第八話:筋肉vs魔法、そして汚染の狼煙【前編】

天空の遺跡での一件以来、マッスル・ラックの日常は、静かな緊張感に包まれていた。

自分たちが、世界の運命を左右する巨大な陰謀に巻き込まれたこと。そして、セレンがその中心人物として、謎の組織に狙われているという事実。それは、パーティーのあり方を根本から変えるには十分すぎる出来事だった。


セレンは、ギルドの資料室や王都の古書店を巡って集めた書物の山に埋もれながら、深いため息をついた。あの漆黒の男が使った、物理法則を捻じ曲げるかのような不可思議な魔術。その正体と対抗策を見つけ出そうと、彼女は寝る間も惜しんで調査を続けていたが、有力な手がかりは一向に見つからなかった。


一方、レギウスとライガは、来るべき次の襲撃に備え、これまで以上に過酷なトレーニングに明け暮れていた。


「力が足りん! 敵の『理』とやらを、その根源から粉砕するには、今の倍の筋繊維が必要だ!」

「ふむ。大胸筋上部の発達が、まだ私の理想には達していないな……」


ギルドの訓練場は、もはや彼らの実験場と化していた。特注のバーベルはとっくに重量が足りなくなり、最近では、訓練場の石壁そのものをサンドバッグ代わりに殴りつけ、その耐久性を「分析」している。ギルドから、そろそろ高額な修繕費が請求される頃だった。


セレンは、そんな二人を横目に、対魔法戦闘に関する書物を読み漁っていた。相手は、ライガの拳すら容易く防ぐ、高度な魔術の使い手だ。物理一辺倒の二人の仲間を守るためにも、自分にできることを探さなければならない。魔術の弱点、詠唱の妨害方法、魔法障壁の種類と性質。知識だけでも、何か役に立つかもしれない。


だが、そんな束の間の平穏は、唐突に終わりを告げた。


その日、三人は気分転換も兼ねて、街の市場に買い物に来ていた。活気に満ちた大通り、人々の笑い声。少し前まで、セレンにとっては当たり前の日常の風景だったが、今はその全てが、嵐の前の静けさのように感じられた。


(考えすぎ、かな……)


セレンが、ふと空を見上げた、その時だった。

周囲の喧騒が、ぴたりと止んだ。

時間が止まったかのように、人々がその場に凍りつく。セレンは、それが何らかの広域精神魔法であることに気づいた。


「来たか……!」

ライガが、買い物袋を地面に置き、低い唸り声を上げる。


「囲まれているな。数は、五人か」

レギウスも、瞬時に周囲の状況を把握した。


いつの間にか、彼らの周囲から人影は消え、建物の屋根や、路地の暗がりに、数人の人影が現れていた。全員が、あの時、天空の遺跡で出会った男と同じ、漆黒のローブを身にまとっている。


「『最後の楔』、セレン殿。我々と共に来ていただきます」

その中の一人が、感情のこもらない声で告げた。


「断る、と言ったら?」

セレンは、震える声を抑え、毅然と言い返した。


ローブの男たちが、一斉に杖を構える。

「――ならば、力ずくで奪うまでです」


問答無用。

五人の杖の先から、それぞれ異なる属性の魔力が、凝縮されていく。炎の球、氷の槍、雷の矢、風の刃、そして地面を縛る岩の魔法陣。

熟練の魔術師五人による、完璧に連携された、必殺の魔法攻撃。

並の冒険者パーティーであれば、詠唱が終わる前に逃げ出すか、あるいは、なすすべもなく殲滅されるしかないだろう。


五つの魔法が、同時に、セレンただ一人を狙って、解き放たれた。


「セレン殿!」

「嬢ちゃん!」


レギウスとライガが、セレンを守るように、その前に立ちはだかる。

絶望的なまでの魔力の奔流が、三人に殺到した。

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