響き合う音色

 

 六月に入り、桜ヶ丘高校のキャンパスは夏の気配に満ちていた。梅雨の合間の晴れた日、陽光が校庭の緑を鮮やかに照らし、生徒たちの笑い声が響き合う。

 リリィ・フロストことリリウムは、誘拐事件から数週間が経ち、徐々に学校生活の日常を取り戻していた。

 銀色の髪をポニーテールにまとめ、紫の瞳には穏やかな光が宿り始めている。

 園芸部の温室での時間、セレナ・フローレンスの優しい笑顔、ミオの明るい声。それらが、彼女の心に新たな居場所を作っていた。

 

 リリィの心には、セレナとの約束が温かく刻まれていた。数日前、温室でセレナがピアノのコンテストへのプレッシャーを打ち明けた時、リリィは彼女の演奏を聞きたいと伝えた。

 あの時のセレナの笑顔が、リリィの胸に希望の光を灯していた。リリィは、戦場では知らなかった「誰かを応援する」気持ちを、セレナを通じて学んでいた。

 

 ――ー

 

 コンテスト当日、街の中心部にあるコンサートホールは、若手ピアニストたちの熱気で満ちていた。

 会場は木目調の落ち着いた内装で、ステージ中央には黒光りするグランドピアノが置かれている。

 観客席には、家族や友人、音楽関係者が集まり、期待と緊張の空気が漂う。

 リリィは、セレナから渡されたチケットを手に、観客席の後ろの方に座っていた。

 彼女の隣には、ミオと園芸部の部長アヤメがいる。ミオが興奮気味に囁く。

 

「リリィ、セレナの演奏、めっちゃ楽しみだね! 絶対すごいよ、あの子、ピアノ上手いから!」 

 

「はい…楽しみ、です。」 

 

 リリィの声は小さく、ぎこちなかったが、彼女の瞳には期待が宿っていた。

 アヤメはそんなリリィを見て、静かに微笑んだ。

 

「セレナ、頑張ってるよ。リリィが応援に来てくれて、きっと力になる。」 

 

 アヤメの穏やかな声に、リリィは小さく頷いた。

 彼女の胸には、セレナの笑顔と、温室での時間が浮かぶ。

 セレナがプレッシャーに悩んでいた姿を思い出すと、リリィは彼女が最高の演奏をすることを心から願った。

 

 ――ー

 

 ステージの照明が点灯し、コンテストが始まった。

 一人また一人と、若いピアニストたちがステージに上がり、ショパンやベートーヴェン、リストの楽曲を奏でる。

 観客席からは拍手が響き、会場は音楽の波に包まれる。

 リリィは初めてのコンサートホールに少し圧倒されていた。戦場では、音といえば銃声や爆音だった。だが、ここでは、ピアノの音が心に直接響く。

 それは、彼女にとって未知の体験だった。

 

 やがて、司会者がセレナの名前を呼んだ。

 

「セレナ・フローレンス、演奏曲:ショパン『ノクターン第二番 変ホ長調』」

 

 リリィの心臓がドキリと高鳴る。

 ミオが「きたきた!」と小声で興奮し、アヤメが静かに拍手する。

 リリィはステージを見つめ、息を呑んだ。

 

 セレナがステージに現れた。

 彼女は白いドレスに身を包み、金色の髪をゆるくアップにしていた。

 いつも温室で見るカジュアルなセレナとは異なり、舞台の照明に輝く彼女は、まるで別人のように気品に満ちていた。

 リリィの胸が、期待と緊張で締め付けられる。

 セレナがピアノの前に座り、深呼吸をする。会場が静まり返り、彼女の指が鍵盤に触れた。

 

 ――ー

 

 最初の音が響いた瞬間、リリィの心が震えた。ショパンのノクターンは、柔らかく、しかし深い情感を帯びたメロディで会場を満たした。

 セレナの指は鍵盤の上を滑るように動き、音の一つ一つがまるで生きているように響く。

 リリィは、音楽を「聞く」ことの意味を初めて理解した気がした。

 戦場では、音は危険の合図だった。

 だが、セレナのピアノは、彼女の心に直接語りかけてくる。

 

 メロディは、時に穏やかで、時に切なく、セレナの内面を映し出すようだった。

 リリィの頭に、セレナの言葉がよみがえる。

 

「家族の期待とか、プレッシャーで…うまく弾けてる気がしない。」

 

 あの時のセレナの不安な瞳が、彼女の胸に浮かぶ。

 だが、今、ステージのセレナは、プレッシャーを超えて、ただ音楽と向き合っているように見えた。

 彼女の指は、鍵盤の上で自由に踊り、音はリリィの心に温かな光を灯す。

 

 リリィの瞳が、知らず知らずのうちに潤んでいた。セレナの演奏は、園芸部の温室で感じる花の香りや、ゴールデンウィークのライブで感じた手拍子の喜びに似ていた。それは、戦場では決して味わえなかった、純粋な美しさだった。リリィは、セレナの音楽が、彼女自身の心の傷を癒す力を持っていることに気づいた。

 リズの言葉、過去のトラウマ、戦場の記憶。

 それらが、セレナの音色に少しずつ溶けていく。

 

 曲のクライマックスで、セレナの演奏は一層情感を増した。ノクターンのメロディは、まるで夜空に輝く星のように、切なく、しかし希望に満ちていた。

 リリィの胸に、セレナとの思い出が溢れる。温室でのスズランの世話、ライブでの手拍子、誘拐事件の後にセレナが握ってくれた手。あの温もりが、彼女の心を支えていた。

 

 ――ー

 

 演奏が終わり、セレナが鍵盤から手を離す。会場は一瞬の静寂に包まれ、すぐに大きな拍手が響き渡った。

 ミオが「やばい、めっちゃよかった!」と興奮して立ち上がり、アヤメが静かに拍手する。

 リリィもまた、ぎこちなく手を叩いた。彼女の瞳には、涙が浮かんでいた。

 セレナの演奏は、彼女の心に深く響き、戦場では知らなかった感情を呼び起こしていた。

 

 セレナがステージから降り、観客席に戻ってきた。彼女の顔には、緊張が解けた安堵と、達成感の笑みが浮かんでいる。

 リリィは立ち上がり、セレナに駆け寄った。

 

「セレナさん…すごかった、です。きれいで…心が、震えました。」 

 

 リリィの声は小さく、ぎこちなかったが、彼女の紫の瞳には純粋な感動が宿っていた。

 セレナはリリィの言葉に目を瞬かせ、すぐににっこり笑った。

 

「リリィさん…聞いてくれて、ありがとう! なんか、リリィさんが来てくれたから、いつもより気持ちよく弾けた気がする。」 

 

 セレナの言葉に、リリィの胸が温まる。彼女はセレナの手をそっと握り、小さく頷いた。

 

「セレナさんの音楽…私、初めて、こんな気持ちになりました。ありがとう…。」 

 

 リリィの真剣な言葉に、セレナの目が潤む。彼女はリリィを強く抱きしめた。

 

「リリィさん…そんな風に言ってくれて、ほんと嬉しいよ。応援してくれて、ありがとう。」 

 

 二人は抱き合ったまま、しばらく言葉を交わさなかった。ミオが

 

「うわ、めっちゃ感動的じゃん!」

 と笑い、アヤメが静かに微笑む。

 会場の人々が拍手を続け、セレナの演奏を讃えていた。

 だが、リリィの心には、セレナの音色だけが響いていた。

 

 ――ー

 

 コンテストの結果発表で、セレナは優勝こそ逃したが、特別賞を受賞した。

 彼女は笑顔でトロフィーを手に、リリィたちと一緒に会場を出た。外の夕暮れの空は、紫色に染まっていた。

 

「リリィさん、今日、ほんとに来てくれてよかった。なんか、勇気が出たんだ。」 

 

 セレナの言葉に、リリィは小さく微笑んだ。彼女の心には、セレナの音楽が新たな光を灯していた。

 

「セレナさん…これからも、ピアノ、聞かせてください。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナは目を輝かせた。

 

「うん、約束! リリィさんと一緒に、もっとたくさん音楽を楽しみたいよ。」 

 

 二人は並んで歩き、夕陽の中を帰った。リリィの心には、セレナの音色と笑顔が、永遠に響き続けていた。

 

 ――ー

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