第十話:脈打つ天空闘技場【前編】

混沌に汚染された天空の遺跡。その内部は、かつての美しい姿を完全に失い、まるで巨大な生物の体内へと変貌していた。壁は肉のように脈打ち、床はぬかるんだ粘膜のように、三人の歩みを阻む。


「……気持ち悪い」

セレンは、自分のブーツが床にめり込む感触に、思わず顔をしかめた。空気は重く、湿っており、カビと、どこか鉄錆のような匂いが混じり合っている。


「ふん。足場が悪すぎる。これでは、踏み込む際にパワーがロスしてしまうな」

ライガは、不満げに床を強く踏みつけた。ズブリ、と彼の足が床に沈み、周囲の壁が、まるで痛みに反応するかのように、びくんと痙攣した。


「待て、ライガ。下手に刺激するな」

レギウスは、壁の脈動を注意深く観察していた。

「この遺跡全体が、一つの巨大な生命体のように振る舞っている。我々は今、その消化器官の内部にでもいるのかもしれん」


三人が、ぬかるんだ通路を進んでいくと、やがてひときわ広い、ドーム状の空間に出た。しかし、そこには明確な「道」というものが存在しなかった。無数の壁が、まるで腸のように複雑に入り組んでおり、しかも、それらが意志を持っているかのように、ゆっくりと、しかし絶えず、その位置と形を変え続けているのだ。


「迷宮……ですか」

「ああ。しかも、生きている迷宮だ」


セレンが、どの道を進むべきか判断しようと、周囲を見渡した、その時だった。

三人が空間に足を踏み入れたことを感知したのか、迷宮の動きが、明らかに敵意を帯び始めた。

それまでゆっくりと蠢くだけだった壁が、凄まじい勢いで三人を押し潰そうと迫ってくる。同時に、天井からは粘液にまみれた肉質の触手が伸び、床からは鋭い骨のような突起が突き出してきた。


「うわっ!」

セレンは、迫りくる壁を、転がるようにして避けた。


「ちっ、面倒くせえ!」

ライガは、自分に向かってきた肉の壁を、力任せに殴りつけた。

**ドンッ!**という鈍い音と共に、壁は大きくへこみ、その動きを止める。しかし、その瞬間、迷宮全体が、まるで怒りに震えるかのように、さらに激しく脈動を始めた。ライガが殴った箇所以外の、何十もの壁が、一斉に三人を圧殺しようと襲いかかってくる。


「ライガ! 攻撃するな! 刺激を与えれば、防御反応でさらに動きが激しくなる!」

レギウスが叫ぶ。


「じゃあ、どうしろってんだ! このままじゃ、ひき肉にされちまうぜ!」


壁は、四方八方から容赦なく迫る。天井の触手と、床の突起が、三人の逃げ場を塞いでいく。

セレンは、必死に壁の動くパターンを読み解こうとした。しかし、あまりに複雑で、あまりにランダムに見えるその動きに、法則性など見出せるはずもなかった。


絶体絶命。

このまま、この生ける迷宮に、消化されてしまうのか。

セレンが、諦めかけた、その時だった。


「……いや、法則性はある」

レギウスが、迫りくる壁をいなしながら、静かに、しかし確信に満ちた声で言った。


「セレン殿、ライガ。よく聞け。この迷宮の動きは、一見、無秩序に見える。だが、それは違う。これは、巨大な生物が行う、極めて合理的で、洗練された『筋肉の収縮運動』そのものだ」


「筋肉……?」

セレンは、聞き返した。この状況で、なぜその単語が出てくるのか、彼女には理解できなかった。


「そうだ」

レギウスは、目を閉じ、全身の感覚を研ぎ澄ませているようだった。

「この動きに、逆らってはいけない。我々が、この巨大な筋肉のリズムと、完全に同調するのだ。これは、戦闘ではない。巨大な筋肉との『対話』だ」


彼は、ゆっくりと目を開けると、セレンとライガに向かって、宣言した。

「今から、この迷宮の『筋記憶』を、我々の肉体にトレースする!」

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