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DAY2
ソーダ色の海に揺蕩う。
朝の陽が白い砂に光の輪をつくる。
ほれて迫る波の壁がラムネ色に透ける。
その向こうに澄んだ秋の空が見える。
快晴
微風 南西の風
オフショア
大潮 干潮いっぱいからの上げ
サイズ 腹たまにセット胸
ひとり。
混み合うピークを避け、ひとり。
波を待つ。
彼方水平線の色が変わる。
現れる波のピークを見定め板を返す。
ゆっくり海をかく。
波に呼吸を合わせる。
板が滑りだす。
崩れる波の壁を走る。
砕ける波頭がひかりを弾いて散る。
これがクジラですよ
じつをいうと、クジラを見たことがなかった。ユリちゃんがお弁当を包むバンダナはもちろん、お菓子などイラストでデフォルメされたクジラは見ていたが、生き物としてのクジラは見たことがなかった。
クジラは、二メートル近くある生き物なのかな
ユリちゃんはよく、オレがくじらのように大きいという。
大きいから、くじらちゃん
遊覧船で窃取した女の子もそういっていた。
きのうの夜、広縁でお菓子を広げるユリちゃんに訊いてみた。クジラに似ているから好きだというなら、クジラのようなライディングをしたいと思っていた。が、
くじらさん、クジラを見たことないんですか?
ユリちゃんが目をまん丸にするからあわててしまう。そんなに、非常識だっただろうか。
逗子で見たことはないね
たまに、死体が上がってニュースになってます
死体。
そっか、わたしの想いが伝わらない原因はそこですね
いえ、ユリちゃんの想いはこの一日とちょっとでだいぶ、伝わってはいるのですが。
これです、シロナガスクジラ
ユリちゃんがスマートフォンで動画を見せてくる。
世界一、大きな生き物です
スマートフォンの画面いっぱいに広がる海に、なにか巨大な生き物の背中がゆっくりと浮上し、また潜っていく。浮上するタイミングで水を噴き上げそれが、美しく虹をつくる。波を弾き浮上しては潜る姿が、大きなターンを繰り返す、カルフォルニアローキーのロングボーダーにも、たしかに見える。
画面が水中に替わる。冷たい海だ。深い
大きくて、ゆったりとして、それから、優しい
優しい。優しい? ひとり、海の奥へ去っていくその姿は「優しい」より「寂しげ」に、オレには見えた。
こんな身体で、プランクトンしか食べないんです
クジラが去った、画面を見つめる。
それに、
それに?
ユリちゃんの目が、ふい、と、遠くを見る。窓の外、広がる海の闇にではない。ここにはではないなにか、いまではないいつか、を見つめている。
ユリちゃん?
けれどもそれも一瞬で、
それに、それから、
ユリちゃんがスマートフォンを胸に抱き肩をすぼめて笑う。
愛おしい!
下田の海は波がはやく、鎌倉のように大きなターンを描くのはむずかしい。
一度ボトムに降り波の肩にのりなおす。トップにレールを固定し、波をなでるように穏やかなターンを入れゆく。
追いかけるようにうしろで波が巻く。
風を切る。
空を仰ぐ。
真っ青な秋の空を。
あぁ、
秋の陽が頬を優しく焼く。
崩れ切るまえにテイルに重心をかけ板を返す。
沖へ戻りながら、ちら、と岸を窺う。浜ではユリちゃんが流木に腰かけて、大きく手を振っていた。ゴープロを早々に諦めて、スマートフォンをこちらに向けている。小さく手をふりかえす。
だまされてるよ、ユリちゃん
波にのるオレが優しく見えるならそれは、
波がオレに優しいからだ。
海が、過去に、いまも、してきた所業ごとオレを懐に優しく抱き込むからだ。
いつかユリちゃんが目を覚ましたなら
そのときは
そのときも
緩いうねりが笑うようにボードを揺らす。
水平線がひかりを散らすのを認めて、ボードを返す。
二日目。
波乗り撮影会と下田花火大会。
『くじらさんのサーフムービーをつくる』と譲らないユリちゃんと、
『女の子を堕とすなら花火大会だ』などと抜かす朧月の提案で、
オレの口を挟む隙間など頑固なはまぐりの口程もない。
堕とそうと思ってない
手のひらを向けるけど
『堕とさないなんて、ユリちゃんに失礼だ』
朧月はそう目を丸くしていた。
満潮、お昼まえにサーフィンはお終い。花火は午後六時から。この時間だって大切だ。
少しはやいお昼ごはんをして、夕方までふたり、海辺でぼんやりする。
なかなかいいプランだ。
ユリちゃん、このあと、
が、女子高生にとって『ぼんやりする』など『なにもしない』に等しいようで、
観光しましょう、くじらさん! 伊豆観光!
シャワーを浴びラウンジへ戻るとユリちゃんは、フロントよこに並べられたパンフレットを物色していた。
「『恋する灯台』ですよ!」
ここもとない道を運転しながらユリちゃんが手にしているパンフレットをちら、と横目で見る。
白浜と吉佐美のあいだにある観光名所、爪木崎だ。
そんな名所があったのかと思うが、パンフレットに載っているのはどれも水仙祭り、つまり冬の写真だ。一三五線を逸れ爪木崎へ向かう道に、前後はおろかすれ違う車すらない。案の定、シーズンオフの駐車場にはあたり障りない車が二台ほどあるだけだった。
こんな寂しい場所で、ユリちゃんは楽しいだろうか。
わ! ガラ空き! 景色独り占め!
ユリちゃんは眼科に広がる須崎の海と、まだ遠くに見える『恋する灯台』の写真を撮るに夢中だ。
ほら! いい写真!
って、嬉しそうにスマートフォンを向けてくる。見ると、塗装のはげたベンチのハート型をした背もたれのなかに、半島の端、小さな灯台が収まっていた。
灯台! 灯台!
よし、大丈夫そうだ。
水仙の咲いていない水仙群生地を過ぎ、灯台をめざして遊歩道をぐんぐん登る。夏の名残、伸び放題伸びた薮に隠れた小径をどんどん進む。
やがて、
あ! 灯台!
ちょっと待って! 灯台、小さい!
江ノ島シーキャンドルを想像していたオレは軽い衝撃を受ける。目の前に現れた灯台は四階ほどの高さしかない。ユリちゃんがとび上がって手を叩く。
「灯台、小さくないですか! なにこれかわいい! なんですかこれ!」
おもちゃみたいな灯台にはしゃぎ、
「なにこれかわいい! なんですか、これ! アザラシ?」
台座に描かれた昭和モダンな海上保安庁マスコット、アザラシのように見えるなにかにはしゃぐ。
「くじらさん、ちょっととなりに並んでみてください! きゃぁかわいい!」
果てはオレとアザラシのツーショットを SNSに投稿してははしゃぐ。ユリちゃん、そのアカウント、鍵かかってますよね。
灯台バックに写真も撮る。
灯台から遊歩道を降ったところに木目塗装が剥げた石のテーブルセットとハート型のアーチがあり、そのアーチの中から、海と灯台をバックに写真を撮ることができるようになっている、らしい。ベンチの一つに白ペンキで『スマホ台』と、かいてあるだけの『スマホ台』には台がなく、スマホがおけない。
「くじらさん! はやくはやく!」
明らかにひとり掛けだろう『スマホ台』にふたりで座る。ユリちゃんが構えるスマートフォンにふたりで収まる。
なるほど、こういうことか。いや、こういうことなのか?
インカメにしたスマートフォン画面には、ハートのなかにユリちゃんとオレ、その向こうにちんまりかわいい白い灯台と、淡く光を弾いた海が収まっている。ぴったりくっつくユリちゃんの、百合の香りが鼻をくすぐる。気持ちも、くすぐったくなる。
「あ! そうだ! くじらさん、たいへんなんです!」
カメラ目線のまま、ユリちゃんがわざとらしく目を丸くする。
なんでしょうか。というかこの体勢で、大変なおはなしでしょうか。
「わたし、クラスの男子に告白されちゃったんです!」
え、なんて?
「つきあってください、て!」
なにいっちゃってるんだそのクラスの男子は。ユリちゃんにはいま、オレがいるだろうが。
偵察した、もちろんユリちゃんには内緒だが、ユリちゃんの『一年七組』男子面々を巡らす。どいつもヒヨッ子、まだ身体だってできてない、そんな感じだった。
「驚かないんですか?」
いまこのタイミングには驚いた
嘘じゃないですよ
そうだろうね。贔屓目を差し引いてもユリちゃんはかわいい、容姿も性格も。
「嫉妬したり、しないんですか?」
オレに引き留める権利なんてない。
「なぁんだ」
オレの反応にユリちゃんは膨れっ面だ。それもかわいい。
ユリちゃんの柔らかい腰を抱きよせる。もちもちの頬を摘む。
「あっ余裕なんだ! そうなんですね!」
あんなガキどもに、ユリちゃんの気持ちが動くとも思えない。
「たしかにわたしのくじらさんは、クラスのだれよりステキですけど!」
ご満悦な笑みでユリちゃんがシャッターを押す。
ユリちゃんのころころ変わる表情が愛おしい。
気を抜けば、手を伸ばしてしまいそうだった。
いや、気を抜いた。じっさい肩に手を伸ばそうとして、
っ、
臆病な殺意に左手が反応する。
「くじらさん?」
尻ポケットに左手を構えて視線を走らせるけど、
「奥さん! 危ないよぉ!」
いるのは遊歩道をあとから登ってきた老夫婦だけだ。遊歩道の下を覗き、なにごとか叫んでいる。
「なにかしら」
それに反応したユリちゃんがオレの腕をすり抜けて駆けだすのを、あわてて追いかける。デート真っ最中だしクラウンの件もあるし、そんなたやすくオレから離れないでほしい。
「どうしたんですか」
「危ないのよ、女のひとがね」
老夫婦に駆けより声をかけると、おばあさんが崖下に指を向けた。ユリちゃんが柵から身をのりだして覗き込むから、お腹に腕を回しておわてて抱き込む。
ユリちゃん! 落っこちるから!
遊覧船といい、ユリちゃんはたまに危なかっかしい。そこもかわいいんだけれど。こんなおてんばの手綱を握るなんて、『一年七組』の良い子どもには無理だろう。嫉妬云々以前の問題なんだよ、ユリちゃん。
「あれ! くじらさん!」
横抱きにされたままユリちゃんが声を上げる。崖下には、柱状節理とやらをぐるりとめぐる散策路がまいていて、ひとり、女性が散策路のロープから身をのりだしていた。
「ちょっと奥さん! 危ないってぇ!」
おじいさんが呼びかけるが女性はこちらを向きもしない。なにか必死に、手を伸ばしている。
「あのひと、危ない」
散策路の下には、切り立った奇岩が林立している。海に落ちないまでもロープを越えて転落すれば怪我では済まない。
目を凝らす。
女性の伸ばす腕の向こう、ハンカチのようなものが木の枝に引っかかっていた。なにかしら喚きながら、ハンカチを取ろうとしている。
そしてその女性のすぐ背後、
女性の喚き声にか、
じぶんがしようとしていることにか、
縮こまるガキがひとり、両腕を不自然に曲げて立っていた。殺意はどうやらあの子どもからだ。
巻き込まれたらたまらない。
ユリちゃん、ここはおじいさんたちに任せて、オレたちはソフトクリームでも食べにいこう
「くじらさん! あのひと、落ちちゃいそうです!」
はい、助けにいってきます
「やっぱりくじらさんは、かっこいいですよね!」
ハンカチ、ではなくスカーフだったらしいそれは、オレの身長でなんなく手が届いた。
手渡したスカーフを、汚いものを摘むように受けとる女性が気に食わなかったけど、ユリちゃんはオレの『人助け』にご満悦だ。ユリちゃんがいいならそれでいい。
「お兄ちゃん、背ぇ高いねぇ!」
て、目をまんまるにするおじいさんとその奥さまにも、
「そうです! くじらさんですから、大きいんです! 大きくて、かっこよくて、優しい!」
て、得意げに頷いていた。こんな体格でよかったと思ったのはこれがはじめてだ。それなのに、
「あの子、かわいかったなぁ」
え? なんて?
「さっきの男の子」
さっきの、
気の弱そうなガキだった。小学五年くらいか、泣きそうな顔をして。
そんな顔をして、オレが駆けつけると、女性を突き落とそうと構えたその手をあわてて引っ込めた。
「なんか、もじもじしちゃって」
もじもじ、
「母性くすぐりますね!」
ボセイ、
「わたしもあんなかわいい子がほしいなぁ! なんて、きゃ、いっちゃった! くじらさんは、女の子が、くじらさん、くじらさん?」
ちょっと待て、あんなガキがいいのか、ボセイってなんだ、いやそもそもかわいい男が好みだったのか。
「あ! くじらさん」
混乱するオレにユリちゃんが目を輝かせる。
「ヤキモチですか! そうですか! そうなんですね!」
い、いや、ちがっ
「きゃぁ! 嬉しい! くじらさん、男の子だと大変かなぁ」
なんのはなしでしょうか
「赤ちゃんの性別は、選べないしなぁ。女の子だと、口うるさそうだしなぁ」
え、なんのはなしでしょうか
あ、待ってユリちゃん!
踊るように遊歩道を戻っていくユリちゃんをあわてて追いかける。
楽しそうにポニーテールを揺らしてユリちゃんが笑う。
「やっぱり子どもはふたり、ほしいですよね!」
だから、なんのはなしでしょうか!
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