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DAY1
快晴。秋晴れ。絶好の海日和。
オンボロワーゲンバスはご機嫌に国道一三五号線をとばす。
日の出と一緒に神奈川をでて、海を縫うように一路、伊豆へ。
山あり谷あり海ありの一三五は、急カーブと急勾配が連続する片側一車線だ。ほんの百キロ程度で体感ジェットコースターが楽しめる。
「きゃぁぁぁぁあ!」
カーブや下り坂のたび、ユリちゃんが大はしゃぎでオレにしがみついてくる。調子にのってスピードを上げる。
「わっ、くじらさん! 海! 海!」
眼下に望む駿河湾大パノラマに、
「きゃぁ! 波、高波!」
防波堤を越えて砕ける波に、
「はい、お茶です! はい、サンドイッチ! はい、チョコパイ、わたし、これ大好きなんです! はい、コーヒー!」
オレの口になにかしら放り込んでくる助手席のユリちゃんに、気分も上がる。
歌なんてひとつだって知らないはずなのに、デタラメな花唄だって口ずさむ。
そうか、これが俗にいう『楽しい』というやつか
『楽しい』なんて、二十年生きてきて二十年ぶりだ
ユリちゃんがとなりにいるだけで世界はいつだって、「楽しい」で満ちている。
熱海、伊東、東伊豆をすぎ、いよいよ下田の海が近い。
車窓から見える海の色が変わりはじめた、あたりだった。
うしろに、黒いセダンがついているのに気がついた。
「あ! うしろ、パパとおなじ車!」
ユリちゃんがシートにのりあげて声を上げる。バックミラーを一瞥する。
え、ユリちゃんのパパさま、ずいぶん厳つい車にのっていらっしゃる。
黒塗りのクラウンだ。
「仕事の車、なんですけど」
なるほど、覆面の警察車両か。
「さっきから、ついてきてる気がする」
そうだろうな。
「まさかパパ?」
え、なにそれやめて
思わず二度見してナンバーを確認する。どうやら警察車両じゃないらしい。
とりあえずパパさまじゃなかったことに安堵するけど、
「あら、あれピストル? くじらさ、っぷ」
失礼ながら頭を掴んで乱暴に、ユリちゃんを胸に抱き込む。
ジャンキーな殺意。
サイドミラーを視線の端で確認する。クラウンの助手席から粗悪な拳銃が覗いている。これはこれで面倒だ。
先週片付けた仕事のうち、新規顧客のリストを記憶から引っ張りだす。
港湾の積荷に隠されたクスリ。
検疫所に保管された八本足のでかい生き物。
なんとか大臣愛人のスマートフォン。
芸能事務所の机に積まれた裁判書類。
どれも我ながら完璧に納品した。口止めだろう。
多くはお得意さんだが新規顧客のなかにははまれに、実行役を消して口封じを考えるやつらもいる。
下手くそだな
山道に慣れていないのか、運転がだいぶ乱暴だ。撃つタイミングを測れずにいる。
いつものオレならここでサイドブレーキを思い切り引きあてさせて、慰謝料のひとつでも請求している。が、
まぁいいか、きょうのオレは『楽しい』からな
思いきりアクセルを踏む。
離されまいと向こうも速度を上げてくる。
こんなご機嫌な一三五号線でオレに仕掛けてきたのが間違えだ。
雲ひとつない秋の空。
眼下に広がるラムネ色の海。
腕にに収まるユリちゃんのポニーテールがくすぐったい。
楽しい
『急カーブ 危険』の標識を認める。
思いきりアクセルを踏み込む。
オンボロワーゲンが唸る。
クラウンも喰らいつく。
見えた
『小湊第二隧道』
岩盤をくり抜いただけの小さなトンネル。
そのトンネルへつづく手前、
カーブ半径30m、下り勾配九パーセント
一三五号線切っての絶景ポイント。
下手な速度で運転に慣れない、いや、一三五号線連続カーブに慣れないニンゲンが突っ込めば、確実に海へダイブできる。
遠心力に耐えるギリギリまで速度を上げる。
上げたまま海に迫りだすカーブへ入る。
「きゃあぁ」
胸のなかであがる愉快そうな叫び声がくすぐったい。
楽しい
遠心力をふりきるようにして勢いよくハンドルを切って、戻す。
カーブしたままトンネルが迫る。
入り口手前で軽くブレーキを踏み、またすぐアクセルを踏み込む。
トンネルを抜ける。
抜けてしまえばもう、後方は確認できない。
叫ぶようなブレーキ音とクラッシュ音だけで、クラウンが海に落ちたことを確認する。
第二隧道を抜け第一隧道に入るその一瞬だけ、碧い、下田の海が開ける。
あぁ、海だ
楽しい
生まれてこの方使った試しがない表情筋が思わず緩む。
「やった! やった、くじらさん!」
腕のなかからユリちゃんが、顔をだした。
「うしろの車、海に落ちちゃいましたよ!」
は、しまった!
運転に夢中で、ユリちゃんを忘れていたわけじゃないけれど、ユリちゃんが一般市民であることを忘れていた。ちょっと乱暴なところを見られてしまったか。
「くじらさんを煽るなんて、百年はやい! ですよね!」
うぅん、ユリちゃんが喜んでるなら、まぁいいか。
「ガンガンいきましょう!」
ユリちゃんにかかればどんなことだって、『楽しい』に変わる。
ぶんぶんとばす。
クラウンをふり切り降って登ってまた降って。
ワーゲンがウォンウォン呻るのも気にしない。
さいごの登坂、小さな峠のパーキング『尾崎ウイング』を越えればそこは、
「わぁぁぁあ! あおい!」
眼下に見えてくるのは下田白浜。
「すっごいきれいな海!」
伊豆の海はそのまま陽を映す。
だれかがそうはなしていた。
白い砂が全ての波長の光を反射する。だからあんなに透明なあおになる。そのガラス細工みたいな、海と波が好きだった。
陽を眩しく弾く白い砂浜
ラムネ瓶みたい、
あおく透ける海
淡い潮のかおり
波と戯れる波乗りたち
逗子の海だって好きだけど、伊豆の海は格別だ。沿道のフェニクスも手伝って、どこか知らない南国まで来た気分だ。
「サーフィン! サーフィンしていますよ!」
オレが波乗りするのをユリちゃんは楽しみにしてるみたいだけど、できればオレもユリちゃんのビキニ姿を拝んでみたい。
波にのらなくたっていい。ロングボードで海に浮いているだけでもう、『サーフィンライフ』の表紙を飾るくらいの絵になるはずだ。
ユリちゃんはサーフィンやらないのかな
オレが提案したのは、
「焼きたくないんです。シミだらけの彼女なんてくじらさん、いやですよね」
そう敢えなく却下された。
オレはどんなユリちゃんでも好きだし、むしろどうしたって、ユリちゃんの清楚でかわいらしくて健康的な水着姿を拝みたいんですが
などと、
「わたしはくじらさんを録画するんですよ!」
って、ゴープロを手に邪気なく笑う女子高生に、当然ながらいえるはずもなかった。
『デートはドライブとランチと、ディナーと花火だ』
朧月はしたり顔ではなしていたけれど。
そんなアドバイスなくたって、ユリちゃんがいればおいしいものを食べたくなるのは自然の欲求だ。
下田市に入りちょっと遅いランチはオレのお気に入り。下田漁港に併設された『金目亭』。朝、水揚げされた金目鯛を堪能できる。
が!
「目がむりです!」
ユリちゃんはなんと『金目鯛天丼』だ。それじゃなんの魚かわからない。
「わかります! このふわふわな白身はまさに金目鯛です!」
そう、大ぶりな天丼をまえにユリちゃんは得意げに顎を上げる。
ホカホカごはんの上に、サクサク衣の揚げたて天ぷら。サクリと割れて、なかからふかふかの白身が顔をだす。
「ほら! このほくほくの身はまさに金目鯛!」
金目鯛はもちろん、エビもカボチャもサツマイモも、天ぷらはどれも大きくて、ユリちゃんはご満悦だ。
それなのに、
「目が! 目が見てますよ!」
て、オレの『金目鯛姿煮定食』には両手で目を覆ってしまう。
いや、そう思いきやこわいもの見たさか、指の隙間からチラチラ見てる。かわいすぎる。
目玉だけ取りだしてからかうとまた、きゃぁ! て、あわてて目を塞ぐ。かわいすぎる。
姿煮は大きな金目鯛丸ごと一匹。頭と尾が皿からはみでている。肉厚でふわふわ、身が柔らかい。甘辛いタレに出汁が染みて臭みもない。
『お袋の味』とはこういうものだろうか
まだユリちゃんのお弁当を知らなかった数ヶ月まえのオレは、そう考えながらひとり、いつもひとり、海をまえにカウンターで金目鯛を食っていた。そういうものだと、思っていた。
いまは向かいに、ユリちゃんがいる。
「お腹いっぱいです」
煮付けを半分こして、ユリちゃんが食べきれないご飯はオレがいただく。〇.五と一.五人分で、オレたちはすごくちょうどよくできている。
こうゆう瞬間もすごくいい。
見てみろ、オレは世界一のしあわせ者なんだ。
碌でもないじぶんの人生を、だれかれかまわず、自慢したかった。
金眼亭をでると漁港の端に、真っ黒な厳つい遊覧船が停泊していた。
以前、物珍しさにパンフレットを手にしたことがあった。ペリー来航の黒船を模した遊覧船で、遊覧時間の割に乗船券はどう見積もっても高額だった。きっとそれだろう。
だれがのるんだろうな。ほんものの黒船ならまだしも模型だなんて。それより石廊崎まで足をのばして、
「船がありますよ! くじらさん、のってみましょう!」
いいね、のってみよう
逗子や鎌倉の海には『遊覧船』なるものはなく、どうやらユリちゃんは『船』にのってみたいらしかった。
「クラスの子が、横浜で彼氏と、水上バスにのったらしいんですよ」
なるほど。きっとそれとはだいぶ、違うものだけど。
ユリちゃんは停泊中の『黒船』を激写するのに夢中だ。
そのあいだにチケットを買おうとして、ふと、頬をなでる西風に顔を上げる。
風が上がるか
遊覧船がでるかギリギリのところだろう。欠航の札がでていないことを確認し売店へ入る。
大人二枚
レジに座る女性スタッフにチケットをお願いするが、
大人、二枚
反応がない。
サボっているわけではないだろう。真面目を絵にしたような女の子だ。
分厚い黒縁メガネとおさげにした髪。薄い化粧のせいか幼く見えるが、歳はオレとおなじほどだろう。
ネームホルダーで、リスを模したキャラクターのチャームが揺れている。きっとそれが唯一の、ささやかで慎ましい趣味に違いない。
なにかあるのか?
メガネちゃんの視線を追って顔を向ける。
売店の煤けた窓の外は乗船者専用駐車場だ。そこにはただ、ひと組、これから乗船するつもりらしい家族がいるだけだった。
ただ気になるとすれば、親と思しきオトナが幼いきょうだいを引っ叩いていることだろう。引っ叩かれた勢いで岸壁から海へ落ちそうになっている。
なるほど。
オレは向きなおると、カウンターを指で軽く叩いた。
「あ、ごめんなさい!」
メガネちゃんがハッとしたように肩を揺らす。
大人二枚
指で示すと、あわてたようにチケットに検印を押す。それから、
「あの」
チケットを渡そうとして、その手がとまる。メガネの向こうから、縋るような目で見上げてくる。
「警察に連絡したほうが、いいでしょうか」
声が震えている。
チラ、とふり返る。先ほどの家族がちょうど、こちらへ向かってくるところだった。
『警察に連絡して、面倒ごとに巻き込まれないだろうか。そもそも、警察は取り合ってくれるだろうか。けれど放ってもおけない』
そんなところだろう。
間違いなく面倒なことになるだろうし、警察も取り合わない。そしてその通り、遅かれはやかれあのきょうだいは殺される。
腰をかがめメガネちゃんの目を見る。
その必要はない
メガネちゃんが小さく、頷く。
生真面目メガネちゃんが、目つきの悪いこの大男に相談するだけでも、かなりの勇気が要ったはずだ。
子どもはオレが、『保護』しよう
「あの、」
メガネちゃんがなにかいいかけて、出航時間を知らせるアナウンスが流れる。
「くじらさん、出航ですよ、出航!」
ユリちゃんが売店にとび込んできた。
チケットを受け取りメガネちゃんに小さく顎を引く。
「くじらさん!」
はい、はいはい
ユリちゃんの手を取り売店をでる。
急ごう、ユリちゃん
あの家族が来るまえに。
「はい!」
黒船に夢中だったユリちゃんは、どうやら家族に気づいていない。それに安堵する。
ユリちゃんが気づけば確実に首を突っ込むだろうし、突っ込んだら確実に面倒なことになる。
「まえ! まえの方の席が、いいと思いますよ!」
いいね、船首側にしよう
ユリちゃんに、そんな面倒はいらない。
ユリちゃんに引っ張られるようにして桟橋へ向かう。
桟橋を渡りながら空を仰ぐ。大きな鳶が旋回するのを認めて、『黒船』にのり込んだ。
海ではすでに、小さな風波が波頭を崩しはじめていた。
「きゃあぁぁぁあっ、最高に、気持ちいいですね!」
ユリちゃんっ落ちますから! 欄干から身をのりださないで!
「二階って特別席ですよね。覗いてみましょうよ!」
危ない! ユリちゃんっ、走らないで! というか座っていて!
「かっぱえびせん、懐かしい! くじらさん、はい、あーん」
ユリちゃん! これはカモメの餌なんですよ!
はじめての船旅にユリちゃんは大はしゃぎだ。
船首のベンチを陣取り、欄干から身をのりだす。甲板を走りまわり、果ては船内で買ったカモメの餌を食べはじめる。
そんなユリちゃんに、いや、オレにか、向かいに座る若い男女の視線が鬱陶しい。
騒がして申し訳ない、オレの彼女はちょっとおてんばなんだ
ユリちゃんが口に放り込んでくるかっぱえびせんを食いながら、彼氏くんに視線だけ投げる。ふたりは顔を強張らせ、反対側を向いてしまった。
周囲の、訝しげな視線には気づいていた。
女子高生と成人男性。
無邪気な少女と目つきの悪い大男。
どうしたってチグハグだ。なんならかの犯罪の、じっさい犯罪ギリギリを掠ってはいるが、においさえする。
それでも、
「カモメがついてきますよ!」
船に並走するカモメにユリちゃんがはしゃぐ。身をのりだすのを片腕で支える。
海風がユリちゃんの前髪を攫う。きれいな曲線を描く額が露わになる。大きな瞳に海を映して笑う。愉快そうにカモメに腕を伸ばす。
「楽しい!」
楽しい、
それでも、
ユリちゃんが楽しいならそれでいい。
「楽しいですね!」
ユリちゃんが楽しいなら、オレも楽しい。
人生二十年目にしてはじめて知った『楽しい』だった。
もし、ユリちゃんが周りの視線に気がついたなら?
遠からずきっと、気がつくだろう。そうして、オレから離れていく。
それでいい。ユリちゃんにはいつだって、陽のあたる場所で笑っていてほしい。
それなのに。
そう考えるのに。
秋の陽を弾くユリちゃんの笑顔を、見つめる。気管の奥がキュゥッと締まって、そんな感覚もはじめてだった。
そろそろか。
出航から十分ほど、波が変わる。折り返しが近い。
遊覧船サスケハナ号は下田港内を巡り折り返すそのタイミングだけ、外海を掠る。
遮るものなく吹きつける風と外洋のうねりに船体が揺れる。
あのチビたちを盗みだすなら、そこだ。
南西の風
海上風速6メートル
うねり2.5メートル
大潮と
はるか南の小さな台風
なかなかいい条件だ。
ユリちゃんのかっぱえびせんに手を伸ばす。
「くじらさん?」
残りの菓子をまとめて掴むと、それをカモメたちに差しだす。
やっときたか! カモメたちが色めき立つ。風をうまく使い複雑に滑空し、オレの手から餌を咥えては去っていく。
「わぁ!」
ユリちゃんの目が輝く。「わたしも、」と菓子の袋に手を伸ばしたところで、
「ぎゃっ」
「ちょとなにこれぇ!」
叫び声に顔を向ける。
ピュイーーーーー
ピュイーーーーー
ヒョロロロロ
ピュイーーーーー
カモメじゃない。
「鳶!」
ユリちゃんが目を丸くする。
カモメよりずっと、質量のある黒い影。羽を広げた姿は人の丈ほどもある猛禽たちが、束で、向かいの男女を襲っていた。
「マジヤバいってなにこれっ」
彼女が騒ぐのに、彼氏はことばもなく、群がる鳶から我が身を守るので精一杯だ。
オレがしたのを見て、おなじように手から餌をやろうとしたのだろう。
『トンビに注意! エサは持たずに、投げて与えてください』
欄干の注意書を見ずに。
もはや彼氏の姿は鳶たちに囲まれて見ることができない。突かれどつかれ、欄干を越え海に落ちてしまいそうだ。
まわりの乗客たちは恐怖に、見守るほかない。乗船員たちもニヤニヤ、様子を見ている。
それから、あのきょうだいも。
姿は見えない。けれど後方、二階へ上がる階段裏、ガキ特有の好奇心が気配を現す。
「カモメさんも、来てくれますか?」
ユリちゃんは鳶たちの勇姿に夢中だ。餌をやりたいのに、
「わたしも! わたしもやりたい! あれ?」
じぶんたちで食べてしまった菓子の空袋を必死にふっている。
ちょっとかわいい。
いかにも『悲しい』、みたいな
「あぁ、いっちゃった」
やがて餌がなくなったのか襲撃はおさまり、鳶たちは思い想いに空へ帆翔しはじめる。
船に平和が戻った、かのように見える。後方を窺う。小さな影が船室に駆け込むのを、目の端で捉える。
上空、ジョナサンが鳴くのを耳で捉える。
大丈夫
カモメはまだ、船を離れていないよ
支えていた腕で、ユリちゃんの腰をキュッ、と抱きしめる。
お菓子、オレが買ってこよう
「きゃっ! くじらさん、優しい!」
ユリちゃんが頬を染める。
気持ちに、重たいなにかが沈む。
ユリちゃん、いったはずだよ。オレは優しくない、って。
危ないから、ユリちゃんは座っていなさい
「はい!」
このさき船が揺れるから、ね
腕を解く。
オレもベンチを立つ。
船室へ向かう。
途中、階段裏で男の子を拾う。あのきょうだいだ。間近で見ると四、五歳ほどか。
親はどうした
「うえ」
なるほど、有料展望席か、無銭利用だろう。
あの、ポニーテールのお姉さんのところまでいけるか
抱き上げてユリちゃんの座るベンチを示すが、
「おねえちゃんが、」
とたん、泣きだしそうな顔になる。
おねえちゃんはオレが迎えにいく、すぐ戻る
予想通り、ユリちゃんと目が合う。オレが菓子を買いにいくのを、健気にも見送ってくれていたのだ。
男の子に気がついて、ユリちゃんが手をふる。
いい子で待てたらあとで、おねえちゃんとカモメさんに餌をやろう
おいで! ユリちゃんが大きく手をふる。それを見て涙目のまま、男の子が小さく頷く。
いい子だ
甲板に下ろし背中を押す。
ユリちゃんと男の子はカモメたちに夢中だ。いいつけを守って、ベンチからのりだす心配はどうやらない。
ジョナサンが頼んだのか、空気を読んだのか、カモメたちがふたりの気を惹いてくれている
そういえば、と思う。元祖ジョナサンはカモメではなかったか。はみだし者のカモメ、彼の名もまた、ジョナサンだったはずだ。なるほど、頼りになるわけだ。
二階にでて視線を滑らす。乗船員はふたり、階段よこと展望室入り口。
階段よこにいる乗船員の肩を叩く。万札を握らせ耳元で指示をだす。目深に被った制帽で表情は見えないがまだ若い。学生バイトならいい小遣いにはなるだろう。
彼が小さく顎を引くのを認めて、一階へ戻る。
階段を降りすぐとなり、船室へ身を滑らす。
視線を巡らす。
薄暗い。
小さな窓から秋の午後の陽が、わずかに射すばかりだ。
無人のカウンターにぽつり、カモメの餌が積まれ、よこには菓子の空き箱だったらしい集金箱がおかれている。
そのまえにひとり、小さな女の子が、菓子の袋を握りしめて立っていた。
オレの影を認めて、表情なくこちらを見上げてくる。
ゆっくり、室内へ踏み込む。
それ、オジサンが、買ってあげよう
集金箱に小銭を入れる。大して入っていないのか、小銭が乾いた音を立てる。
弟くんに?
女の子は感情を映さない
優しいおねえちゃんだ
弟のためなら、なんだってできる。
お菓子を盗むなんて、大したことじゃない。
パパとママを殺す、なんてことも、大したことじゃない。
そうだろう? だから、
ゆっくり、女の子のまえに膝をつく。目を合わせる。
オジサンがおまえたちを、盗みだしてやろう
女の子の仄暗い瞳が、わずかに揺れる。
なまえは?
「みゆ」
小さく、けれど力強く、答える。
「おじちゃんは?」
一瞬、逡巡して首をふる。
なまえはないんだ
「かわいそう」
いいんだ、忘れただけだ
「みゆがつけてあげる」
光栄だな
「大きいから、くじらちゃん」
いいね
感情の波をやり過ごすように、みゆちゃんの頭をなでる。
「いつか背中に、のせてくれる?」
もちろん
オレの手にすっぽり収まる頭はこんなに小さく壊れやすいだろうに。どれだけ殴られたのか、腫れた頬を、両の手で包む。
歳は?
「ななさい」
そうか
一縷の希望を捉えたその
夏の午後の陽が船室を包む。
ひぐらしが鳴く。
包丁を手に立ち竦む少年の、薄い肩に手をおく。
やり方は、見ていたな?
女の子の小さな手がギュゥと、菓子の袋を握りしめる。キュッと、小さな口を引き結ぶ。
船のうしろ側にまわれ
小さな首が、力強く頷く。
いい子だ
背中を押す。
「いけ」
菓子を手に、女の子が船尾へ駆けだす。
小さな背中を見送り船室をでる。
「金はぁ、払ったの! チケットはぁ、なくしたのぉ! なんなんだよてめぇはっ」
「あぁマジうざぁ」
きょうだいの両親が、件の乗船員に追われる格好で、二階から降りてくるのにでくわす。
「奥さん、」
乗船員に目配せしオンナの肩を叩く。
「ンだ、てめ、っ、」
オトコが鷹揚に睨みつけてくるのを一瞥して黙らせる。
「船尾でお宅のお嬢さんが」
ピュイーーーーー
笛の音に似た声を微かに、耳で捉える。
「探していましたよ、ご両親を」
「あぁ? ほっといてくれればいいンでぇ。つか、アンタだれ?」
オンナがにべもなく返してくる。それには応えずただ、ゆっくり繰り返す。
「探していましたよ」
オンナの顔が強張る。
「いってあげてください」
ふたりがそそくさと、船尾へ、娘を迎えにいく。
上空を仰ぎ手を掲げる。
すまない、みゆちゃん
ごめんね、ユリちゃん
オレは『くじら』じゃないんだ
緩り、船尾を示す。頼む。ゆっくり目を瞬く。
『心得た』
応えるように大きく、ジョナサンがひとつ円を描く。首を傾げ標的を捉える。翼をたたみ、刹那、真っ逆さまに落下する。
空気を裂く音が聴こえるようだ。
ノンストップで、船尾へ突っ込んでゆく。
いい波だ
遊覧船が外海へでる。
風が帆を押す。
うねりが船を揺らす。
風波が船体で砕け甲板を濡らす。
「お客さま、風の影響により大きく揺れることがあります。安全のためお近くの席におつきください」
船内アナウンスが流れる。
目を閉じ波に心酔する。
ほどなく、船室の向こう、船尾から、
ドンッ
鈍い振動が空気を震わす。
それを合図に、上空を滞空していた鳶たちも船尾へ突っ込んでいく。
すばやく乗船員たちが、船室両側の通路を封鎖し船尾へ向かう。
ジョナサン率いる殺し屋集団が海に突き落とした両親の断末魔は、男の子には届かない。船のタービン音が、すべてをなかったことにしてくれる。
遊覧船が大きく、港へと進路をとる。遺体が上がることもない。外海の潮と船の引き波とが、ふたりをいなかったことにしてくれる。
やがて、
「くじらちゃん」
乗船員がみゆちゃんを連れて戻ってきた。
慣れたものだな
褒めたつもりが乗船員は、オレを一瞥するとひとこともなく二階へと戻っていった。
オレを見上げたその
「背中にのせてくれる?」
ペチリ、太腿を叩かれて見下ろすと、邪気のない満面の笑顔があった。頬が緩む。
その手癖、キミみたいな美人さんには似合わないな
やりきった、そんな
「わぁあ!」
彼女の目に映るこの広い海は、いま手に入れた解放の象徴だ。
みゆちゃんの手に握られていたかっぱえびせんミニは、すっかり空になっていた。
お待たせ、ユリちゃん
みゆちゃんを肩にのせ船首へ戻ると、なんと!
おまえっ
男の子、みゆちゃんの弟が、ユリちゃんの膝に座って、焼き菓子を食っていた。口のまわりをチョコレートだらけにしてご満悦だ。
それはもしかしなくても、ユリちゃん手作りマフィンだろっ
思わずみゆちゃんを落っことしそうになる。
なに断りなくユリちゃんにお膝抱っこされているんだ、そこはオレの場所だ。あとそれはオレのためのマフィンだ、さっさとそこをどけ。
そこで、はた、と固まる。
オレの?
「おねえちゃんっ」
みゆちゃんに気がついた弟が、ユリちゃんの膝から転がるようにこちらへ駆けてくる。
オレの?
違う、違うが、アレだっ
ユリちゃんの彼氏は、オレだ!
混乱しつつ、みゆちゃんを甲板へ降ろす。
「みおっ」
感動の再会を果たすふたりを横目に、ユリちゃんのとなりに腰掛ける。
恨めしげにその膝を凝視するけど、そんなことで察するユリちゃんじゃない。
「やっぱり優しいんだ! くじらさん」
なにがでしょうか
「見てましたよ!」
な、なにをでしょうか!?
心臓が跳ねる。あんな、子どもを唆した現場を見られたなど、
「あの女の子に、」
いや、あれは、
「お菓子、買ってあげてましたね!」
あ、え、あ、はい
「女の子は? って訊いたらお菓子を買いにいったって。ほら、船が揺れたじゃないですか。危ないから迎えにいこうとしたんですけど、」
ユリちゃん! 座ってて、って、オレはいいましたよね!
「オジサンが迎えにいくって」
グッジョブ、弟くん。
「お菓子、買ってくれるって」
そこまでいった覚えはないけど。まぁ、買ったけど。
「タイミングがあって、よかった!」
って、ユリちゃんの笑顔が眩しい。
そうだね、よかった、よかった
ほんとうにいろいろよかった。胸をなで下ろす。
「それで、くじらさん、カモメさんのお菓子は?」
あ、
みゆちゃんの手にある空袋に目をやる。ユリちゃんに買うのを、忘れてた。
船室の隅に身体を預けスマートフォンをとる。
船はすでに下田港内を、港へ向かっている。鳶たちは山へ戻り、カモメたちも大人しく船に並走している。
これならユリちゃんとあのきょうだいも、安全に餌づけできるだろう。
改めてカモメの餌を盗りに、いや買いくる羽目になったのは都合がよかった。ユリちゃんのまえで木村には連絡できない。
メールでいい? 彼女をまえにスマートフォンをいじるなんてマナー違反だ。
木村か?
〈なんだよデート中の泥棒なんかに教えられることなんてなにもないよ〉
絶賛、里親募集中なんだが
〈知らないよ切るよぼくだってこれから彼女と現世へ旅にでるんだ〉
乗船券売り場にかわいい女の子がいてな
〈だからなんなの異世界に興味はないよ〉
木村のはなしはたまにむずかしい。
おまえが好きな黄色いリス、なんだったか、とにかくそれが、好きらしい
〈まかせてすぐに手配するよ〉
助かる、夕方までに迎えてに来てくれたら引き換えに女の子の連絡先を持たせておこう
黒縁メガネどうし、きっと楽しく趣味を共有できるに違いない。
『楽しい』を、知ることができるに違いない。
ユリちゃんがとなりに来てからオレはどうやら、かなりお節介だ。思わずじぶんに笑って、船室をでた。
「カモメさん!」
「カモメさん! お菓子!」
ユリちゃんとチビふたりがカモメと戯れるのに、録画モードのスマートフォンを向ける。
下田港の桟橋が見えてくる。
あぁ、惜しいな。あともう一周、時間がほしい。
「くじらさん」
はい
録画の手をとめずに返す。
「子どもたちができたら、こんな感じだと、思いませんか?」
はい、はい?
「やっぱり子どもはふたり、三人いると楽しいと思うんですよ。あと、わんことにゃんこ」
え、なんのはなしでしょうか。
「ね!」
あ、はい
よくわからないが、ユリちゃんがいうなら首を縦にふる以外の選択肢はない。
そこで、
「あら? そういえばキミたち、パパとママは?」
ユリちゃんがハッ、とチビふたりに顔を向けた。
まさか子ども料金ふたりで、乗船したわけじゃあるまい。
みゆちゃんがオレを見上げる。愉快そうに足を揺らしている。
ほら、オジサン、悪いことしたのバレちゃうよ。なんて、楽しそうだ。ひとごとだと思って!
み、港で合流するそうだ
北鎌倉のお屋敷から来るらしい
嘘じゃない。木村が手配してきた里親は、子どもに恵まれない北鎌倉の大富豪だ。
「鎌倉なんだ! ご近所だね、わたしたちは逗子なの」
みゆちゃんがはにかむ。
そうそう、その方がよっぽどいい。ユリちゃんに倣って、ユリちゃんもたまにびっくりするレベルで手癖が悪いが、ちょっとわざとらしいくらいの『かわいい』が、キミにはいい。
船がまた大きく揺れて、桟橋に着岸する。
「つぎはSouth cafeのアップルパイですね!」
ユリちゃんがスキップするみたいにスロープを渡る。
そうだそれを食べそびれたらいけない
聴いただけで胃もたれするが、ユリちゃんが食べるというなら勇んで頷く。
「デザートって、食べないと身体に悪いじゃないですか」
そのとおり
その身体のどこにそんなに入るのか、オジサンは不思議で仕方がないですけれども。
上空で、一羽残った鳶がヒョロヒョロ、笑うように鳴く。
ひとふたり呑み込んだ海が愉快そうに、岸壁で砕ける。
ご機嫌にワーゲンバスで道の駅をでる。
それを見送る若い乗船員ふたりの視線には、気がついていた。
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