第1幕:文化祭の午後



教室にはテープの貼られる音や、ガムテープを引きちぎる軽やかな破裂音が鳴っていた。

文化祭を翌日に控えた放課後、教室はざわめきに包まれていた。


蓮は、窓際の机をひとつずつ並べ直しながら、遥の後ろ姿をちらりと見つめた。

彼女は脚立に乗って天井から吊るす装飾を整えている。カーテン越しに差し込む夕方の光が、彼女の髪の隙間を透かして、まるで金糸のように揺れていた。


「蓮、そこ持ってて」

遥が笑いながら言った。彼女の声はいつもより少しだけはしゃいでいる。


言われたとおりに支えると、遥が布をかけた。布地は淡いラベンダー色で、まるで空と夜のあわいをそのまま織り込んだようだった。


「……ちょっと低いかな?」

遥が覗き込んでくる。近くで見ると、彼女の瞳には淡い光が宿っていて、蓮はなぜだか少しだけ言葉を飲み込んだ。


「この色、蓮が選んだんだよね」

「うん。君の好きな色だったから」


遥はしばらく黙ってから、ふっと笑った。

「覚えててくれたんだ」


ただの飾り布にすぎないのに、ふたりの間には、秘密の合図のような気配があった。


翌日。文化祭本番。

校庭には焼きそばの匂い、チョコバナナの甘さ、笑い声。空には紙風船がふわりと浮かんでいた。


「行こっか」

遥がそう言って、蓮の袖をつまんだ。


屋台をめぐり、ヨーヨー釣りや型抜き、演劇部のホラーハウスなどを笑い合いながら回る。けれど、どこかでずっと、遥の目は別の場所を見ていた。


ふと、風が吹いた。

桜の季節は終わっているはずなのに、一枚の花びらが空から降ってくる。

蓮が手を伸ばすと、それは指先に触れる直前でふっと消えた。


「あれ……?」

遥が振り返ったその瞬間、遠くの視界が揺れる。教室棟の窓ガラスに、ふたりの影がぼんやりと映っていた。いや、影ではなかった。そこに映っているふたりは、どこか少しずつ違っていた。


「行ってみよっか」

蓮が小さく言った。


教室棟の裏、ひと気のない旧校舎の一室。

かつて音楽室だったというその部屋の奥に、ぽつんと古い姿見が立っていた。


鏡の前に立ったふたりは、一瞬言葉をなくす。

そこに映っていたのは、今の蓮と遥ではない。制服は同じなのに、空気が違っていた。

遥の髪は少し長く、蓮の目はどこか遠くを見ていた。


その背後に、深い森のような風景が広がる。

風が吹き抜ける音、花の香り、湿った土の匂い——現実には存在しないはずの感覚が、鮮やかに二人の間を通り抜ける。


森の中には、ひとりの少女が立っていた。

その姿はぼやけていて、顔もはっきりとは見えない。けれど遥にはわかる気がした。あの子は、まだ名前のない「未来」の誰か。まだ言葉もない願いを抱えた、見知らぬ影。


「ここはね、夢と現の狭間だよ」

遥がぽつりと言う。自分でも、なぜそんなことを口にしたのか、わからなかった。


けれど、体の奥が知っていた。

この日々がずっと続くわけじゃない。蓮の隣にこうして立っていられる今が、薄氷の上にある儚い奇跡だということを。


蓮が遥の手を取った。

指先は温かく、確かに生きている。


「消えてもいいよ」遥がつぶやく。「でも、ちゃんとここにいたって、覚えてて」


その瞬間、鏡の中の花影の森がざわりと揺れた。

風に乗って、ひとひらの光が遥の胸元に降りる。光はそっと染み込み、蓮の頬にもかすかに触れた。


気づくと、教室に戻っていた。

祭りのざわめきが遠くで鳴っている。鏡も、花の香りも、何もない。けれど、遥の手の中に、一輪の白い花が握られていた。


「……これ、持ってて」

遥は花を蓮の胸ポケットに差し込んだ。

「なくさないで。いつか、あなたが思い出す日のために」


彼女はそう言って、また笑った。けれどその笑顔は、どこか寂しげに見えた。

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