闇の中の囁き
薄暗い部屋の空気は冷たく、湿ったコンクリートの匂いが鼻をついた。
リリィ・フロストことリリウムは、意識が戻るにつれ、体の異変に気づいた。
彼女の手首は背中でロープに縛られ、足首も同様に拘束されている。制服のブレザーとスカートは乱れ、赤いリボンが首元でわずかにずれたままだった。
彼女の銀色の髪は床に散らばり、紫の瞳が薄暗い部屋を見回す。頭が重く、薬の残滓がまだ体にまとわりついている。
「…ここ、どこ…?」
リリィの声はか細く、かすかに震えていた。戦場で鍛えられた彼女の身体能力も、薬の効果の前には無力だった。
彼女は必死に状況を把握しようとした。記憶の断片がよみがえる。
夕暮れの路地、倒れていた女性、腹部に走った鋭い痛み。そして、女性の声。
「リリウム…やっと、会えた。」
リリィの心臓が速く鼓動を打つ。
彼女はハンターとしての訓練で、危機的状況での冷静さを保つ術を学んでいた。
だが、今、彼女の心は戦場とは異なる恐怖に揺れていた。知らない場所、知らない敵。
そして、なぜか自分の本名を知る相手。彼女の胸に、過去の影が蘇る。
部屋の隅で、足音が響いた。リリィの視線が鋭く動く。
暗闇の中から、赤みがかった短い髪の女性が姿を現した。
リズ。彼女の黒いコートが薄光に揺れ、赤い瞳がリリィをじっと見つめる。その視線には、愛情とも憎悪ともつかぬ、異様な熱が宿っていた。
「リリウム…やっと、目を覚ましたのね。」
リズの声は低く、まるで子守唄のように甘い。だが、その甘さには毒が混じっているようだった。
リリィは反射的に身を引こうとしたが、拘束された体は動かない。
彼女の紫の瞳が、リズを警戒心で満たして睨む。
「あなた…誰? なぜ、私の名前を…?」
リリィの声は小さく、しかし鋭い。
リズはそんなリリィを見て、唇に歪んだ笑みを浮かべた。
彼女はゆっくりとリリィに近づき、しゃがんでその顔を覗き込んだ。
リリィの頬に、リズの指がそっと触れる。冷たい感触に、リリィの体が一瞬硬直する。
「リリウム…私のリリウム。戦場で輝いていたあの姿。銀色の髪、紫の瞳、冷たいスコープ越しの視線。あの完璧な射撃…全部、私の心に焼きついてる。」
リズの声は、愛おしむように震えていた。
リリィの胸に、戦場の記憶がフラッシュバックする。血と硝煙、魔物の咆哮、倒した戦友の亡魂。
彼女は目を閉じ、頭を振ってその記憶を振り払おうとした。
「…知らない。あなた、誰? 何を、したいの?」
リリィの声には、恐怖と抵抗が混じる。リズはそんなリリィを見て、くすっと笑った。
彼女の手が、リリィの銀色の髪をそっと撫でる。
「知らない? ふふ、リリウム。君は私の全てよ。七年前、戦場で君を見た。あの基地の襲撃で、君は魔物を次々に仕留めた。まるで神の使徒のようだった…完璧で、孤独で、壊れそうで。」
リズの言葉は、リリィの心に鋭く突き刺さる。七年前。
リリウムがまだハンターとして戦場にいた頃。彼女は任務を遂行するだけの存在だった。感情を押し殺し、ただ引き金を引く。
だが、その姿が、誰かの心を狂気的に捉えていたとは。
「君は覚えてないかもしれないけど、私は君を忘れなかった。戦争が終わって、君が消えても、ずっと探してた。クロノスの使徒に入ったのも、君を見つけるためよ。」
リズの声に、リリィの目が見開かれる。クロノスの使徒。
ユナから警告されていた、ハンターを敵視する秘密結社。
リリィの心臓が施加減の速さで高鳴る。
彼女がここに連れてこられた理由が、徐々に明らかになる。
「クロノス…あなた、使徒の…?」
リリィの声が震える。リズは立ち上がり、リリィを見下ろしながら笑った。
「そうよ、リリウム。結社には、君のようなハンターを監視する任務がある。だが、私には関係ない。君は、私のものになるんだから。」
リズの言葉に、リリィの胸が締め付けられる。彼女は必死にロープを緩めようとしたが、結び目は固く、動かない。
リズは再びリリィの前にしゃがみ、彼女の顔を両手で挟んだ。リリィの体が硬直する。
「君は戦場で輝いていた。でも、今は…こんな平凡な生活に紛れてる。桜ヶ丘高校、園芸部、セレナ・フローレンス…君には似合わないよ、リリウム。」
リズの声が、リリィの過去の傷を抉る。戦場での記憶。倒した魔物の咆哮、戦友の亡魂、血に濡れた手。
リリィは目を閉じ、唇を噛んだ。
「やめて…そんなこと、言わないで。」
リリィの声は弱々しく、ほとんど懇願に近かった。リズはそんなリリィを見て、ますます笑みを深めた。
「なぜ? 君はハンターだ。完璧な戦士。なのに、こんな…花を育てて、笑顔で友達と過ごす? 君の本当の姿は、戦場にあった。あの冷酷な瞳、完璧な射撃。それが、君の真実よ。」
リズの言葉は、リリィの心を切り裂く。
彼女の頭に、悪夢の記憶が蘇る。戦友の声。
「なぜ、お前だけ生き残った?」「お前が殺した。」
リリィの呼吸が乱れ、額に冷や汗が浮かぶ。
彼女は必死に否定しようとしたが、声が出ない。
リズの手が、リリィの頬から首筋へと滑る。彼女の指は、まるで所有物を確かめるように、ゆっくりとリリィの体を撫でる。
小柄で華奢なリリィの体は、戦場での訓練で鍛えられたとはいえ、繊細な印象を与える。
リズの瞳が、異様な光を帯びる。
「こんなきれいな体…傷一つない。戦場で血にまみれていた君とは、別人のようね。でも、この体も、君の一部よ。私のリリウム…。」
リズの声は、愛情と狂気が混じり合い、リリィの心を締め付ける。
彼女の手が、リリィの制服のブレザーに触れ、ボタンを一つずつ外し始める。リリィの体が震え、恐怖が彼女を支配する。
「やめて…お願い…!」
リリィの声は、ほとんど叫びに近かった。リズはそんなリリィを見て、笑みを浮かべた。
「怖がらなくていいよ、リリウム。君は私のものになるんだから。ゆっくり、じっくり、君の心を解きほぐして…君が本当の自分を思い出すまで。」
リズの言葉は、リリィの心をさらに追い詰める。
彼女の過去、戦争の傷、殺した敵の記憶。それらが、リズの声によって引きずり出される。
リリィは目を閉じ、セレナの笑顔を思い浮かべた。
園芸部の温室、カスミソウの花言葉、「感謝」と「幸福」。セレナの優しい声。
それらが、彼女の心に小さな光を灯す。
「私は…リリィ・フロスト。ハンターじゃない…!」
リリィの声は弱々しかったが、そこには抵抗の意志があった。
リズはそんなリリィを見て、笑みを深めた。
「ふふ、いいわ。その抵抗も、君の一部よ。君がどんなに否定しても、私は知ってる。君の本当の姿を…。」
リズの手が、リリィの体をさらに撫で回す。彼女の指は、まるで壊れ物を扱うように慎重で、しかし執拗だった。
リリィの心は、恐怖と過去のトラウマで締め付けられる。
彼女は必死にセレナの笑顔を思い出し、心を保とうとした。
だが、リズの言葉と触れ合いは、彼女の精神を容赦なく削っていく。
――ー
時間は流れ、リリィの意識は再び薄れ始めた。薬の効果がまだ残っているのか、恐怖と疲労が彼女を弱らせていた。リズはそんなリリィを見て、満足そうに微笑んだ。
「ゆっくりでいいよ、リリウム。君は私のものになる。時間をかけて、君の心を…。」
リズの声は、闇に溶けていく。
リリィの意識は、再び暗闇に落ちる。
彼女の胸には、セレナの笑顔と、園芸部の温室が、微かな希望として残っていた。
だが、その希望は、リズの狂気的な執着の前に、か細いものだった。
――ー
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