第5話 前髪
「……なぁ、蓮くんってさ、」
配信終わりの夜。部屋の空気がほっと緩んだそのタイミングで、
しずくが言いにくそうに口を開いた。
「前髪……暑くないの?」
唐突な一言に、俺はピクリと反応した。
「暑くない」
「ほんとに? さっき汗めっちゃ拭いてたよね?」
「汗は人間の自然な生理現象だ。前髪は関係ない」
「でも、こう……前髪で目、隠れちゃってるじゃん。配信中もたまにモニター反射で見えないし……」
──その瞬間、俺は椅子から立ち上がった。
「前髪は俺の魂だ」
「えっ」
「この前髪によって、俺は学校では“無個性陰キャ”として振る舞え、
ネットでは“影蓮”としてキャラを演じ切ることができる。
つまり、前髪こそが俺の境界線。俺が俺であるためのバリアなんだ」
「は、はあ……?」
しずくは唖然と口を開けたまま、ぽかんと俺を見ていた。
だが、俺の前髪への信念に迷いはない。
──俺は、生まれてこの方、誰にも前髪をめくられたことがない。
美容師にですら、「前髪は自分で整えます」と言ってる。
「……じゃあ、もし誰かにめくられたらどうするの?」
「そいつは……一生分の覚悟を背負うことになる」
「え、それって」
しずくが、ふっと笑った。
配信のときの“みるく声”じゃない。
素の、ちょっといたずらっぽくて、ちょっと甘えた声。
「“私だけは見てもいい”って言われたら、どうする?」
一瞬、心臓が跳ねた。
「ダメに決まってる。絶対、誰にも見せない」
「え〜〜〜、ひど〜い。私、蓮くんにジャージ姿も部屋のゴミも見せたのに〜〜〜」
「知らん。あれは勝手に見えた」
「うわー、言ったな……」
拗ねたしずくは、俺の前に立ち、ふいに手を伸ばしてきた。
指が、俺の前髪の先に触れる。
──ほんの、数ミリ。だけど。
「ま、待て、それ以上は……っ」
「めくらないよ。ただ、さわっただけ」
しずくは、ほんの少し寂しそうに笑った。
「……誰にも見せてないものって、特別だよね。
じゃあ、私がいつか、“見せてもいい人”になれたら、見せてくれる?」
「…………」
「無理、かな?」
「…………それは」
答えられなかった。
けど、そのときふいに、部屋のエアコンが“ピピッ”と鳴って風を送った。
それにあおられて、俺の前髪が、ふわっと少しだけ浮き上がる。
「……あっ」
しずくの声に、俺は反射的に手で前髪を押さえた。
「見てない! 見てないよ! なんも見てない!」
「今、ガン見してただろ!?」
「いやいやいや、“見ようとしてないけど自然に見えちゃった”っていう奇跡的な非干渉だったから!」
「意味が分からん!!」
「でも、ちょっとだけ思った」
──そして、しずくは、ふわっと微笑んで言った。
「やっぱり蓮くんって、イケメンだよね」
俺はその言葉を聞いて、また必死に前髪を直した。
そして、冷蔵庫にあったアイスを投げ渡して誤魔化す。
──バレてた。
たぶん、最初からずっと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます