5






 海へ漕ぎだす。

 ゆっくり、ゆっくり。

 緩い波に馴染むナインツーのシングルフィンで。


 梅雨らしく海はまったりと凪いで、ただ小さなうねりが岸辺でザパン、と音を立てている。

 夏が来れば大混雑の七里ヶ浜も、こんな日はサーファーひとり浮いていない。


 アウトまででてボードに跨る。

 ただ、海を見る。


 波のない海。

 波乗りには、そんな海が、必要なときがある。


 湿気と潮に薄く幕を張ったように水平線が、空が、ミルキーに霞んでいる。


 『正直になっていいのよ』


 他人はおろかじぶんの気持ちにだって、向き合ったことはなかった。


 ほしいものなんかない。

 て、ことにしておいた。

 どうしたって盗れないものがあることは、知っていた。


 たったひとつ、

 たぶん、

 どうしてもほしかったもの、だった。


 夏の陽の下、mellowでオジサンたちのなかにいたあの時間に似ていて、

 けれどちょっと、ちょっとだけ違うなにか。

 不安のなかで大人たちに期待して、返ってこなかったなにか。

 そんなもの知らない、て、ことにしておいた。


 知らないふりをして、

 ただ生きるために奪って、食って、また生きる、だけ。

 そうやって、いつしかほんとうの悪党になっていた。

 「いまさら、正直になんて、」

 あやすようにただ、小さなうねりがボードを揺らしては過ぎていった。




 DAY6




 「あ、これ、もう逃げられないやつだ」


 朧月が愉快そうに口笛を吹く。

 ほんじつの報酬は、

 「はは、ご愁傷様」


 ウナギ、


 の、炊き込みご飯みたいなやつに細い玉子焼きと刻みのりがのっかっているなにか、だった。



 小一時間前。

 ほんじつ、ユリちゃんはなんと、しおらしく、ベンチに座っていた。


 病気なのかとあわてて駆けよるけど、

 「くじらさん、きのう、元気がなかったから、」

 そう、逆にオレの顔を心配そうに覗き込んできた。

 「あの、わたしにできること、いまはこれしかなくて」

 って、お弁当をぎゅうぎゅう、押しつけてくる。

 「梅雨バテ防止メニュー! ウナギの櫃まぶし、です!」


 え? なんて? ひつ、?


 「これで、元気、回復してくださいね!」

 それだけいい放つと惚気のひとつもなくユリちゃんは、梅雨の煙った空気のなかへ逃げるように、去っていってしまったのだった。



 「盗めそうか?」

 一気に食べてしまうのがもったいなくて箸をおく。朧月の問いに、俯く。

 「盗んでいいかなぁ、て?」


 そう、きっと、盗んではいけない。


 傘を平気で盗む野郎に、ユリちゃんをしあわせにできるとは思えない。けれど。

 「食わないなら、オレにちょうだい?」

 伸びてくる朧月の手を叩き落として、箸を取った。



 朧月と食堂をでる。

 「天然、ってのは、バカか計算かなんだってさ」

 勝ち誇ったみたいに朧月が口端を吊り上げる。

 ユリちゃんはバカではない。全日課程の逗子高校は県下有数の進学校だ。

 それなら、


 「だからいったんだ、おまえはユリちゃんに敵わない」


 考えてみれば、ユリちゃんの提示した報酬はいわば前払いだったのだ。それがユリちゃんの計算かどうかは、いやきっと、計算だろう。だからといっていまさら、手を引くことは許されない。


 それでも、


 「おまえが、そんなこというんだ?」

 朧月が痛そうに笑う。

 「おまえに盗れないものなんて、ないだろう?」


 どうするか。

 どうするのがいいか。

 どうすることが、ユリちゃんにとって最善か。


 ユリちゃんのことで、あたまがいっぱいだった。


 それで反応が遅れた、というのは言い訳で、気配を消してきたあたりきょうの刺客こそは本職だった。

 ただ詰めが甘かったとすれば、たとえ気配を消して近づいても上空からは丸見えだということだ。

 空を切り裂く音がするのと、背後で小さく悲鳴が上がるのと、ほぼ同時だった。


 ジョナサンっ


 ふり返るとすでにジョナサンの姿ははるか上空で、

 「さっすが、」

 足元に転がったそれを朧月が拾い上げた、と同時に投擲の体勢に入っている。ダガーナイフがその手を離れる一歩手前で、なんとかその手を掴む。

 朧月が舌を打つ。

 そのあいだにも相手は跳躍して距離をとってくる。


 これでおしまいか。

 そんなことはないだろう。

 すでに見慣れない刃物を手にしている。

 投擲は苦手か。

 斬り込むの隙を見定めている。


 すまないが帰ってくれないか、オレが抑えてるうちに


 男はオレとおなじか、少し上だろう。

 朧月を知らないのか、あるいはこいつが朧月だと気がついていないのか。わかっていてなお朧月を葬り箔をつけたいのか。

 どちらにしても賢明じゃない。

 本気の朧月は、オレでもとめられない。

 加えてだ、


 はやくいけ、


 さすがのオレも苛立ってくる。

 視線で牽制する。


 オレはいま忙しい


 ユリちゃんのことであたまがいっぱいだ。

 知らないだれかと遊んでる暇はない。

 右手で朧月を抑え、左手を空に掲げる。

 上空で待機していたジョナサンが急旋回し軌道を変える。音もなく急降下し背後から男に襲いかかる。刃物が弾けとぶ。

 甲高く鳴く鳶を認めて、男が顔色を変える。


 うわさには聴いていた、顔を見たのははじめてだ、といったところか。


 目を潰されたくないなら、はやくいけ


 ジョナサンが再度降下の体勢に入るのを見てようやく、声を上げることすらできずに男は、教室棟へ去っていった。


 安堵して、いやっ、


 「ははっ!」


 オレの手が離れるや、朧月はナイフをあらぬ方向に放っていた。

 「こっちだ!」

 放ったナイフが食堂の脇を抜け、イチョウの老木に突き刺さる。


 なんだ、まだだれかっ、


 「そうやってねっ」

 食堂の脇、積まれた段ボールの影から転がるようなに現れたのはなんと、

 「暴力に訴えるのは弱い男がやることですよっ」


 あの、SSWのオバサンだった。


 脚が震えている。

 が、二本の脚で立っているだけさっきの男よりよっぽど、肝が据わっている。

 「どの男の子もやっぱりダメね、役に立たない」

 いやいやオレはあなたの依頼をこなしましたが。

 「結局、わたしが直接、はなしをしないといけないようですね」

 こちらにはなしはないし、これ以上朧月を刺激しないでほしい。

 いつ朧月が動くか気が気じゃない。

 はやいとこ帰って、いや仕事に戻ってほしい。

 「依頼の件は口外しないでいただきたいの」

 とりあえず、顎を引く。

 心配しなくても、オレはあんたの顔すら覚えていないんだ。

 「これは大切なことなの、わかるかしら」

 わからないし、この状況でまだはなしをつづけるオバサンの心理はもっとわからない。

 「女性にはよりよく生きる権利があります。わたしたちはそれを守りたいの。あの弁護士たちはほんとうに碌でもない連中でした」

 活動家然としたはなし方だった。穏やかだが有無をいわせない。じぶんが正義と信じて他者にもそれを押しつける。


 胸中で舌を打つ。


 たまにこうした依頼人がいた。窃盗を正当化し、したり顔でその意義を説いてくる。

 どんな大義があろうと、オレにあんたが依頼してきたそれは犯罪だ。あんたとオレと変わらない。ただの犯罪者だ。

 そういってやりたい。


 いい加減にしたほうがいい


 声にださなければ伝わらないだろう。けれど日頃使わない声帯は動かない。

 「そっちのあなた、女の子を取っ替え引っ替えして、」


 やっぱり飛び火じゃないか!


 思わず朧月を睨むけど、

 「泥棒のあなたも、」


 オレですか!?


 「全日課程の女の子に、手をだしているでしょう」


 手を、


 オバサンのことばに、急速に気持ちの芯が冷えていく。


 オレが、ユリちゃんに手を、


 「あなたは遊びのつもりでしょうが」


 遊び、


 「それがあの子を不幸するんです、わかりますか?」


 不幸に、


 思考が谷に落ちていく、ようだった。

 深い谷に落ちて、拾いだすことができない。


 「かわいそうにあの子は、あのひとはそんなんじゃないって、あなたを庇うんですよ。あなたはそれで平然としていられるの?」


 なにも、考えられなくなっていた。


 ユリちゃんを、オレが、


 「だからこそ、わたしたちは女の子を守らないといけないの。あなたたちみたいな男どもから、」


 ユリちゃん、オレは、


 「望まない妊娠、からっ」

 「ははっ!」

 愉快そうな笑い声に、我に返る。


 しまったっ


 反応が遅れた。

 「『望まない妊娠』っ!」

 朧月が地を蹴っていた。

 オレの背後から飛びだすのを捉えようとして手が空を掴む。


 間に合わないっ


 朧月を、本気で怒らせてしまった。


 とまれっ、ロウっ!


 オレの声も、届かない。

 曇天の瞳にもう、オレは映っていなかった。


 飛びだした勢いのまま朧月がニードルを抜く。

 「てめぇらが望むかどうかなんざっ、子どもには、」

 血を吐くような叫びだった。


 「関係ねぇんだよっ」


 痛い、


 「オレたちだってさぁっ」


 痛い、


 「望んでできたわけじゃねぇんだよクソがっ」


 望まれずに生まれて、

 望まれずに殺されて、

 オレたちがなにをしたっていうのか。


 痛い。朧月の叫びが胸を裂く。

 オトナに斬りかかってそのたびに、朧月はまた虚無感に傷つく。

 いくら斬ったところで、親に、社会に、捨てられた傷は癒えない。


 もう、やめさせたかった。


 どうする、

 落ちていく思考を、どうにか回す。

 ニードルを落とせるか、

 ツールナイフを抜く。

 ジョナサンも降下の体勢に入る。が、それよりはやく、


 「ぎゃっ」


 獣じみた声をあげてオバサンが、その場に蹲った。

 「お、」

 ニードルが空を切り朧月が蹈鞴を踏む。


 なんだなにが起きた? 朧月、


 混乱するオレより、さすが、朧月の反応ははやかった。

 「まずい!」

 朧月が身を翻し、オレの背後へ駆ける。

 「ダメだ、ユリちゃん!」


 え? ユリちゃん?


 ふりかえり、目を剥く。

 「許さないんだから!」


 ユ、


 「くじらさんを悪くいうなんてっ!」

 そこにいたのは、仁王立ちのユリちゃんだった。


 「許さないんだからぁっ!」


 かわいらしい頬をハコフグみたいにして、怒りで耳まで真っ紅にしている。

 への字に結んだ口も、できる限りの顰めっ面も、


 あぁ、怒った顔もかわいいんだな


 ユリちゃんは、かわいかった。

 「ダメだって! ユリちゃん!」

 「どいてください、お友だちさん!」

 「朧月、だってば! それもうワザとなの?」

 「わたしは、このオバサンに! 思い知らせてやるんです!」

 で、そのかわいいユリちゃんの両手には砂利と、オレの拳ほどある石が握られている。

 「ダメだよ、ユリちゃん! センセ来ちまうからぁ! おい、おまえ、なんとかしろよ!」


 え、悪い。いま忙しい


 ユリちゃんのプンスコ顔脳内録画に忙しくて、オレはそれどころじゃない。

 「おっまえ!」


 「おまえのユリちゃんだろが!」


 え、オレの? ユリちゃん、オレのだったの?


 オレが使いものにならないと正しく判断した朧月が、ユリちゃんをとめようと必死になっている。けれどユリちゃんはもうめちゃくちゃに腕をふり回し、砂利なら石やら投げてくるものだからさすがの朧月も近づけない。


 ザッ、ザッ、ゴンッ、ゴンッ、鈍い音がどこか遠くで聞こえる。


 「くじらさんをいじめるやつは! わたしが許さないんだからって! 思い知らせて、やるだから!」


 ユリちゃん、


 「わたしが! くじらさんを守るんだから!」


 手を、伸ばしていた。

 「わかったから、ユリちゃん! そんなにしたらもうオバサン、思い知れなくなっちまうよ! つかもう、思い知れなくなっちまってるよっ」


 ユリちゃん、


 「あ、おまえやめとけ! 危ねぇぞ!」


 ユリちゃんっ


 「許さな、ぷっ」

 気がつけばユリちゃんを、抱きしめていた。

 拍子にひとつ、ユリちゃんの投げた石が額を直撃したけど、構わなかった。

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