消えた足跡

 

 五月の終わり、桜ヶ丘高校の周辺は夏の気配に満ちていた。夕暮れの街は、家族連れや学生たちの賑わいで活気づき、街灯の光が柔らかく道を照らす。だが、その穏やかな風景の中に、静かな波紋が広がっていた。

 リリィ・フロストことリリウムが、忽然と姿を消したのだ。

 

 ――ー

 

 **前日の夜**

 

 ユナ・クロフォード、二八歳、ハンター計画の責任者の一人であり、リリウムの上官は、基地のオフィスで机に向かっていた。彼女の前には、モニターに映し出されたクロノスの使徒に関する報告書。

 戦争終結から五年、ハンターを敵視するこの秘密結社の活動が、最近になって再び活発化していた。

 特に、リリウムのような高位のハンターを標的とした動きが確認され、ユナの胸には不安が広がっていた。

 

「リリウム…無事でいてくれ。」 

 

 ユナは呟き、スマホを取り出した。リリウムには、定期的に連絡を取るよう指示していた。

 彼女の「普通の高校生」としての生活を守るため、ユナはリリウムの動向を遠くから見守っていた。

 

 だが、最近のクロノスの使徒の動きを考えると、リリウムに直接警告する必要があると感じていた。

 

 ユナはリリィの偽名「リリィ・フロスト」の連絡先にメッセージを送った。

 

「リリィ、今夜、状況報告を。急ぎだ。」

 

 だが、返信はない。数分待っても、既読マークすらつかず、ユナの眉が寄る。

 リリウムは、任務に関わる連絡には即座に応答するよう訓練されていた。

 彼女の沈黙は、異常事態を意味していた。

 

 ユナはすぐに電話をかけたが、コール音が続くだけで繋がらない。

 彼女の胸に、冷たい予感が走る。戦場での経験が、彼女に最悪のシナリオを想像させた。ユナはコートを羽織り、リリィのアパートへ向かうことを決めた。

 

 ――ー

 

 リリィのアパートは、街の外れにある古い建物だった。

 ユナが到着したのは夜九時を過ぎた頃。インターホンを押すが、応答はない。鍵はユナが管理するスペアキーを使用し、部屋に踏み込む。

 室内は静かで、ベッドは乱れていない。

 机の上には、園芸部で使った小さなハサミと、カスミソウの鉢。リリィが帰宅していないことは明らかだった。

 

「リリウム…どこだ?」 

 

 ユナの声には、焦りが滲む。彼女は部屋を調べ、鞄や制服が置かれておらず学校から帰っていないことを確認した。

 リリィが学校から直接帰宅せず、どこかで足止めされている可能性が高い。

 ユナはすぐに基地の本部に連絡を入れた。

 

「こちらクロフォード。リリウムが行方不明だ。最終確認は今日の放課後、桜ヶ丘高校の園芸部活動終了時。周辺の監視カメラをチェックし、クロノスの使徒の動向も再確認しろ。急げ。」 

 

 ユナの声は冷静だが、内心は嵐のようだった。リリウムは、彼女にとってただの部下ではない。

 幼少期から戦士として育て上げた少女であり、妹のような存在だった。

 戦争終結後、リリウムに「人間らしい生活」を与えたいと願ったのは、ユナ自身の贖罪でもあった。

 彼女を危険に晒すわけにはいかない。

 

 ユナはアパートを後にし、リリィの帰り道を辿ることにした。校門からアパートまでのルート、路地裏、コンビニ。彼女の鋭い観察眼が、わずかな手がかりを探す。

 だが、路地の片隅で、カスミソウの切り花が散らばっているのを見つけた瞬間、ユナの心臓が冷たく締め付けられた。

 リリィが大切にしていた花。彼女がこれを落とすはずがない。

 

「リリウム…!」 

 

 ユナは花を拾い上げ、握り潰すように手に力を込めた。

 クロノスの使徒、あるいは他の何者かが、リリウムを狙った可能性が高い。ユナは本部に追加の指示を出し、夜の街を駆け巡った。

 

 ――ー

 

 **翌日、桜ヶ丘高校**

 

 朝の教室は、いつも通りの賑わいだった。

 だが、一年A組の席の一つ、リリィの席は空のままだった。

 セレナ・フローレンスは、朝からその席を何度も見つめていた。リリィが登校してこない。

 彼女の胸には、ゴールデンウィークでのリリィの笑顔や、園芸部での穏やかな時間が浮かぶ。昨日、部活後に別れた時のリリィの小さな笑み。

 あれが、最後の姿だったのか。

 

「ねえ、ミオ、リリィさん、今日来てないよね? なんか、連絡あった?」 

 

 セレナが隣の席のミオに尋ねる。

 ミオは弁当を広げながら、首を振った。

 

「んー、ないよ。リリィ、なんか用事でもあったんかな? でも、連絡なしで休むなんて、珍しいよね。」 

 

 ミオの軽い口調に、セレナの不安がさらに膨らむ。リリィは、園芸部の活動を心から楽しんでいた。休むなら、必ず連絡をくれるはず。

 セレナはスマホを取り出し、リリィにメッセージを送った。

 

「リリィさん、大丈夫? 今日、部活でハーブの苗植えるの、楽しみにしてるよ。」

 

 だが、返信はない。

 

 昼休み、セレナは我慢できず、リリィのアパートを訪ねることにした。

 彼女はリリィの住所を、園芸部の連絡網で知っていた。

 学校を抜け出し、自転車でアパートへ向かう。

 胸の奥で、悪い予感がざわめいていた。

 

 ――ー

 

 リリィのアパートに着いたセレナは、インターホンを押した。だが、応答はない。

 ドアをノックしても、静寂だけが返ってくる。

 セレナの心臓が速く鼓動を打つ。

 リリィが何かトラブルに巻き込まれたのではないか。

 彼女はドアの前で立ち尽くし、スマホを握りしめた。

 

 その時、背後で足音が響いた。

 振り返ると、黒いコートをまとった女性が立っていた。ユナ・クロフォードだ。

 彼女の鋭い瞳がセレナを捉え、セレナは一瞬たじろいだ。

 

「あなたは…?」 

 

 セレナの声に、ユナは静かに答えた。

 

「ユナ・クロフォード。リリィの…親戚だ。君は、セレナ・フローレンスか? リリィから話を聞いている。」 

 

 ユナの声は落ち着いているが、どこか緊張感を帯びていた。セレナはユナの言葉に少し安心しつつ、急いで尋ねた。

 

「リリィさん、どこにいるの? 今日、学校に来てなくて…心配で、来ちゃったんです。」 

 

 ユナの瞳が一瞬揺れる。彼女はセレナをじっと見つめ、ゆっくりと口を開いた。

 

「リリィは、昨日、学校から帰る途中で行方不明になった。現在、行方を追っているが…まだ見つかっていない。」 

 

 セレナの目が見開かれる。行方不明。彼女の頭に、リリィの笑顔、園芸部での時間、ゴールデンウィークの思い出が一気に押し寄せる。

 リリィが、突然消えた? そんなことが、ありえるはずがない。

 

「そんな…リリィさんが、どうして…?」 

 

 セレナの声が震える。ユナはそんなセレナを見て、静かに続けた。

 

「リリィには…複雑な事情がある。彼女がこの学校に来たのは、普通の生活を送るためだった。だが、彼女の過去を追う者がいる可能性が高い。」 

 

「過去…?」 

 

 セレナの胸に、アヤメとの会話がよみがえる。リリィがハンターかもしれないという話。

 セレナはそれを信じたくなかったが、ユナの言葉には、否定できない重さがあった。

 ユナはセレナの動揺を察し、声を低くした。

 

「セレナ、君はリリィの友人だ。彼女がどんな過去を持っていても、君は彼女を受け入れていた。それは、リリィにとって大きな支えだった。」 

 

 ユナの言葉に、セレナの目から涙がこぼれそうになる。彼女は拳を握り、声を絞り出した。

 

「リリィさんは、私の大切な友達です。どんなことがあっても、戻ってきてほしい…!」 

 

 ユナはセレナの瞳を見つめ、静かに頷いた。

 

「私もだ。リリィを取り戻す。約束する。」 

 

 ユナはそう言い、アパートを後にした。セレナはリリィの部屋のドアを見つめ、胸に決意を刻んだ。

 リリィを、必ず見つけ出す。彼女の笑顔を、温室での時間を、取り戻すために。

 

 ――ー

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