第十話:脈打つ天空闘技場【中編】
「迷宮の筋記憶を、トレースする……?」
セレンは、レギウスの言っていることが、さっぱり理解できなかった。
「目を閉じろ、二人とも」
レギウスは、迫りくる肉の壁を、流れるような動きでいなしながら言った。
「思考を捨てるんだ。そして、ただ感じるんだ。この空間全体の脈動を。壁が収縮する前の予兆、床が隆起する前の僅かな緊張……それは、我々が力を入れる前の『溜め』と同じだ!」
セレンは、半信半疑のまま、言われた通りにそっと目を閉じた。周囲からは、壁が迫る轟音と、触手が空を切る不気味な音が聞こえてくる。恐怖で、全身がこわばった。
「力を抜け、セレン殿。恐怖は筋肉を硬直させ、感覚を鈍らせる。リラックスだ」
レギウスの静かな声が、彼女の緊張をわずかに解きほぐす。
一方、ライガは、すでに何かを掴み始めていた。
「……なるほどな。確かに、この壁の動き……俺がベンチプレスで限界重量を上げる時の、大胸筋の収縮に似てやがる」
彼は、目を閉じたまま、頷いている。
セレンには、壁の動きとベンチプレスに何の関係があるのか皆目見当もつかない。だが、この脳筋二人の間では、それが共通言語として成立しているらしかった。
「そうだ。その感覚を、研ぎ澄ませるんだ」
レギウスは、まるでダンスを踊るかのように、迷宮の中を優雅に移動し始めた。それは、もはや単なる回避行動ではなかった。壁が迫れば身をひねり、床が突き上がれば軽やかに跳躍する。彼の動きは、迷宮の脈動と、完全に一体化していた。
「次に来るのは、広背筋の収縮だ! 右の壁が迫るぞ、体を捻って、脊柱起立筋で衝撃を受け流せ!」
レギウスが、的確な指示を飛ばす。
セレンは、訳が分からないまま、必死にその指示に従った。言われた通りに体を動かすと、不思議なことに、あれほど脅威だった壁の圧迫を、するりとかわすことができたのだ。
ライガに至っては、もはや迷宮の動きを楽しんでいるかのようだった。
壁が両側から迫ってくれば、彼は回避するのではなく、両腕を広げた「サイドチェスト」のポージングを取る。そして、壁が体に触れる寸前、全身の筋肉を極限まで収縮させることで、その圧力を真正面から受け止めていた。
「このプレス感……! たまらねえぜ! 天然のトレーニングマシンだ!」
彼は、悦に入った表情で叫んでいる。
レギウスの導きと、ライガの常識外れの適応力によって、三人は、あれほど絶望的に思えた生ける迷宮を、少しずつ、しかし着実に進んでいった。
閉ざされかけた通路を、床が隆起する勢いを利用して飛び越え、襲い来る触手を、壁が収縮する動きに巻き込んで無力化する。
セレンもまた、最初は戸惑いながらも、次第にその特異な「対話」に順応し始めていた。
頭で考えるのではない。体の奥底で、肌で、迷宮の次の動きが、なんとなく感じられるようになってきたのだ。それは、彼女が冒険者として培ってきた危機察知能力が、この筋肉理論の世界に適応を遂げた瞬間だったのかもしれない。
どれくらい進んだだろうか。
三人は、ついに迷宮の中心部と思われる、ひときわ巨大な空間にたどり着いた。
そして、その中央に浮かぶ「それ」を見て、息を呑んだ。
巨大な、心臓。
赤黒く、不気味に脈動する、巨大な肉の塊。それが、何本もの、筋肉の繊維のような太い管(くだ)によって、迷宮の壁や天井と繋がっている。あれが、この生ける迷宮の動きを制御している、中枢神経であり、心臓部(コア)に違いなかった。
三人がコアに近づいた、その時。
それまで一定のリズムを刻んでいたコアの脈動が、急激に速まった。
迷宮全体の動きが、変わる。
「まずい……!」
レギウスが、鋭い声を上げた。
これまでの動きは、ただの生命維持のための、無意識の運動に過ぎなかった。
だが、今の動きは違う。明確な「意志」と「殺意」を持って、三人を排除するためだけの、攻撃的なパターンへと変貌していたのだ。
「ふむ。我々の動きを学習し、対抗パターンを生成しているらしい。つまり、この迷宮の『筋肉』は、我々との対話を通じて、成長しているのだ」
レギウスは、どこか嬉しそうに、そう分析した。
目の前の迷宮は、もはやただのダンジョンではなかった。
三人の動きに対応し、その場で最適解を導き出す、知性を持った「好敵手(ライバル)」へと、進化を遂げていたのだ。
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