日常の光と影

 

 #### 第一〇章:日常の光と影

 

 リリィ・フロストことリリウムが誘拐事件から助け出されて数日が経過していた。五月の終わり、桜ヶ丘高校のキャンパスは夏の気配に満ち、新緑が陽光に輝いている。

 リリィは再び学校に登校し、制服のブレザーをまとい、銀色の髪をポニーテールにまとめて校門をくぐった。

 彼女の紫の瞳には、まだかすかな不安の影が残るが、園芸部の温室やセレナ・フローレンスの笑顔が、彼女の心を少しずつ癒していた。

 

 教室では、クラスメイトのミオがいつものようにリリィに駆け寄り、明るい声で話しかけてきた。

 

「リリィ、おかえりー! やっと戻ってきた! なんか、顔色いい感じになってきたね!」 

 

 ミオの無邪気な笑顔に、リリィは小さく頷いた。

 彼女の心には、リズの狂気的な言葉や過去のトラウマがまだ重くのしかかっていたが、ミオの明るさはそれを少し軽くしてくれる。

 

「ありがとう…ミオさん。少し、元気になりました。」 

 

 リリィの声はまだ控えめだったが、そこには微かな温かさが宿っていた。ミオはニヤリと笑い、リリィの肩を軽く叩いた。

 

「よっしゃ! じゃ、今日の園芸部も気合い入れていくぞ! ハーブの苗、めっちゃ育ってるらしいよ!」 

 

 ミオの勢いに、リリィは小さく微笑んだ。彼女の胸には、セレナとの約束――「一緒に花を育てよう」という言葉が、希望の光として根付いていた。

 

 ――ー

 

 リズ・ヴァレンタインとクロノスの使徒に関する調査は、ユナ・クロフォードと彼女の部下たちが引き続き進めていた。

 リリィは、ユナから「学校生活に集中しろ」と指示され、事件の詳細については知らされていなかった。

 ユナの厳格な表情と、時折見せる妹のような優しさが、リリィに安心感を与えていた。

 リリィは、ユナが自分を守ってくれると信じていた。

 

 学校での日常は、ゆっくりとだが確実にリリィの心を癒していた。

 授業中、彼女は数学の公式や英語の文章に集中しようと努め、時折セレナやミオと交わす会話に心が軽くなるのを感じた。

 特に園芸部の時間は、彼女にとって特別なものだった。温室の花の香り、セレナの優しい声、土の感触。それらが、彼女の心に穏やかな居場所を作っていた。

 

 ――ー

 

 その日の放課後、園芸部の温室で、リリィはセレナと一緒にハーブの苗を植えていた。ミントやバジルの小さな葉が、陽光にきらめく。

 リリィは小さなシャベルで土を掘り、慎重に苗を植える。

 セレナは隣でジョウロを持ち、微笑みながらリリィを見ていた。

 

「リリィさん、ほんと丁寧だね。このミント、きっと元気に育つよ。」 

 

 セレナの声は、いつものように穏やかで温かい。リリィは彼女の笑顔を見て、胸が温まるのを感じた。

 

「はい…セレナさんが、教えてくれたから…。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナはくすっと笑った。

 だが、リリィはその瞬間、セレナの笑顔にいつもと異なる影があることに気づいた。

 彼女の金色の瞳には、微かな疲れと不安が宿っている。

 リリィの心に、セレナを心配する気持ちが芽生えた。戦場では、仲間を気遣う余裕などなかった。

 だが、今、セレナのそばで、リリィは彼女の変化に敏感になっていた。

 

「セレナさん…何か、あったんですか? 顔、ちょっと…元気ない、みたい。」 

 

 リリィの声は小さく、ぎこちなかった。彼女は人見知りの性格から、誰かに踏み込むことに慣れていない。

 だが、セレナが自分を助けてくれたこと、彼女の笑顔が自分の心を支えてくれたことを思うと、黙っていることはできなかった。

 

 セレナは一瞬驚いたように目を上げ、リリィを見つめた。彼女の唇に、苦笑いが浮かぶ。

 

「え、わかっちゃった? リリィさん、ほんと鋭いね…。」 

 

 セレナはジョウロを置き、温室の木製ベンチに腰を下ろした。

 リリィもそっと隣に座り、セレナの言葉を待った。

 セレナは少し迷うように視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。

 

「実はね、近々、ピアノのコンテストがあるの。私、昔からピアノをやってて…家族も、結構期待してるんだ。優勝したら、音楽の道に進むチャンスになるって。」 

 

 セレナの声には、普段の明るさが薄れていた。リリィはセレナの言葉をじっと聞き、彼女の瞳に宿るプレッシャーを感じ取った。

 

「でも…なんか、最近、練習してても、うまく弾けてる気がしなくて。家族の期待とか、先生のアドバイスとか…頭の中でぐるぐるして、ちょっと、プレッシャーで。」 

 

 セレナはそう言って、膝の上で手をぎゅっと握った。

 彼女の金色の髪が、夕陽に照らされて揺れる。

 リリィはセレナのそんな姿を見て、胸が締め付けられるのを感じた。

 セレナはいつも完璧で、優しく、みんなを笑顔にする存在だった。そんな彼女が、こんな風に悩んでいるなんて。

 

「セレナさん…辛い、ですか?」 

 

 リリィの小さな声に、セレナは少し驚いたように顔を上げた。彼女はリリィの紫の瞳を見つめ、ふっと笑った。

 

「うん、ちょっとね。でも、リリィさんに話したら、なんか…少し楽になったかも。」 

 

 セレナの笑顔は、どこか無理をしているように見えた。リリィは、セレナが自分のために笑顔を作っていることに気づいた。

 彼女の心に、セレナを支えたいという気持ちが芽生える。

 戦場では、仲間を支えることはなかった。

 だが、セレナが自分を助けてくれたように、今度は自分がセレナを支えたいと思った。

 

「セレナさん…私、ピアノ、知らないけど…セレナさんが弾くの、きっと、きれいだと思います。花みたいに…。」 

 

 リリィの言葉はぎこちなく、たどたどしかった。

 彼女は自分の思いを言葉にするのが苦手だったが、セレナのために、精一杯伝えたかった。

 セレナはリリィの言葉に目を瞬かせ、くすっと笑った。

 

「花みたい、か。リリィさん、ほんとに優しいね。…ありがとう、なんか、元気出てきたよ。」 

 

 セレナの笑顔に、リリィの胸が温まる。彼女はセレナの手をそっと握り、勇気を振り絞って言った。

 

「セレナさん、もし…よかったら、ピアノ、聞かせてください。私、応援したい…です。」 

 

 リリィの真剣な瞳に、セレナの顔がパッと明るくなる。彼女はリリィの手を握り返し、にっこり笑った。

 

「うん、いいよ! リリィさんが聞いてくれるなら、頑張って弾けそう! コンテストの前に、練習聞いてもらってもいい?」 

 

「はい…楽しみ、です。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナの笑顔がさらに輝く。

 二人は温室のベンチで、しばらく手を握り合った。夕陽がガラス越しに差し込み、スズランとミントの鉢を照らす。

 リリィの心には、セレナとの絆が、過去の傷を癒す光として根付いていた。

 

 ――ー

 

 その夜、リリィはアパートの部屋で、ベッドに横になりながらカスミソウの鉢を眺めた。

 セレナの笑顔、彼女の悩みを聞いた時間が、彼女の心に温かな居場所を作っていた。

 リズの言葉や過去のトラウマはまだ胸の奥に残るが、セレナの存在が、それを少しずつ薄れさせていた。

 

「セレナさん…頑張って。」 

 

 リリィは呟き、目を閉じた。彼女の心には、セレナのピアノの音を想像する喜びが芽生えていた。学校での日常、園芸部の時間、セレナとの絆。

 それらが、リリィに新たな未来を信じさせていた。

 

 ――ー

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