結城さんが現れて、小宮宅へ向かう。二人はとりあえずビールにワインとウィスキーを買ってきたという。皆それなりに気を使っている。

「吉野は何を持ってきたんだ?」

 七重の少し大きめの紙袋を見て、中山先輩が尋ねる。ちょっとばつが悪い。

「あの、場違いですが、家のお茶とお菓子を・・・すみません、気が利かなくて」

 七重は小さくなりながら詫びる。

 小宮の家は電車の駅から十分ほど歩いた住宅地にあった。マンションやハイツが並ぶ中、数件の広い一戸立ちがある。その中の一つで、ガレージの横にはちょっとした庭があり、門から数メートル、タイル張りのアプローチがあり、四段ほど階段を上がって玄関前には広めのピロティがある。重厚な洋風デザインのドアの横から二階まで吹き抜けになっている玄関ホールの明かりが見える。

 他のメンバーも、大邸宅だと感心している。小宮は単に親の道楽だと応える。

 玄関を入ると、春江さんだろうと思われる優しそうな女性が着物に割烹着で、迎えてくれた。そして七重と同じ年と聞いている妹さんがすぐに現れ、皆を招き入れてくれる。

 リビングは十五畳ほどの広さで、低めのテーブルの二方向を囲むようにソファが並んでいて、向かいの壁には大画面のテレビとオーディオが置かれている。そしてその横からキッチンへと続いていた。

 ソファに腰かけたりカーペットに座ったりすると十人ほどが寛げる広さがある。

「いつも兄がお世話になっています」

 妹さんが明るく挨拶をすると、皆がこちらこそとそれに応える。

「妹の美幸だ。D女子大の三年生だから吉野とは同級ってことになる。高校まではピアノをやってたが、今は教師志望だ。よろしく」

 小宮が改めて紹介すると、賑やかな方がいいと勧められて同席することになる。

 ワインで乾杯した後は、場もくだけてあれこれと話が弾む。

 七重はやはり気が引けて、話の輪の中にうまく入っていけない。

「七重さん、そう呼ばせてもらっていいですよね。少しお話しませんか」

 美幸さんが気を使って隣へ来て声をかけてくれた。

「はい」

 七重もほっとする。

「兄から伺っています。宇治のお茶屋さんのお嬢様だって」

「また、小宮さんが。お茶屋っていうのは本当だけど、お嬢様だなんて嘘ですよ。古いだけが取柄の小さなお店です。小宮さんこそ、こんな大きなお家で、憧れてしまいます」

「両親が家を建てたまま海外へ住み着いちゃって、もったいない話でしょ。ね、美幸って呼んで。同級生なんだから」

「そうね。でも良かった。美幸さんがいてくれて。先輩ばかりで肩身が狭いなって思ってたの。さっきの方が春江さん?」

「ええ、兄も私も子供の頃からお世話になってるの。今じゃ、春江さんがいないと成り立たない家なのよ。お手伝いさんていうより、しっかり主婦やってもらってる」

「美幸さんの方がずっとお嬢様ね」

「とんでもない。でも、七重さん、本当にお店を継ぐの?」

「そのつもり」

「偉いなあ」

「そんなこと。たまたまそういう家に生まれちゃったから、っていうだけのこと」

「音楽は?続けないの?あのうるさい兄がかなり買ってるようなのに」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、最初から大学までって決めていたから」

「ふうん、もっとも私は挫折しちゃったから偉そうなことはいえないけど」

 改めての自己紹介が始まった。

 確かに練習が始まる前までは、お互いに初対面に近いメンバーだったのだ。中山先輩と高田さんは学部から継続しているものの、小宮は一旦日本を離れていたし、結城さんは大学までは岡山の音大で、中山先輩と知り合ったのも最近のことらしい。それが今では親しい仲間になっている。アンサンブルの魅力はそのあたりにもあるようだ。

 それぞれが所属や経歴、音楽の理想などを話し始めるが、酔いのせいもあって話はあちこちへ脱線する。誰の順番なのかも定かでなくなりながら話は盛り上がり、笑いがおこる。

 七重も初めは多少気おくれしていたのが、アルコールのせいと皆のフランクな雰囲気で、すっかり打ち解けることができた。

 やがて十時が近くなって、中山先輩が酔って居眠りをし始めたのをきっかけに、お開きにすることになった。

 じゃあ片付けましょう、と高田さんが声をかけて、美幸さんと七重がグラスや皿を洗い高田さんがテーブルを片付けて拭く。

 春江さんが恐縮して何度もそのままにしておいて下さいと声をかけてくれる。しかし、無理を言って押しかけた上に、女の子が何人もいてそのままにして帰るわけにはいかない。

 リビングでは、小宮と結城さんの間でまた音楽談義が続いている。

 あらかた片づけを終えると、小宮がまあ聞き給えと二階の自分の部屋から捜し出してきたCDをかける。

 流れ始めたのは、今日やることが決まったライヒャの木管五重奏だった。

 最初の何秒かで、その技術、音色、息の合ったアンサンブルに言葉をなくして聞き入ってしまう。半分寝入ってしまっていた中山先輩も驚いて眼を覚ましている。八分半ほどの一楽章が終わったところで停めて、後日、コピーをして皆に配ると言う。

「この演奏もあって、是非ともライヒャがやりたかったんだ。四十年以上も前のベルリンの録音なんだが、未だにこれ以上の演奏に出会ったことがない」

 確かに、ため息しか出ない完璧な演奏なのだ。なまじ楽譜を見て実際に自分たちが音にしてみた後なので、そのショックは大きかった。

「こうはいかないだろうが、目標ができたな」

 結城さんがそう言い、皆が頷く。

 七重もそうだとは思うが、あまりの違いにただ驚くばかりなのだ。

「しかし、小宮が吉野にこだわったのは分かるな。フルートの音色はどことなく似ている気がする。これ、ゴールウェイだろう?」

 中山先輩が今はしっかりとした口調でそういう。

「中山さん、そんなにプレッシャーをかけないで下さい。一番遠いのが私だと落ち込んでいるんですから」

「いや、技術の問題じゃなく、個性があるんだよ、彼の音には。そして吉野にも」

「ですから・・・」

 七重がさらに恐縮して否定しようとしているところへ、春江さんがお茶を運んできてくれた。

「お酒のあとはお茶が体にいいですから」

 小ぶりの湯飲みに半分ほどのお茶が注がれている。その分量と温度を見て、春江さんが宇治茶を知ってくれていると安心する。

「上手く淹れることができたかどうか、自信はありませんけど。七重さん、でしたっけ、まずかったら言ってくださいね」

「とんでもない。おいしく淹れていただいています」

 七重が飲む前からそう言ったことで、皆が驚く。

「へえ、どうして見ただけで分かるんだ?俺はだいたいこの量の少なさが不思議だと思っているのに」

 小宮が尋ねる。

「徹坊ちゃん、そういうものなんですよ。まあ、味わってみてください。少しずつ舌の上でゆっくりと」

 期待通り、甘さと香ばしさ、そして程よい渋味がある。

 驚いたのは、淹れ方により千差万別の味わいとなるのに、春江さんのお茶は、七重の家の味と驚くほどよく似ていて、違和感がなかったのである。

「これがお茶?」

 高田さんが驚いて声を上げ、七重を振り返る。他のメンバーも頷いている。

「お茶にもいろいろあって、これは煎茶。他にも玉露、ほうじ茶、抹茶もあるんです。でも本当においしく淹れていただいて嬉しいです」

「さすがにお茶屋のお嬢様ね」

「もう、高田さんまで。お嬢様じゃありません」

 春江さんはにこにことその様子を見ている。

「先ほど大奥様に淹れ方を教えていただいて、私もご相伴にあずからせていただきましたんですよ。大奥様は山吉さんのことをご存知でいらして、結構なものをと」

「ばあさんは?」

「もう先ほどお休みになりました。皆さんの声をお聞きになって、若い人がいると活気があっていいと大変喜んでらっしゃいました。またいつでもおいで下さるようにお伝えするようにと」

「本当に。いつもは祖母と兄と私では静か過ぎて。春江さんも今日は久々に腕が奮えるって張り切ってたし」

 美幸さんも七重と親しくなれたこともあって喜んでいるように見える。

 小宮がアメリカでいたときは更に静かだったはずだ。

 お騒がせしてすみませんとそれぞれが玄関へ向かい、小宮と美幸さんが見送ってくれる。

「兄がいなくてもいつでも遊びに来てね」

 美幸さんが別れ際に七重にそう言ってくれる。

「うん、美幸さんも一度是非家へ」

 そう応えて小さく手を振る。

 家へ着いたのは十一時半、いつもの女子会よりは少し遅かった。

 裏の勝手口から入ると母が起きて待っていてくれた。遅くなったことを詫びて、土産に持っていったお茶が先方で喜ばれたことと、山吉を知っていてくれたことを報告すると、ありがたいことだと言う。

 こうして帰りを待っていてくれる母親がいることが嬉しく思える。

「お母さん、ありがとう」

「何ですか?あらたまって」

「今日、お邪魔したお家、ご両親が海外へ行ったきりで、おばあ様とご兄妹だけなんだって。お手伝いさんはいても、やっぱり淋しそうだった」

「そう、大変ね。父親の単身赴任なら珍しくないけど」

「家庭っていうのはお母さんがいてくれて成り立つものなんだなあって」

「さあ?そんなこともないんでしょうけど」

「ね、その妹さん、私と同級生なの。家へお誘いしてもいい?」

「もちろんですよ。お友達になったんでしょう、大事になさい。ただ、うちにはお手伝いさんはいませんから、あなたがおもてなしをしなさいよ」

「はい。でも少しは助けてね」

「いけません。あなたももう二十歳を過ぎているんですから、あれこれできるようにならないと」

 そんな会話ができるのも母親がいてくれるからなのだ。

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