第九話:混沌の空域を翔ける【前編】

街での襲撃を退けたマッスル・ラックの三人だったが、それは敵の陽動作戦であり、彼らの真の目的――遥か彼方の「天空の遺跡」を、禍々しいエネルギーで汚染し、「混沌の塔」として再起動させるという計画は、阻止することができなかった。


ギルドの作戦司令室には、重い沈黙が垂れ込めていた。

緊急の連絡を受け、王都から駆けつけた、あの天空の遺跡の調査を依頼してきた学者が、魔法の水晶板に映し出された映像を、苦々しい表情で睨みつけている。


「……間違いありません。観測所の報告通り、天空の遺跡は、現在も強力な混沌のオーラを放ち続けています。このままでは、あの浮遊島そのものが、制御不能の巨大な魔力爆弾と化してしまうでしょう。もし地上に落下すれば、その被害は計り知れません……!」

水晶板には、かつて青い空に美しく浮かんでいた島の無残な姿が映し出されていた。島全体が、禍々しい紫色のオーラに包まれ、その周囲には、嵐のような暗雲が渦巻いている。


「何か、あの島に安全に近づく方法はないのかね?」

ギルドマスターが、唸るように言った。


学者は、力なく首を振る。

「現状では、いかなる飛行手段も危険すぎます。あの混沌のオーラは、魔力で飛ぶものを狂わせ、物理的な翼を持つものは、そのエネルギーに触れただけで肉体が変異してしまう恐れがある。事実、遺跡の周辺では、この数日で、おびただしい数の変異魔獣が確認されております」


打つ手がない。誰もがそう思い、諦めの空気が漂い始めた、その時だった。


「……いや、一つだけ、方法がある」

沈黙を破ったのは、腕を組み、静かに思考を続けていたレギウスだった。

その場の全員の視線が、彼に集まる。


「ただし、それは、極めて原始的で、かつ、成功の保証がない方法だ」

彼は、隣に立つライガと、そしてセレンの顔を、順番に見た。


三人の間では、もう、言葉は必要なかった。



数日後。

再び、あの高地の山頂に、三人の姿はあった。

以前訪れた時とは、まるで世界の姿が違って見えた。木々はねじくれ、地面を這う草花は毒々しい色に変色している。吹き抜ける風は、不吉なうめき声のように、セレンの耳元を通り過ぎていった。


そして、見上げた空。

そこには、絶望的な光景が広がっていた。


紫色の暗雲が巨大な渦を巻き、その中心で、かつて天空の遺跡だったものが、禍々しい光を放っている。その周りを、翼を持つおぞましい変異魔獣の群れが、まるで死肉に群がるハイエナのように、無数に飛び交っていた。


「……おいおい、マジかよ……」

ライガが、思わずといった様子で呟いた。

「あんなバケモノのど真ん中を、突っ切れってのか?」


「そうだ」

レギウスは、揺るぎない声で答えた。

「私の計算によれば、変異魔獣の群れの動きには、僅かながら規則性がある。最も群れが薄くなる瞬間を狙い、最短距離で突入する。不可能ではない」


「不可能じゃないって……どうやって……」

セレンの声は、風にかき消されそうなくらい、弱々しかった。


レギウスは、そんなセレンに向き直ると、静かに、しかし力強く言った。

「セレン殿。君の役目は、ただ一つ。我々を信じ、そして、何があっても、絶対に目を開け続けることだ」

「え……?」


「いいか、嬢ちゃん!」

今度は、ライガがセレンの肩を力強く掴んだ。

「お前が気を失ったり、目を閉じたりしやがったら、俺たちがどんなに頑張っても、お前を守り切れねえかもしれん。だから、何があっても、俺の腕を、しっかり掴んでやがれ!」


二人の真剣な眼差しに、セレンは、ごくりと喉を鳴らした。

そうだ。もう、私は守られるだけの、か弱い少女ではない。このパーティーの一員なのだ。


「……分かりました。絶対に、目も閉じないし、気も失いません」

セレンは、震えを抑え、覚悟を決めた顔で頷いた。


「よし、それでこそだ!」

「うむ。では、最後の調整に入る」


レギウスとライガは、再び、あの常識外れの「準備運動」を始めた。

しかし、今回は、前回とは比較にならないほどの緊張感と、凄まじいまでの集中力が、その全身からみなぎっていた。


彼らは、これから、ただ空を飛ぶのではない。

混沌の嵐と、魔獣の群れがうごめく、死地そのものへと、その身を投じるのだから。

その手段が、あまりにも原始的な、「人間カタパルト」であったとしても。

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