第七話:忍び寄る影とセレンの秘密【後編】
漆黒の男が消え去った広間に、重い沈黙が落ちた。
セレンは、その場にへたり込んだまま、動けずにいた。自分の両手を見つめる。この手が、この血が、世界を揺るがす厄災の『楔』だという。これまで自分を苦しめてきた不運も、雨を呼ぶ体質も、全てはその宿命の兆候に過ぎなかった。
(私のせいだ……)
彼女の心は、絶望で満たされていた。
私がいるから、あの男は現れた。私がいるから、レギウスとライガを、こんな途方もない厄災の中心に引きずり込んでしまった。私の不運は、ただ運が悪いだけではなかった。周囲の人間をも巻き込み、不幸にする、本物の『呪い』だったのだ。
「くそっ!何なんだ、あいつは!調律だの厄災だの、好き勝手言いやがって!」
沈黙を破ったのは、ライガの怒声だった。彼は、やり場のない怒りをぶつけるように、近くの壁を拳で殴りつけた。古代遺跡の頑丈な壁に、大きな亀裂が走る。
「……空間転移の一種か。極めて高度な魔術だ。我々の知る体系とは異なる」
レギウスは、男が消えた場所を冷静に観察しながら、厳しい表情で呟いた。
やがて、二人の視線が、床にうずくまるセレンへと注がれる。
レギウスが、ゆっくりと彼女に近づいた。
「セレン殿、立てるか?」
その優しい声に、セレンはびくりと肩を震わせた。
「来ないで……!」
彼女は、懇願するように叫んだ。
「私に、近づかないでください……! あなたたちを、巻き込みたくない……! 私のせいで、あなたたちまで不幸になる……!」
自分は、疫病神だ。この二人と一緒にいてはいけない。これ以上、この温かくて、規格外で、どうしようもなく頼りになる二人を、自分の運命に引きずり込むわけにはいかない。
しかし、セレンの悲痛な叫びに対する二人の反応は、彼女の予想を遥かに超えていた。
「何言ってやがんだ、嬢ちゃん」
ライガは、ガシガシと頭を掻くと、セレンの前にドカッとしゃがみ込んだ。その大きな体が、彼女の視界を覆う。
「お前がお前であることに関係ねえだろ」
「え……?」
「『楔』だか『釘』だか知らねえが、お前は俺たちのパーティーの仲間だ。そうだろ?」
ライガは、ニヤリと牙を見せて笑った。
「仲間が変な奴らに狙われてんなら、そいつらをぶん殴って守る。話はそれだけだ。理屈なんざ、いらねえんだよ」
そのあまりにも単純で、あまりにも力強い言葉に、セレンは言葉を失った。
続いて、レギウスもまた、穏やかな、しかし揺るぎない声で言った。
「ライガの言う通りだ、セレン殿。君が『楔』であるという事象と、我々が君を守るという選択は、論理的に何ら矛盾しない」
彼は、腕を組むと、深く頷いた。
「むしろ、事態はより明確になった。敵の目的は、君に宿る『力』。ならば、我々が為すべきこともまた、ただ一つ。君の力、そして君自身を、何者にも、決して渡さぬことだ」
レギウスは、自らの力こぶを、確かめるようにポンと叩いた。
「そのためには、我々の筋肉を、より一層、君を守るための『盾』として鍛え上げる必要がある。これは、我々にとって新たなトレーニング目標ができたということであり、極めて合理的だ」
筋肉の盾。
新しいトレーニング目標。
セレンは、二人の顔を交互に見上げた。
彼らは、世界を揺るがす厄災の運命を前にして、全く動じていなかった。それどころか、仲間を守るための喧嘩の相手ができたと喜び、新たな筋トレのメニューができたと、目を輝かせている。
その、あまりにも常識外れで、どうしようもなく愚直で、そして、圧倒的に頼もしい姿に。
セレンの心を満たしていた絶望の氷が、ポロリと、音を立てて崩れた。
「……ふっ」
堪えきれず、小さな笑いが漏れた。
「……ふふっ、あはは……! 筋肉の、盾……? 新しい、トレーニング目標……? なに、それ……」
笑いは、やがて嗚咽に変わった。しかし、それは絶望の涙ではなかった。自分は一人ではないのだという、どうしようもない安堵感から来る、温かい涙だった。
「おう、そうだ、それでいい」
ライガが、大きな手で、不器用にごしごしとセレンの頭を撫でた。
レギウスが、静かに彼女の前へと手を差し伸べる。
「さあ、立ってくれ、セレン殿。我々のパーティー『マッスル・ラック』の冒険は、まだ始まったばかりだ」
セレンは、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、その手を、強く、強く握り返した。
突きつけられた宿命は、あまりにも重い。これから先、想像もつかないような困難が待ち受けているだろう。
それでも、もう彼女は一人ではなかった。
世界で最も強く、そして、世界で最も規格外な『盾』が、すぐそばにいるのだから。
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