第十五話:筋肉は厄災を押し返す【前編】
調律者を倒した安堵は、一瞬で、絶対的な絶望へと塗り替えられた。
彼の死と共に、その身に宿っていた膨大な混沌のエネルギーが、最後の呪いのように、弱っていた封印へと殺到したのだ。
バキイイイイイイインッッ!!!
空間そのものが、ガラスのように砕け散る、甲高い悲鳴。
セレンが必死に維持していた光の鎖は、跡形もなく消し飛び、中央に浮かんでいた巨大な黒い球体が、その役目を終えて、完全に崩壊した。
そして、その向こう側から。
世界の終わりが、その姿を現した。
それは、定まった形を持たない、純粋な『闇』だった。
音もなく、熱もなく、ただ、じわり、じわりと、空間を侵食していく、絶対的な『無』の奔流。
神殿の壁が、床が、その闇に触れただけで、存在そのものが「なかったこと」にされるかのように、泡となって消滅していく。
空気は、氷のように冷え切り、世界の色彩が、急速に失われていくのが分かった。
「なんだよ……これ……」
ライガが、その圧倒的な存在を前に、初めて、その声に恐怖を滲ませた。
彼は、本能的に、その闇へと拳を突き出した。
しかし、その拳は、確かな手応えもなく、闇をすり抜けた。
「ぐっ……! こいつ、殴れねえ……!」
それどころか、闇に触れた彼の拳から、生命力が、まるで血のように、じわじわと吸い取られていく。その感覚は、ただの痛みではない。自らの「存在」そのものが、薄められていくような、根源的な恐怖だった。
「倒すことは、不可能だ」
レギウスは、自らの腕を庇いながら、冷静に、しかし、その声に、僅かな絶望を滲ませて、事実を告げた。
「我々の攻撃は、この『無』そのものには、届かん。我々の『力』という物理法則が、ここでは通用しない」
万策尽きた。
神殿は、足元から、消滅を続けている。
セレンは、その光景を前に、ただ、震えることしかできなかった。
(ごめんなさい……ごめんなさい、二人とも……! 私が、もっとしっかりしていれば……! 私が『楔』として、もっと強ければ……!)
後悔と、自責の念が、彼女の心を押し潰す。
しかし、その絶望の淵で、レギウスは、まだ、思考を止めてはいなかった。
彼は、闇が溢れ出してくる、空間の裂け目――異次元への扉を、真っ直ぐに見据えていた。
「……いや」
レギウスが、静かに言った。
「倒すことはできん。破壊することもできん。だが……」
彼は、自らの拳を、固く、固く、握りしめた。
「――元の場所へ、『押し返す』ことは、できるかもしれん」
「え……?」
セレンが、顔を上げる。
「押し返す……だと? こんな、バケモンをか……?」
ライガもまた、信じられないといった表情で、レギウスを見た。
「そうだ」
レギウスは、頷いた。
「我々の『力』は、物理法則に基づいている。だから、法則そのものを否定する、この『無』には通用しない。だが、我々の力の根源は、なんだ? それは、我々自身の、生命エネルギーそのものだ。それは、この世界に『存在する』という、最も根源的な『秩序』の力だ」
彼の言葉は、もはや、ただの筋肉理論ではなかった。
それは、彼が、その知性と、その肉体で、たどり着いた、一つの、哲学だった。
「この『無』という混沌に対し、我々が、我々の『存在』そのものをぶつければ、拮抗できるやもしれん。そして、押し返す、僅かな可能性があるとすれば、それしかない」
その作戦が、何を意味するのか。
セレンは、瞬時に、理解してしまった。
「ダメです!」
彼女は、叫んだ。
「そんなことをしたら、二人とも、ただじゃ済みません! あの闇に、飲み込まれてしまいます!」
彼女の悲痛な叫びに、レギウスとライガは、静かに、顔を見合わせた。
そして、彼らは、セレンに向き直ると、まるで、いつもの冒険の始まりのように、穏やかに、笑ってみせた。
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