潜む影

 

 七月の初旬、桜ヶ丘女子高校は夏の暑さに包まれていた。梅雨が明け、校庭の桜の木々は緑濃く輝き、生徒たちのセーラー服がそよ風に揺れる。

 

 リリィ・フロストことリリウムとセレナ・フローレンスは、互いの気持ちを告白し合い、新たな絆を築いたばかりだった。

 園芸部の温室での穏やかな時間、教室での笑顔、放課後のささやかな会話。

 それらが、二人に温かな幸福感を与えていた。

 しかし、桜ヶ丘の平穏な日常の裏で、秘密結社「クロノスの使徒」は新たな計画を進めていた。

 リズ・ヴァレンタインの捕縛による失敗を教訓に、結社はより慎重かつ狡猾な手段でリリウムを監視し、彼女の心を操る計画を立てていた。

 

 ――ー

 

 

 街外れの廃工場を改装したクロノスの使徒の秘密拠点では、薄暗い会議室に重い空気が漂っていた。コンクリートの壁に囲まれた部屋には、ハンター計画の資料やリリウムのプロファイルが貼られ、蛍光灯の冷たい光が鉄製のテーブルを照らす。リーダー格のガブリエルは、灰色の髪を短く刈り、鋭い鷲のような瞳でメンバーを睨みつけた。テーブルの向かいには、若い女性のメンバー、エリカが座り、ノートパソコンを操作しながら新たな作戦の概要を準備していた。筋骨隆々のヴィクターは、腕を組んで不機嫌そうに黙っている。

 

「リズの失敗は、我々に大きな損失をもたらした。ユナ・クロフォードの部隊が我々の動きを察知している以上、直接的な行動はリスクが高い。」 

 

 ガブリエルの声は低く、抑揚に乏しいが、怒りを抑えているのが明らかだった。

 エリカがキーボードを叩く手を止め、静かに口を開いた。

 

「リーダー、リリウムの監視を強化するには、彼女の日常に直接潜入するのが最も効果的です。桜ヶ丘女子高校にスパイを送り込み、彼女の行動、感情、周囲の人間関係を把握する。リリウムの心が動き始めている今が、彼女を操る絶好の機会です。」 

 

 エリカの声は冷静で、計算高かった。彼女の提案に、ガブリエルは目を細め、ゆっくりと頷いた。

 

「その通りだ。リリウムの感情は、彼女の弱点であり、我々の武器だ。セレナ・フローレンスとの関係が深まっている今、彼女の心を揺さぶれば、ユナ・クロフォードの動きも見えてくる。…エリカ、お前が適任だ。」 

 

 エリカは一瞬目を瞬かせ、すぐに微笑んだ。彼女は二〇代前半、黒髪をショートカットにし、知的な雰囲気を漂わせる女性だった。クロノスの使徒の中でも、情報収集と潜入任務に長けていた。

 彼女はノートパソコンを閉じ、静かに言った。

 

「了解しました。桜ヶ丘女子高校に転入生として潜入し、リリウムとセレナの関係を観察します。彼女たちの絆を利用すれば、リリウムの心を操り、ユナの部隊の動きを炙り出せるでしょう。」 

 

 ヴィクターが鼻を鳴らし、テーブルを叩いた。

 

「また女をスパイに使うのか? リズの失敗を繰り返す気かよ。もっと直接的にリリウムを拉致した方が早いだろ。」 

 

 ガブリエルの瞳が鋭くなり、ヴィクターを一瞥した。

 

「軽率な行動は我々を滅ぼす。リズの独断が招いた失敗を忘れるな。エリカの潜入は、目立たず、確実に情報を集めるためのものだ。リリウムを直接攻撃する前に、彼女の心を崩す。それが我々の目的だ。」 

 

 エリカはヴィクターに軽い笑みを向け、自信たっぷりに言った。

 

「ヴィクター、心配しないで。私はリズとは違う。リリウムの心を操るには、彼女の信頼を得る必要がある。桜ヶ丘女子高校の環境なら、自然に溶け込めるわ。」 

 

 ガブリエルは頷き、計画を承認した。エリカは新たな身分を準備し、桜ヶ丘女子高校への転入手続きを進めることになった。

 彼女の任務は、リリウムとセレナの関係を観察し、彼女たちの感情を利用してリリウムの心を揺さぶること。

 そして、ユナ・クロフォードの部隊の動きを把握し、クロノスの使徒の最終目的――ハンター計画の終焉――を達成することだった。

 

 ――ー

 

 

 数日後、桜ヶ丘女子高校の二年A組に、新たな転入生がやってきた。

 エリカは「エリカ・ミズキ」として、黒髪を肩まで伸ばし、清楚なセーラー服に身を包んで教室に現れた。

 彼女の微笑みは柔らかく、物腰は穏やかで、すぐにクラスメイトたちの好感を得た。担任の教師がエリカを紹介する。

 

「みんな、今日からこのクラスに加わる転入生、ミズキ・エリカさんだ。よろしくな。」 

 

 エリカは黒板の前で軽く頭を下げ、透明感のある声で言った。

 

「ミズキ・エリカです。よろしくお願いします。まだ学校に慣れてないので、皆さんに色々教えてもらえたら嬉しいな。」 

 

 教室に拍手が響き、女子生徒たちの好奇の視線がエリカに集まる。

 リリィは窓際の席で、エリカをじっと見つめた。

 彼女の紫の瞳には、初めて会うエリカに対する警戒心がちらつく。

 リリィの心は、誘拐事件のトラウマから、知らない人間に対して無意識に身構えていた。

 だが、エリカの柔らかな笑顔に、彼女の警戒心は少し和らいだ。

 

 セレナはリリィの隣の席で、エリカを興味深そうに見つめた。 

 彼女の金色の瞳には、新たなクラスメイトへの好奇心と、リリィへの思いが混じる。

 セレナはリリィの手をそっと握り、小さく囁いた。

 

「リリィさん、新しい子、なんか優しそうな雰囲気だね。仲良くなれそうかな?」 

 

 リリィはセレナの手の温もりに心が落ち着き、小さく頷いた。

 

「はい…セレナさんが、そう思うなら…きっと、いい人、です。」 

 

 リリィの声は小さく、彼女の心はセレナの笑顔に癒されながらも、エリカに対する微かな違和感を感じていた。

 エリカはそんな二人をちらりと見つめ、微笑んだ。

 彼女の目は、リリィとセレナの手が触れ合う瞬間を捉え、内心で計画の第一歩を踏み出した。

 

 ――ー

 

 

 エリカはすぐにクラスに溶け込んだ。彼女は穏やかで親しみやすい態度で、ミオやリナ、ユイといったクラスメイトたちと気軽に会話を交わした。

 休み時間には、リリィとセレナのそばにさりげなく近づき、話しかけた。

 

「ねえ、リリィさん、セレナさん、よね? 園芸部に入ってるって聞いたんだけど、どんな活動してるの?」 

 

 エリカの声は明るく、彼女の黒い瞳には好奇心が輝いているように見えた。

 リリィは一瞬たじろぎ、セレナが先に答えた。

 

「うん、園芸部ではハーブとかスズランを育ててるよ。温室で一緒に世話してる時間が、結構楽しくて。」 

 

 セレナの笑顔に、エリカは目を細め、興味深そうに頷いた。

 

「へえ、温室! いいな、落ち着きそう。私も植物好きだから、ちょっと興味あるかも。見学させてくれる?」 

 

 リリィはエリカの言葉に、胸の奥で微かなざわめきを感じた。

 彼女の心は、セレナとの温室の時間が特別なもので、誰かと共有することに抵抗を感じていた。だが、セレナの笑顔を見て、彼女は小さく頷いた。

 

「はい…よかったら、放課後に…。」 

 

 エリカはにっこり笑い、二人に感謝を述べた。彼女の心は、すでにリリィとセレナの関係を観察し、彼女たちの絆の深さを分析していた。

 エリカの任務は、リリィの心を揺さぶり、セレナを利用して彼女の感情を操ること。

 彼女は、二人を温室に誘い、さりげなく会話を引き出しながら、彼女たちの心の隙を探った。

 

 ――ー

 

 

 

 放課後、温室にリリィ、セレナ、エリカの三人が集まった。

 スズランとミントの香りが漂い、夕陽がガラス越しに柔らかな光を投げかける。リリィはジョウロを持ち、セレナはハーブの鉢を手に、いつものように作業を進める。

 エリカは温室を興味深そうに見回し、さりげなく話しかけた。

 

「すごい、めっちゃ落ち着くね。リリィさんとセレナさん、いつもここで一緒に作業してるの? なんか、仲良さそうで羨ましいな。」 

 

 エリカの言葉に、リリィとセレナは顔を見合わせ、頬がほのかに赤くなる。

 リリィの心は、エリカの言葉にドキリと高鳴り、セレナへの思いが熱くなる。セレナは笑顔で答えた。

 

「うん、リリィさんと一緒にいると、なんか心が落ち着くんだ。スズランとか、二人で大事に育ててるから。」 

 

 リリィはセレナの言葉に胸が温まり、紫の瞳が揺れる。

 彼女の心は、セレナとの絆を誰かに見られることに、微かな恥ずかしさと喜びを感じていた。エリカはそんな二人を観察し、内心で微笑んだ。

 

 彼女は、リリィとセレナの絆が深いことを確認し、それをどう利用するかを考え始めた。

 

「へえ、二人でスズラン、か。なんか、ロマンチックだね。リリィさん、セレナさんのこと、めっちゃ大事にしてる感じ?」 

 

 エリカの軽い口調に、リリィの顔が真っ赤になる。

 彼女はジョウロを握りしめ、小さく答えた。

 

「セレナさんは…大切、です。」 

 

 セレナもまた、頬を赤らめ、エリカに微笑んだ。

 エリカは二人の反応を見て、計画の第一歩が順調だと確信した。

 彼女は、リリィの心の揺れ、セレナへの深い愛情を捉え、それをクロノスの使徒の目的に利用する準備を始めた。

 

 ――ー

 

 

 その夜、エリカは秘密拠点に戻り、ガブリエルに報告を行った。

 薄暗い会議室で、彼女はノートパソコンにデータを入力しながら淡々と話した。

 

「リリウムとセレナの関係は、予想以上に深いです。二人とも、互いに対する感情を自覚し始めている。リリウムの心は、セレナに依存しており、彼女を失う恐怖を抱いています。これは、利用価値が高い。」 

 

 ガブリエルは頷き、冷たい笑みを浮かべた。

 

「良いぞ、エリカ。リリウムの心を操るには、セレナが鍵だ。彼女たちの絆を揺さぶり、リリウムを孤立させろ。ユナ・クロフォードが動く前に、我々が先手を打つ。」 

 

 エリカは微笑み、計画を進める決意を固めた。彼女の任務は、リリィとセレナの心を静かに、しかし確実に揺さぶること。

 桜ヶ丘女子高校の平穏な日常に、クロノスの使徒の影が忍び寄っていた。

 

 ――ー

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