エピローグ:雨上がりの旅立ち

神殿の崩壊から、セレンはただ一人、生還した。

瓦礫の山と化した「嘆きの嵐山脈」を背に、彼女の頬を冷たい雨粒が叩いた。

一人になった世界はあまりにも静かで、そして寒かった。


数週間後。

ボロボロの姿でギルドに帰還したセレンは、事の顛末の全てを報告した。世界の危機が人知れず去ったことに、ギルドマスターと学者は安堵しつつも、偉大なる二人の冒険者の喪失を深く悼んだ。

パーティー『マッスル・ラック』のレギウスとライガは、公式記録上、「厄災級の危機を鎮圧後、消息不明」として登録された。ギルドを挙げての大規模な捜索隊が組織されたが、神殿ごと消滅したとされる山頂付近では、二人の痕跡はおろか、装備のひとかけらも見つけることはできなかった。


やがて、季節が一つ移り変わった。


セレンはあの日以来、心を固く閉ざしていた。

冒険者としての仕事は、生きるために最低限だけ受けた。簡単な薬草採取や街の雑用。一人でできる、誰にも迷惑をかけない、危険のない仕事だけを。

彼女の周りでは相変わらずよく雨が降った。それはまるで彼女の心を映すかのように、しとしとと静かに長く降り続けた。

もう、あの二人のように、彼女の不運を笑い飛ばしてくれる者はいなかった。


その日も、外は冷たい雨が降っていた。

セレンはとある辺境の街の、酒場の隅で一人、ぬるくなったエールを飲んでいた。

全てがあの日に戻ってしまったかのようだった。いや、心にあまりにも大きな穴が空いてしまった分、あの頃よりもずっと悪い状況だ。


(やっぱり、私はどこまでも運がないんだ……。結局、私のせいで、二人を……)


いつもの絶望が冷たい霧のように、彼女の心を覆い始める。

その時だった。隣のテーブルに座っていた、鉱夫風の男たちの会話が彼女の耳に届いた。


「おい、聞いたか? 北の鉱山町の話だよ」

「ああ、あの『一夜にして山が削られた』ってやつだろ? どうせ、いつものほら話だ」

「いや、それが本当らしいんだぜ。ギルドの調査隊も首を捻ってたって話だ。何でも、新鉱脈を掘るのに、アダマンタイト以上に硬い巨大な岩盤があって、どんな爆薬を使っても歯が立たなかったらしい。ところが、次の日の朝、鉱夫たちが見に行くと、その岩盤に、まるで巨大なドリルで開けたかのような綺麗で真っ直ぐなトンネルが、山の向こう側まで貫通してたって話だ。断面は、熱で溶けたようにツルツルだったらしい」


「はっ、神様の仕業か、竜のブレスでもなきゃ無理な話だな!」

鉱夫たちは、その話を酒の肴に笑っていた。

しかし、セレンの心臓はドクンと大きく高鳴った。


(……真っ直ぐなトンネル? 一点に集中させた、凄まじいエネルギーの痕跡……?)

彼女の脳裏に、汚染された遺跡で守護者の核を破壊した、レギウスの正確無比な貫き手が鮮明に蘇った。


まさか。そんなはずはない。

自分に言い聞かせようとした、その時。別のテーブルから、今度は屈強な冒険者たちの大きな声が聞こえてきた。


「神様の話なら、こっちも負けてねえぜ。南の島に、つい先日、巨大な隕石が落ちてきたんだと」

「ああ、知ってる。王都の学者先生たちも大騒ぎになったやつな」

「だがな、その隕石、地上にはほとんど被害を出さなかったらしい。観測記録によると、地上に激突する寸前、空中で、何者かが『殴り砕いた』としか思えない、不可解な壊れ方をしていたそうだ。おかげで、ただの石ころの雨になったってわけよ!」


セレンは、その手からエールのジョッキを滑り落としそうになった。

今度は、間違いようがなかった。

(隕石を……殴り砕く……?)

脳裏に蘇るのは、天空の遺跡で落下してくる岩盤を、真正面から拳で粉砕した、ライガの姿。


二つのありえない噂。

二つの常識外れの現象。

あまりにも馬鹿げていて、あまりにもあの二人らしい、「筋肉の痕跡」。


涙が溢れてきた。しかし、それは絶望の涙ではなかった。

確かな、確かな希望の光が、彼女の心を強く照らし始めたのだ。


「帰ってきてるんだ……。二人とも、この世界のどこかに……!」


セレンは酒場を飛び出した。

そして有り金のほとんどをはたいて、一枚の大きな大陸地図を買った。

ギルドに戻り、あの二つの噂の場所を詳しく調べる。北の鉱山山脈と、南の群島。二つの地点は、大陸のほとんど端と端だった。


(でも、どうして連絡をくれないんだろう……? あれほどの力があるのに……)

一瞬、不安がよぎる。しかし、すぐに彼女はある可能性に行きつき、そして確信した。


(……まさかあの二人……『今回の戦いではまだ筋肉が足りなかった』とか言って、どこかでとんでもない修行でもしてるんじゃ……?)


ありえない。普通に考えればありえない。

でも、あの二人なら絶対にありえる。

セレンは思わず、ぷっと吹き出してしまった。そしてすぐに、その笑いはどうしようもなく温かいものへと変わっていった。


彼女の新たな目標が決まった。それは宝探しでも、日々の糧を得るためでもない。

世界中に散らばる、ありえない「筋肉の奇跡」の噂を追いかけて。

勝手に「筋肉の修行」に打ち込んでいる、二人の大切な仲間を見つけ出し、「一発殴って」、連れ戻すための、果てしない旅。


彼女はギルドの受付へと向かうと、受付嬢にきっぱりと言った。

「ソロの冒険者として、再登録をお願いします。パーティー名は、『マッスル・ラック』のままにしておいてください」


セレンは街の門をくぐり、北の鉱山町へと続く道へ力強く一歩を踏み出した。

彼女の手には二つの地点が記された、新しい「宝の地図」が固く握りしめられていた。


その時。

まるで彼女の決意を祝福するかのように。

数ヶ月もの間彼女の心と共にあり続けた冷たい雨が、ふと、その勢いを弱めた。

そして厚く垂れ込めていた雲の隙間から、一本の温かい光が差し込み、彼女の行く先をまっすぐに照らし出した。


旅はまだ、始まったばかりだ。

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筋肉の理(マッスル・ロジック) メロンパン @MelonePan

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