花影より、君へ

プロローグ:春の午後



春の風は、いつもよりほんの少し冷たく感じた。

教室の窓の外では、桜の花びらが淡く儚く、ゆっくりと舞い落ちている。

まるで時間そのものが溶けてしまったかのように、空気は静かに揺れていた。


ぼくは机の上のノートに視線を落としたけれど、文字は次第にぼやけて消えそうだった。

その文字はまるで薄い霧のように宙に漂い、現実と夢の境界を曖昧にする。

いつの間にか教室の音は遠のき、風のささやきだけが耳に残る。


「ねぇ、蓮」


隣の席から、ふわりとした声が降ってきた。

振り返ると、遥が教科書を閉じてぼくを見ていた。

彼女の瞳は春の陽射しを浴びて輝いているが、その奥には遠くを見つめるような切なさが宿っていた。


「放課後、図書室で勉強しようよ」


遥の声は柔らかく、それでいてどこか震えていた。

ぼくは言葉が見つからず、ただ微かにうなずいた。

図書室はいつも、時間の流れが違うみたいで、そこにいると現実の重みが少しだけ薄らぐ気がした。


教室の隅には誰も弾かないピアノが静かに佇んでいる。

時々ぼくは、その鍵盤に触れてみるけれど、音は泡のようにすぐに消えてしまった。

その儚さが、ぼくの心の奥にぽっかりと空いた穴を思い出させる。


授業の合間、廊下を歩くと風が通り抜けた。

桜の花びらがひらひらと舞い、まるで空気が止まったかのように時間が緩やかに流れる。

その中で遥がぼくの腕にそっと触れた。


「ねえ、蓮」


彼女の声は小さく、震えていた。

「ずっと、こうしていられたらいいのに」


ぼくは何も言えずに彼女の手を握り返した。

その手の温もりは、泡のように消えそうで、でも確かな現実だった。


外では遠くから鐘の音が響く。

それはまるで別の世界からの呼び声のように、ぼくの胸に染み込んでいった。


ぼくの心の奥底で、小さな願いが芽生えた。

――この時が、永遠に続けばいいのに。


けれど、知っている。

花はいつか散り、ぼくらもまた、それぞれの時間へと消えていく。


遥の手の温もりを感じながら、ぼくはそっと目を閉じた。

幻想と現実の狭間で、ぼくらの物語は静かに幕を開けた。


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