光を取り戻す

 

 薄暗いコンクリートの部屋は、湿気と冷たい空気に満ちていた。鉄格子の窓から漏れるわずかな光が、埃の舞う空間をぼんやりと照らす。リリィ・フロストことリリウムは、制服姿のまま椅子に縛られていた。手首と足首を固く締めるロープが肌に食い込み、彼女の銀色の髪は乱れて床に散らばっている。

 紫の瞳は疲労と恐怖で曇り、額には冷や汗が滲む。リリィが誘拐されてから四八時間が経過していた。薬の効果がまだ体に残り、意識が時折揺らぐ中、彼女は必死に心を保とうとしていた。

 

 部屋の隅に立つリズ・ヴァレンタインは、リリィをじっと見つめていた。赤みがかった短い髪が薄暗い光に揺れ、彼女の瞳には狂気的な愛情と苛立ちが混じっている。リリィがどれだけ抵抗しても、彼女の心が折れないことに、リズの焦りは増していた。

 彼女はゆっくりとリリィに近づき、椅子に座るリリィの前にしゃがんだ。

 リリィの頬に、リズの冷たい指が触れる。

 リリィの体が一瞬硬直し、紫の瞳が警戒心でリズを睨む。

「リリウム…どうして、こんなに頑固なの?」 

 

 リズの声は低く、まるで愛を囁くように甘い。だが、その甘さには毒が混じっていた。彼女の指がリリィの頬を滑り、顎をそっと持ち上げる。リリィは反射的に顔をそむけようとしたが、ロープがそれを許さない。

 彼女の心臓が速く鼓動を打ち、戦場での訓練が呼び起こされる。だが、ここは戦場ではない。

 敵は銃や魔物ではなく、彼女の過去を抉る言葉だった。

「君は戦場で輝いていた。あの銀色の髪、紫の瞳、冷たいスコープ越しの視線。四〇〇メートル先の魔物を一瞬で仕留める完璧な射撃…。あれが、本当の君よ。」 

 

 リズの言葉は、リリィの心に鋭く突き刺さる。彼女の頭に、戦場の記憶がフラッシュバックする。

 硝煙の匂い、魔物の咆哮、血に濡れた地面。スコープ越しに見た無数の標的。そして、戦友の亡魂が彼女を責める声

「なぜ、お前だけ生き残った?」「お前が殺した。」

 リリィの呼吸が乱れ、額に新たな汗が浮かぶ。

「…やめて。言わないで…。」 

 

 リリィの声はか細く、ほとんど懇願に近かった。彼女の瞳には、恐怖と過去の傷が混じる。

 リズはそんなリリィを見て、唇に歪んだ笑みを浮かべた。彼女の手が、リリィの銀色の髪をゆっくりと撫でる。

 その感触は、まるで所有物を確かめるように執拗だった。

「やめる? なぜ? 君はハンターだ。完璧な戦士。なのに、なぜ桜ヶ丘高校? なぜ園芸部? なぜ…セレナ・フローレンスなんかに心を許してるの?」 

 

 リズの声が、セレナの名前を口にした瞬間、リリィの瞳がわずかに揺れた。

 セレナの笑顔、園芸部の温室、カスミソウの花言葉

「感謝」と「幸福」

 それらが、リリィの心に小さな光を灯す。彼女は唇を噛み、声を絞り出した。

「セレナさんは…私の友達。彼女は、私を…リリィとして見てくれる。」 

 

 リリィの言葉に、リズの瞳が一瞬鋭くなる。彼女はリリィの髪を強くつかみ、顔を近づけた。リリィの体が震え、恐怖が彼女を包む。

「友達? ふふ、リリウム。君は兵器よ。ハンター計画の最高傑作。友達なんて、君には必要ない。君は私のものになるべきなのよ。」 

 

 リズの声は、愛情と狂気が混じり合い、リリィの心をさらに締め付ける。

 彼女の手が、リリィの制服のブレザーに触れ、ボタンを一つ外した。リリィの体が硬直し、彼女の声が震える。

「やめて…お願い…!」 

 

 リリィの叫びは、ほとんど絶望に近かった。リズはそんなリリィを見て、笑みを深めた。

 彼女の手が、リリィの肩を撫で、まるで壊れ物を扱うようにゆっくりと動く。

 リリィの心は、恐怖と過去のトラウマで締め付けられる。彼女は目を閉じ、必死にセレナの笑顔を思い浮かべた。温室での時間、ゴールデンウィークの音楽ライブ、セレナの手の温もり。

 それらが、彼女の心をわずかに支える。

「君のこの体…戦場で鍛えられたのに、こんなに繊細で…きれい。傷一つないなんて、まるで人形みたいね。」 

 

 リズの声は、まるで愛おしむように響く。

 彼女の指が、リリィの首筋を滑り、鎖骨をなぞる。リリィの体が震え、彼女は必死に心を保とうとした。ユナの声が頭に響く。

「君は人間として生きるんだ。」

 セレナの笑顔が、彼女の胸に光を灯す。リリィは小さく呟いた。

「私は…リリィ・フロスト。ハンターじゃない…。」 

 

 その言葉に、リズの笑みが一瞬凍りつく。彼女の瞳に、苛立ちが浮かぶ。

 リリィの抵抗が、彼女の計画を狂わせていた。

 リズは立ち上がり、部屋の隅のテーブルから小さなナイフを取り出した。

 刃が薄光にきらりと光り、リリィの瞳が恐怖で見開かれる。

「頑固な子ね、リリウム。君がそんな風に抵抗するなら…少し、直接的な方法が必要かしら。」 

 

 リズはナイフを手に、リリィに近づく。

 彼女の声は、甘い毒のように響く。リリィの心臓が激しく鼓動を打ち、彼女は必死にロープを緩めようとしたが、結び目は固い。

 リズのナイフが、リリィの頬に近づく。

 冷たい金属の感触が、彼女の肌をかすめる。

「君のきれいな体に、傷をつけるのは惜しいけど…君が私のものになるなら、仕方ないわね。」 

 

 リリィの瞳から、涙がこぼれる。彼女の心は、過去の傷とリズの狂気で締め付けられる。だが、その瞬間、彼女の頭にセレナの声が響いた。

「リリィさん、園芸部でまた花の世話しようね。」

 その声が、彼女の心に小さな希望を灯す。

 リリィは唇を噛み、声を絞り出した。

「私は…セレナさんと、約束した。花を、育てるって…!」 

 

 リズの瞳が一瞬揺れ、彼女の笑みが歪む。

 彼女はナイフを握りしめ、リリィの頬に刃を近づけた。

「セレナ、セレナ、ね。彼女がそんなに大事? なら、君の心を壊して、彼女のことも忘れさせてあげる。」 

 

 リズの声が冷たく響く。彼女のナイフが、リリィの頬をかすめ、わずかに血が滲む。

 リリィの体が震え、恐怖が彼女を支配する。だが、その瞬間、部屋の鉄の扉が爆音とともに吹き飛んだ。

 

 ――ー

 

 コンクリートの壁に衝撃が響き、埃が舞う。リズが驚いたように振り返る。

 扉の向こうから、黒い戦闘服に身を包んだ数人の兵士が突入してきた。

 その先頭に立つのは、ユナ・クロフォード。彼女の鋭い瞳がリズを捉え、声が冷たく響く。

「リリウムに手を出すな。クロノスの使徒、リズ・ヴァレンタイン。観念しろ。」 

 

 ユナの手には拳銃が握られ、リズに向けられている。リズは一瞬たじろいだが、すぐに笑みを浮かべた。

「ユナ・クロフォード…リリウムの上官ね。遅かったわ。彼女はもう私のものよ。」 

「黙れ。」 

 

 ユナの声が鋭く切り裂く。

 彼女の背後の兵士たちが素早く動き、リズを囲む。

 リズはナイフを握ったまま、リリィに視線を戻した。

「リリウム…君は私の…。」 

 

 だが、リズの言葉は途中で止まる。

 ユナの部下が一瞬の隙をつき、リズの手からナイフを叩き落とし、彼女の手首を拘束した。

 リズは抵抗したが、訓練された兵士たちの動きに敵わず、すぐに床に押さえつけられた。

「連れていけ。クロノスの使徒の拠点についても吐かせる。」 

 

 ユナの命令に、部下たちはリズを連行する。リズは最後にリリィを振り返り、狂気的な笑みを浮かべた。

「リリウム…また、会うわよ…。」 

 

 リズの声が遠ざかり、部屋には静寂が戻る。ユナはリリィに駆け寄り、彼女の拘束を素早く解いた。

 ロープが解け、リリィの体が解放されるが、彼女の瞳はまだ恐怖と混乱で揺れている。ユナはリリィの肩をそっと掴み、声を柔らかくした。

「リリウム…大丈夫だ。もう安全だ。」 

 

 リリィの唇が震え、彼女はユナを見上げた。だが、言葉が出ない。

 リズの言葉、過去のトラウマ、辱められた恐怖が、彼女の心をまだ支配していた。

 

 その時、部屋の入口から別の足音が響いた。セレナ・フローレンスだった。彼女はユナに連れられてこの場所まで来ていた。

 セレナの金色の髪が薄暗い部屋で輝き、彼女の瞳はリリィを見て涙で潤んだ。

「リリィさん…!」 

 

 セレナはリリィに駆け寄り、彼女を強く抱きしめた。

 リリィの小さな体が、セレナの温もりに包まれる。

 リリィの心臓が、恐怖と安堵で激しく鼓動を打つ。

 セレナの声が、震えながらリリィの耳に届く。

「リリィさん…よかった、よかったよ…! 心配したんだから…!」 

 

 セレナの声は涙に濡れ、彼女の腕はリリィを離さない。

 リリィの瞳から、初めて涙がこぼれた。彼女はセレナの胸に顔を埋め、声を絞り出した。

「セレナ…さん…ごめんなさい…怖かった…。」 

 

 リリィの声は、まるで子供のようだった。

 セレナはそんなリリィをさらに強く抱きしめ、優しく背中を撫でた。

「ううん、謝らないで。リリィさんが無事で、ほんとによかった…。もう大丈夫だよ。私、そばにいるから。」 

 

 セレナの言葉は、リリィの心に温かな光を灯す。

 リズの冷たい言葉、過去の傷、それらがセレナの声に少しずつ溶けていく。

 ユナはそんな二人を静かに見つめ、わずかに微笑んだ。

 彼女は一歩下がり、セレナにリリィを任せることにした。

「セレナ、リリィを頼む。彼女には…君のような存在が必要だ。」 

 

 ユナの声に、セレナは頷いた。彼女はリリィの手を握り、優しく微笑んだ。

「リリィさん、ねえ、また学校行こう。園芸部で、ハーブの苗、植えるの楽しみにしてたよね? スズランも、カスミソウも、待ってるよ。」 

 

 セレナの言葉に、リリィの瞳が少しずつ光を取り戻す。

 彼女はセレナの手を握り返し、小さく頷いた。

「はい…セレナさんと、一緒なら…行きたい、です。」 

 

 リリィの声はまだ弱々しかったが、そこには確かな希望があった。

 セレナはそんなリリィを見て、涙を拭い、にっこり笑った。

「うん、約束だよ! 一緒に、たくさん花を育てようね。」 

 

 二人の手は固く握られ、温室での時間、ゴールデンウィークの思い出が、リリィの心に新しい力を与えた。

 ユナはそんな二人を見て、静かに部屋を出た。

 リリィの心は、セレナの存在によって、折れることなく保たれていた。

 

 ――ー

 

 その後、リリィはユナの部隊によって安全な場所に移され、医療チームによる検査を受けた。

 身体的な傷は浅いものだったが、精神的なダメージは明らかだった。

 セレナはリリィのそばに寄り添い、彼女が落ち着くまで手を握り続けた。

 リリィの心は、リズの言葉によって深く傷ついていたが、セレナの温もりと声が、その傷をゆっくりと癒していく。

 

 数日後、リリィは学校に戻った。

 園芸部の温室で、セレナと一緒にハーブの苗を植える。

 彼女の笑顔はまだぎこちなかったが、セレナの優しい声と、花の香りに包まれるたび、彼女の心は少しずつ癒されていった。

「リリィさん、このハーブ、ミントだよ。花言葉は『美徳』。リリィさんに、ぴったりだね。」 

 

 セレナの笑顔に、リリィは小さく微笑んだ。

 彼女の心には、セレナとの絆が、新たな光として根付いていた。

 リズの狂気的な言葉は、彼女の心に傷を残したが、セレナの存在が、それを上回る力を与えていた。

「セレナさん…ありがとう。あなたが、いてくれて、よかった。」 

 

 リリィの小さな声に、セレナの顔がパッと明るくなる。

 彼女はリリィの手を握り、にっこり笑った。

「私も、リリィさんがそばにいてくれて、嬉しいよ。これからも、ずっと一緒にいようね。」 

 

 温室のガラス越しに、夕陽が二人の姿を照らす。

 スズランとカスミソウが、静かに揺れていた。

 リリィの心は、過去の傷を抱えながらも、セレナとの絆によって、新たな未来を見始めていた。

 

 ――ー

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