第十二話:最後の道標【中編】

残された時間は、三日。

マッスル・ラックの三人は、休息も取らず、すぐに出発の準備を始めた。

といっても、彼らにとって、準備とは、大量の食料と、最高級のプロテインをザックに詰め込むことと、あとは、己の筋肉のコンディションを最終確認することくらいだった。


王都最速の馬を借り受け、三人は休むことなく馬を走らせた。丸一日駆け続け、ついに、大陸の北方にそびえる「嘆きの嵐山脈」の麓にたどり着く。


そこは、まさに世界の果てだった。

緑は完全に姿を消し、ごつごつとした灰色の岩肌が、天に向かって突き出している。空は、鉛色の分厚い雲に覆われ、太陽の光は一切届かない。そして、山脈から吹き下ろしてくる風は、刃のように冷たく、鋭い音を立てていた。


「ひどい場所……」

セレンは、馬の上で、思わず身を震わせた。


馬は、これ以上進むことを拒否するように、いなないて足を止める。ここからは、自らの足で、この魔境を登るしかなかった。

そして、三人が山脈に足を踏み入れた瞬間、まるで彼らを拒絶するかのように、天候が牙を剥いた。


セレンの雨女体質が、この土地の元々の荒々しい気候と共鳴し、最悪の相乗効果を生み出したのだ。

ただの風は、人を軽々と吹き飛ばすほどの暴風となり、雨は、氷の粒を伴った、凶器のような吹雪へと変わった。


視界は、数メートル先すら見通せない。耳元では、常に風が轟音を立てており、仲間との会話すらままならない。


「くそっ! 目も開けてられねえな!」

ライガが、腕で顔を庇いながら叫ぶ。


「これは、まずい……!」

セレンは、焦っていた。このままでは、山を登るどころか、進むことすらできない。


その時だった。

吹雪の中から、音もなく、数本の矢が飛来した。


「!」

レギウスが、その矢を、飛来する軌道上で、全て素手で掴み取った。矢の先端には、紫色の毒が塗られている。

「……待ち伏せか」


次の瞬間、周囲の岩陰や、吹雪の向こう側から、複数の人影が、一斉に三人に襲いかかってきた。組織が、追手を妨害するために残していった、暗殺者たちのようだ。

彼らは、この暴風雪を地の利として、完全に気配を消し、三人の死角から、的確に急所を狙ってくる。


「どこだ! どこから来やがる!」

ライガは、敵の姿を捉えきれず、苛立ったように拳を空振りさせる。


「ダメです! この吹雪じゃ、何も見えません!」

セレンも、パニックに陥りそうになる。


しかし、レギウスは、この絶望的な状況でも、冷静だった。

彼は、その場に静かに立ち尽くすと、ゆっくりと、目を閉じた。


「ふむ。視覚と聴覚が役に立たんのならば、他の感覚を研ぎ澄ませばいい。ライガ、セレン殿。私に続け」

彼は、暴風雪の中で、まるで瞑想するかのように、精神を集中させていく。

「地面に意識を集中させろ。足の裏の筋肉で、この大地と一体化するんだ。そうすれば、岩盤を伝わる、僅かな振動を感じ取ることができる」


「振動……?」

「そうだ。敵の足音、体重移動、筋肉の収縮。その全てが、微細な振動となって、我々の足裏へと伝わってくる。この嵐の中では、我々の筋肉こそが、最高の索敵装置となるのだ」


ライガは、すぐにその意図を理解し、同じように目を閉じて地面に集中する。

しかし、セレンには、そんな芸当は到底できなかった。彼女が感じられるのは、凍えるような寒さと、風の轟音だけだった。


「セレン殿、君は動くな」

レギウスが、静かに告げた。

「ただ、我々を信じ、私とライガの、ちょうど真ん中にいろ。それだけでいい」


セレンは、不安に震えながらも、こくりと頷いた。

すると、レギウスが、見えないはずの敵の位置を、正確に告げ始めた。


「……北東、岩陰に一人!」

その言葉と同時に、ライガは、振り返りもせずに、背後に向かって拳を突き出した。

ゴッ、という鈍い音と、短い悲鳴が、吹雪の向こうから聞こえてくる。


「南、真上! 二人、セレン殿を狙っているぞ!」

レギウスの指示に、セレンは息を呑む。その直後、彼女の喉元を狙って飛来した見えない刃を、ライガの腕が空中で鷲掴みにした。


「ちっ、嬢ちゃんに傷一つつけさせねえよ!」


見えないはずの敵の動きが、二人の連携によって、完全に封じられていく。

ステルス能力を無力化された暗殺者たちは、自分たちの攻撃が、なぜ、どのようにして見破られているのか、全く理解できないまま、次々と筋肉の前に沈んでいった。


やがて、襲撃は、完全に止んだ。

三人は、再び、嵐の中を、山頂へと向かって進み始める。


しかし、彼らの行く手を阻むように、巨大なクレバスが、その口を大きく開けていた。

かつて、そこには吊り橋がかかっていたのだろう。しかし、その残骸は、明らかに、つい最近、人工的に破壊されていた。

対岸までは、目算で、百メートル以上。

そして、クレバスの下からは、全てを吸い込むかのような、不気味な風が吹き上げてきている。


時間は、刻一刻と、過ぎていく。

彼らは、この、あまりにも巨大な自然の障害を前に、完全に、足止めされてしまった。

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