2.5
ユリちゃんリサーチのアップルパイをユリちゃんは一.五人分、オレが〇.五人分頬張り、ホテルへ向かうころにはすっかり、秋の夕暮れが海を染めていた。
「海が、」
ユリちゃんが後部座席から身をのりだす。
下田市街からホテルのある白浜へ、小さな峠を登ってまた降る。海へ迫りだす降りの大きなカーブ、岩塊の合間から白浜の海を望む。
東に開ける白浜の海は静かに凪いで、緩いうねりに茜色の陽の欠片が揺蕩い、砂金をまぶしたガラス細工のように輝いていた。
「きれい」
そうだね
ユリちゃんと見るなら、なおさら。
「くじらさん」
はい
「楽しいですか?」
楽しくないように、見えますか
ユリちゃんが愉快そうに肩を揺らすのに満足する。おかしなことを訊くね。『楽しい』を教えてくれたのは、ユリちゃんなのに。
朧月が宿に選んだのは、白浜を望むリゾートホテル『ホテル伊豆急』。
全室オーシャンビューの客室と露天温泉、地魚海鮮コース料理が自慢の三つ星ホテル。で、あるらしい。
いつものゲストハウスはダメなのか
それ以外の発想がなかった。
生まれてこの方『お泊まり』なるものをしたことがなく、この歳になり半ば強引に、朧月に連れていかれたのが民家を改装した宿泊施設、『ゲストハウス』だった。
「ダメってか、ダメだろ」
朧月が目を丸くする。
「おまえ、はじめてのお泊まりデートにバストイレ共用自炊宿はない」
お泊まりデート、難易度が高い。
「ホテルなんて、盗みにいくらでも入ってるだろ」
盗みに入るのと客として泊まるのを一緒にするのか。オレも、目を丸くする。
ついこのあいだ盗みに入った、なんとか大臣が愛人を囲っているというホテルを思いだす。アプローチには黒塗りの高級車が停まり、ラウンジでは談笑という名の商談が行われ、レストランでは会食と称し腹の内を探りあう。豪華ではあったがユリちゃんを連れていきたい場所ではない。
「そんなホテルが伊豆にあるかよ。『ホテル』ってついてるけど温泉旅館だ」
オンセンリョカン。盗みにすら入ったことがない。
しかも、白浜。
「多々戸は風が合わない。ユリちゃんにいいとこ見せるなら、白浜の方がいい」
下田のサーフポイントは下田市街を挟んで東に白浜、西に吉佐美、と別れている。
どちらで波乗りするかは、その日の風向きに左右される。白浜は東、吉佐美は西に海岸が開けていて、南西風が吹くこの時期、吉佐美は決まって波が荒れた。
ただ、どちらの海岸を選ぶか、好みもある。和気藹々、グループやカップルで楽しみたいサーファーは白浜。純粋に波を楽しみたいサーファーは静かな吉佐美。と、いう傾向があった。
徒党を組んでピークを陣取り、仲間がのるたびにシュプレヒコールを上げる。そんな集団のとなりで波を楽しむ気にはなれず、オレはもっぱら吉佐美、そのなかでも小さな多々戸浜にお邪魔していた。それは朧月もおなじで、ゲストハウスもその多々戸浜に隣接していた。
パリピ白浜の、しかも『ホテル』の名を冠した『温泉宿』。
それなりに社会性が必要で、それなりに客層の民度も高いはずだ。
ゲストハウスどころかニンゲンとしての住居すら持たないオレなど、場違いすぎる。つまみだされたりしないだろうか。彼氏が宿泊拒否など、ユリちゃんがあまりにかわいそうだ。ブルジョワを演じてみせろといわれれば鋭意努力するが、二十年培った社会性のなさはどこでボロをだすかわからない。
「おまえ、臆病になった」
臆病? 予想外のことばに朧月をじっと見る。が、拗ねたように目を逸らされてしまった。オレがユリちゃんの彼氏になってから、彼はたまにこんな顔をする。
「まぁオレには、関係ないけどさ」
関係ないって、顔じゃなかった。
「あとその日、ゲストハウスは満室だから」
オフシーズンにか。訝しげなオレに朧月が押しつけてきたのは、
『白浜でつくる一生の思い出』
ホテル伊豆急ブライダルプランの案内だった。
「ようこそいらっしゃいました」
車をおくとすぐ、年配のドアスタッフが迎えにでてくる。
アロハシャツで。
アロハ
九月に、ドアスタッフが、アロハ
オレの知っているホテルとちょっと違うが、
「きょうはサーフィンですか?」
どうやら宿泊拒否は免れたようだ。
「はい、彼が!」
「そうですか」
オレの腕を引くユリちゃんに、ドアスタッフが目を細める。ユリちゃんが未成年であることに気づいていて、それを駿河湾の温かさで覆い隠してくれているようだった。
「夕飯のまえに温泉ですよね!」
ユリちゃんはさっそくキャリーの中身を突散らかしている。
ユリちゃん、まず休みませんか
お茶をいれながら広縁の堀テーブルに腰掛け眼下を望む。
海の反対、山側に沈む夕陽の、茜色を映した白浜の海を一望する。
朝は、海からの朝日が望めるはずだ。
ユリちゃん、ほら、海。が、
「この浴衣、『大』でもくじらさんには小さいですよね。フロントによっていきましょう」
今度はタンスのなかをひっくり返している。じっとしていられないのか、かわいいなユリちゃん。
薄いお茶を啜りながら海からすぐ下へ、目を移す。海に迫り出すように、ホテルの屋外プールがある。どうやらまだ稼働中らしく、海に面したプールサイドにはサマーチェアが並んでいる。
『一階ラウンジからプールサイドにでていただけます。あちら、奥の小径から海へでることができますので』
ドアスタッフの説明を思いだす。
ちょうど、ボードを抱えた男性がその小径から戻ってくるところだった。
『朝八時から夕方五時までご利用いただけます。プールサイドへでる扉は二四時から翌朝五時まで施錠されますのでお気をつけください』
さすがリゾートホテル、アロハでも防犯は抜かりない。
ゲストハウスでは玄関さえ施錠されていなかったな、と思いだす。さすが朧月、女の子については頼りになる。
あのクラウン、ニュースになってますよ! 残念、重傷かぁ、意識不明
どっちに転んで残念なのか、物珍しさに電源を入れたテレビのニュースに、ユリちゃんは手なんか叩いて悔しがっている。
重傷、なるほど残念。次の手を打ってくるかそれともそれまでか。いずれにしてもオレはいまお泊まりデート中で、相手にはしていられない。
見下ろしたプールサイドの脇、生垣から微かに、ほんとうに微かに漂う不慣れた殺意、殺意というよりまだ不安定な興奮に近いそれは、とりあえず泳がせておくことにする。
ユリちゃん、
眼下のプールではまだ、ひと組、家族が遊んでいた。小さな女の子をのせた浮き輪を父親が引っ張り、女の子は夢中で水飛沫をあげている。父親が休もうとするとすぐ頭を叩いてまた父親が浮き輪を引っ張る。それを、プールサイドから母親がカメラスタッフよろしくスマートフォンを向け手をふっている。
そうか。と思う。ああした家族もあるのだ。
ほしい
そう思うものはいつもいたるところにあるのに、そう思うものは決まって手に入らなかった。
ほしい
あれがほしい
ユリちゃん、
ユリちゃんに声をかけている。
ユリちゃん、プールはどうでしょうか
それなら、ユリちゃんも一緒に楽しめるのではなだろうか。ついでに、あくまでついでにユリちゃんの水着姿だって、
「わたしはいいです」
そうですか、残念。
「あ! 貸切家族風呂なら、いいんですけど!」
それはオレが逮捕されるのでやめましょう。泥棒が児童福祉法違反で捕まるなんて、笑えない。
「だって、くじらさんをサーフィンを見たいし」
けれどそれでは、と、心配になる。それではユリちゃん、退屈なのでは? 波乗りに夢中になり彼女を待たせ破局に至る、若いサーファーあるあるだ、と、聴いたことがあった。
オレは波乗りが好きだ。けれど、ひとが波乗りするのを見ていて、『楽しい』ものなのだろうか。
「くじらさん、パンツこれですか?」
待って!
いつの
ユリちゃん、
「はい、あ、こっちでしたか?」
それはサーフトランクスなんですが。
ユリちゃんは、『楽しい』ですか
「もちろんです!」
ユリちゃんが目を丸くする。オレのパンツを手に、顎を上げる。それからうっとり目を閉じる。オレは真剣に心配しているのに絵面がシュールすぎる。
「わたし、くじらさんのライディング、すっごく好きなんです」
ちょっと待って!
オレ、ユリちゃんのまえで波乗りしたこと、ありましたっけ?
あわてて胸中で手のひらを向けるけど、
「さあ! 温泉、温泉!」
それに、ユリちゃんは応える気がないようだった。
なるほどこれが『温泉』か。
じつは、温泉たるものを経験したことがなかった。二十歳にしてそれはどうかすら判断がつかない。が、
「神奈川県民!」
朧月が目を真ん丸にするから、やはりふつうではないんだろう。
ガキの頃、風呂に入っていると決まって母が乱入してきた。身体を触られ、逆に母の裸体に触れることを強請られた。そうでない日もじっと、半透明の扉の向こうからこちらを窺っている。それがどうしようもなく恐ろしくて、銭湯や温泉、人目のあるところではシャワーすら使わなくなった。母が、十三年前にたしかに殺したはずの母が、覗きにくるのではないか。cafe mellowでシャワーをかりているいまでさえ、ジョナサンが見張ってくれている
修学旅行は?
学校にいってない
ああ、そうか。けど仕方ない
ニンジン、仕方ない。みたいに朧月が表情なくいい放つ。
おまえは、ユリちゃんのものなんだから
その通り。
ユリちゃんが温泉というなら、オレも温泉を楽しまなくては。そう覚悟を決めてきたのに。
温泉! 温泉!
ご機嫌にオレの手を引く、柔らくてふた周りも小さい手を見る。フンフンでたらめに花唄を歌う背中でポニーテールが愉快そうに揺れる。
露天ですよ! 露天風呂!
はい、はいはい
そんな覚悟は、きっと杞憂だった。
いま、母がやってきたとして、オレに近づくことはできない。
『あっちにいけ!』
あの日、オレがユリちゃんのこころを盗みだしたあのときのように、追い払ってれるに違いない。到底オレなんか収まりきらない背中に、オレを庇ったりして。
ジョナサンはいつだって頼りになるが、ホテルまでは入れない。
けれでいまはユリちゃんがいる。ユリちゃんが傍に、いてくれる。
そうだ、そうだった
頼もしい飼い主の小学生に引かれる大型犬よろしく、あとについていく。
人生初の温泉。
静かだ。
ただ、湯の溢れる音と、虫の鳴く声、だけ。
柔らかい湯にゆるゆる、気持ちが溶けていく。ほう、と、ため息がでる。露天風呂から、ぽっかり浮かぶ満月を見上げる。
ユリちゃんも露天風呂かな、あれだけ楽しみにしていたしな。
壁を隔てユリちゃんとおなじ月を見る。「一緒」じゃない時間もくすぐったい。
温泉、癖になりそうだった。
風呂上がり、待たされるなんても苦にならない。ビン牛乳を手にプールサイドへでる。海沿いらしく扉は二重で、自動ドアの外側に風除けの手動ドアがある。
プールはすでに営業を終えているが、プールサイドを照らす灯りは明るい。『ブライダル』のためだろう小さなアーチをくぐり、奥へ向かう。プールサイドの端に、薮に隠れた未舗装の小径が、国道へ降りていた。高さ胸ほどの錆びた柵が、いまは閉まっている。小径を降りようとしたところでスマートフォンがポポンと鳴る。
〈いまでました(ハートの絵文字)〉
はい、はいはい
できないスキップをする勢いでラウンジへ戻る。
『女の子はなんでも時間がかかる。野郎の二倍はかかる』
ジャスト、オレが上がって一時間後だった。
ご飯! ご飯!
ついでにいうと、コース料理なるものも初めてだった。
風呂からそのまま、レストランへ向かう。浴衣でいいのか?
館内浴衣オーケーって、書いてありましよ。たしかに! 浴衣のくじらさんはヤクザ感が半端ないですけど!
なるほど、給仕はやっぱりアロハだし、客はみな浴衣のままだった。
「わっ、おいしそう!」
ずらり、テーブルに並ぶ料理をまえにユリちゃんの目が輝くが、
「ね、くじらさん!」
え、はい
品数の多さに圧倒されオレはそれどころじゃない。
どれから食べていいのか、決まりはあるのか。マナーが、あるのかどうかもわからず、箸すら持てない。
以前、娘夫婦を離婚させる口実づくりのため、結婚指輪を盗んでほしいという依頼を受けた。『ナイフとフォークも使えない男に娘をやるわけにはいかない』という理由だった。テーブルマナーなど一部の金持ちが気にするだけだ、と内心舌をだしながら盗みに入った先は、同級の詐欺師だった。けっきょくは、と、肩を落とした。けっきょくは、オレたちみたいなニンゲンはこうやって世間から弾かれるんだ。
『地に足のついた立派な青年』が現れるなら潔く身を引く覚悟だ。が、ナイフの使い方ごときで別れるなど悔やんでも悔やみきれない。
「くじらさん、なにか飲みますか?」
え、はい。
「日本酒、呑んでみてください! オトナノオトコ、ぜったい似合うしかっこいい!」
え、はい。
「あと、」
え、はい。
「くじらさんはいつも、サラダから食べてますよ!」
え、はい。はい?
顔を上げると、愉快そうにユリちゃんが笑っていた。
あ、
たしかにユリちゃんのお弁当は、添えられたサラダから箸をつけていた。ユリちゃんのお弁当はいつだって楽しみで、メインを口にするには心の準備が必要だった。
ふい、と、力が抜ける。
箸を手に取る。
「ちなみに」ユリちゃんが肩を揺らす。
「わたしは! まずプリンから!」
思わず吹きだす。おかしくて笑うなんて二十年生きて二十年ぶりで、もちろんそれが顔にでるなんてことも、ないのだけど。
『楽しいですか?』
もちろん
笑うなんて、オレの人生には無縁だったのに。
「あ、ひどい、いま笑いましたね! わたしは、食べたいものから食べる派なんです!」
むくれるユリちゃんの顔を、じっと見してしまう。
「あのさ、指輪を盗みだしてほしいんだ」
詐欺師の結婚指輪を盗みだして翌日、当の詐欺師はそうオレに依頼してきた。夕方の学食、まだワカメうどんオンリーだったオレの向かいで、おなじくワカメうどんを食いながら。
品の良い見たくれでひとを誑かす彼が、グーで箸を握りうどんを口に運ぶのが滑稽だった。「それ、流行ってるのか? その箸の持ち方」なんて、転入してきたばかりの朧月が、羨望の眼差しで眺めるのに小さく息を吐く。
ずいぶんあっさり盗みだせたと思っていたがそうきたか。一度指輪を手に入れた夫婦は満足して、いつの間にかそれが失くなっていたとしてもそのことには気づかないだろう。
結婚指輪をどうしたのだと詰られたところで「指輪がなにか?」と、戻った指輪を披露する。
オレにしたら個別の依頼だ。なにもおかしいところはない。が、だし抜かれたようでいい気分ではない。
「彼女がこんなボクに愛想を尽かしたってなら諦めもつくけどね」 好青年の面を被った彼は、その笑みでいったい幾人騙してきたのか、爽やかに歯を見せる。「親の反対程度で終わらせたくないんだ」
どうせ騙して吊り上げた女の子なんだろ。
奥二重の目を丸くして、それから照れたように彼は肩を揺らした。
「騙そうとして、そのときにはもう、騙されてた」
売店でも金目鯛を見て、部屋でも菓子を広げ、もう一度温泉を使う。
あとは眠るだけ。の、はずなのに。
「それでは!」
ユリちゃんっ!
浴衣姿のユリちゃんはヤル気、いや、やる気満々で布団に鎮座している。
上気した頬が玉子みたいにすべすべで、布団に正座してるユリちゃんはまさに据膳とかいうやつだ。
しかも、夕飯前にオレがわざわざ離して敷いた布団を、ご丁寧にくっつけている。ユリちゃん、オジサンはユリちゃんの将来がめちゃくちゃ心配です。
「そろそろ寝るお時間ですよ!」
「あ!」
ゆっくり布団をこちらに引っ張って離すと、また膨れっ面になる。
では眠ましょうおやすみ
「くじらさん!」
ユリちゃん、
「むぅう」
そんな顔しないでください
「く、くじらさんはっ」
お?
引き結んだ唇がふるふる震えて、吊り上げていた眉が八の字に落ちてくる。耳まで真っ紅になる。
「くじら、さん、は、」
大きな目にみるみる涙があふれて頬を転がり、膝で結んだ拳に落ちてゆく。
あぁ、
「わたし、わたしっ、のこと、」
あぁ、ごめん。だけど、そんな顔もかわいいんだ。
子どもみたい、幼い泣き顔を録画モードにした胸に留める。
「っひ、もうっ、」
しゃくりをあげだすユリちゃんの頭を、オレにできる限り、優しくなでる。
ユリちゃん、オレはオレのこころを、間違いなくユリちゃんに納品した
オレのこころはユリちゃんのものだ
それとも、オレの仕事になにか不備でも?
「あ! そんな、そんな顔! は、反則です!」
ユリちゃんは顔をまた真っ紅にして、
バフン!
頭から布団をかぶってしまった。
芋虫みたいだ、かわいい。こんどこそ写真を撮ろうとして、
「知らない!」
バシッ
脚でスマートフォンを弾きとばされてしまった。
下田の夜は静かだ。
微かに届く波のを音を耳に、膝を抱える。
不貞腐れたまま寝落ちしてしまったユリちゃんの、寝顔を見つめる。
ほしい
眉間の皺をそっと、指で延ばす。
ユリちゃんが
ユリちゃんの、
ふわりとした頬を手のひらで包む。涙のあとをなぞる。
こころがほしい
そのまま唇に触れようとして、けれど、手を離す。
小さく息を吐く。
微かに届く波の音に気持ちを預ける。
盗みだしほしい?
ユリちゃん
許されるならとっくに、盗みだしいていたよ
「わたしのママはあんなんじゃありませんから」
真剣な、ユリちゃんの
レストランでだ。
となりのテーブルが引き上げたすぐあとだった。
「おとなり」
なんだ、なにかとなりのテーブルに不穏なものがあっただろうか。ユリちゃんがアワビと格闘するのを脳内録画するのに忙しく、となりのテーブルなど気にしていなかった。
「姑、ってやつですよ」
しゅうとめ
なんだそれは。
「子どもがかわいそう」
『しゅうとめ』がなんかはわからないが、子どもがかわいそうなのは由々しき事態だ。曖昧に相槌を打つ。
「安心してください!」
え、なにをでしょうか
ユリちゃんが勢いよく身をのりだすからあわてて仰反る。
「わたしのママは、ぜったい、くじらさんのこと気に入るし」
なんのはなしでしょうか。
「パパはアレです、ヘタレだから関係ないし」
きょうはいろいろ、なんのはなしでしょうか。
あとパパさまの扱いがかわいそう。
「お兄ちゃんにはくじらさんのこと、もうはなしてありますし」
待って、はなしてあるってなにを?
「あ、浴衣の写真も送っておきましたよ」
待って!
『ヤクザみたいだね』だって! 泥棒だって、返しておきました。え、どうしたんですか、くじらさん?」
いや、ちょっと、胃が。
そうやって。
そうやってユリちゃんは家族のことをはなすのに。
ユリちゃんがそこで、オレの家族について訊いてくることはなかった。考えてみれば、オレの『なまえ』さえユリちゃんは気にすることがない。
やはりユリちゃんにとってオレはただ、青春の一頁でしかないのだろう。
それでいい。それがいい。
ほしい
ユリちゃんがほしい
もうずっときっと、ほしかった
ユリちゃんが傍にいてくれるだけで毎日は『楽しい』で溢れている。
楽しくて、くすぐったくて、きっとこれが『しあわせ』だ。
毎夜現れる亡霊だってユリちゃんが傍にいてくれるだけで離れていく。
けれど、だ。
けれど、それはオレの都合だ。
ユリちゃんに与えてもらうだけ与えてもらって、ひとから奪ってばかりのオレがユリちゃんに与えられるものなんてなにもない。
『臆病になった』
そうじゃない。
『おまえに盗めないものなんてない』
そんなことはわかっている。
オレが一番、わかっている。
拳に爪を立てる。唇を噛む。
「ユリちゃん、ごめん」
ほしい
そして
『ほしい』ものは手に入らない
子どもたちを盗み
金品を盗み
食い物を盗み
唯一の肉親すら愛せず
自身を盗みだしてきたような男が
そんなオレが
ユリちゃんのこころを盗みだしていいはずが、ないんだよ
その日はユリちゃんのよこで、座ったまま眠った。
奪うことにこころが揺れるのは、はじめてだった。
「くじらさん! くじらさん! 起きてください!」
なんだどうしたっ!
地震か! ってくらい身体を揺すられてとび起きる。視界にとびこむ凶悪な残暑の朝の陽と、
「くじらさん! きょう見せてくれるんですよね! サーフィン!」
きのうの不機嫌が嘘みたいな、ユリちゃんの笑顔があった。
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