第七話:忍び寄る影とセレンの秘密【中編】
「なんだテメェは! いったいどこから入ってきた!」
ライガが、即座にセレンをかばうように前に立ち、威嚇の声を上げた。レギウスもまた、その巨大な体でセレンと男の間に割って入り、静かに、しかし最高レベルの警戒を持って男を睨みつけていた。
「警戒しろ、ライガ。この男、ただ者ではない。我々がここに到着するまで、その気配を完全に消していた」
二人のただならぬ気迫を前にしても、漆黒のローブの男は、全く動じる様子を見せなかった。その視線は、筋肉の壁と化した二人を通り抜け、ただ一点、まだ床に膝をついているセレンだけに注がれている。
「驚くことはありません。我々は、あなたのような『特別』な方を、ずっと探しておりましたので」
男の声は、やはり氷のように冷たい。
「我らは、歪んでしまったこの世界の理を正し、真の『調律』を目指す者。そのためには、古き厄災の封印を解き放ち、世界を一度、原初へと還す必要があるのです」
「厄災の封印を解く……? まさか、あなたたちの目的は……!」
セレンは、脳内に流れ込んできた血の記憶と、男の言葉を結びつけ、戦慄した。
「ご明察の通り」
男は、フードの奥で、わずかに口角を上げたように見えた。
「そして、その厄災を封じ込めている最後の楔……それが、あなたのその身に宿る力。我々は、その力を解放するために、あなたを迎えに来たのです」
男の言葉は、あまりにも常軌を逸していた。世界の調律のために、厄災を復活させる? そのために、セレンの命を、力を利用する?
「ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、この野郎ッ!!」
最初に動いたのは、やはりライガだった。
理屈など、彼には関係ない。目の前の男が、仲間であるセレンに危害を加えようとしている。それだけで、拳を振るう理由は十分だった。
床を蹴り、放たれたライガの拳は、岩盤すら粉砕する。常人であれば、その風圧だけで意識を失うほどの、必殺の一撃。
しかし、男は避けなかった。
ライガの拳が、男の顔面に届く寸前。男の前に、まるで黒いガラスのような、半透明の障壁が突如として現れ、その拳をピタリと受け止めた。
ゴォンッ!
鈍い衝撃音が広間に響き渡る。ライガの全力の拳は、その黒い障壁に、蜘蛛の巣のようなヒビ一つ入れることすらできなかった。
「なっ……! 俺の拳を、止めた……だと!?」
ライガが、信じられないといった表情で目を見開く。
「物理的な攻撃は、我々には通用しません。あなた方の『力』は、我々の『理』の前では、無意味ですので」
男がそう呟くと、その足元の影が、まるで生き物のように蠢き、数本の鋭い触手となってライガへと襲いかかった。
「ライガ!」
レギウスが叫ぶ。影の触手は、ライガの巨体をいとも簡単に拘束し、締め上げ始めた。
「ぐっ……! この、黒いヒモみてえなもんは、なんだ……!」
ライガが、自慢の筋肉を膨張させて引きちぎろうとするが、影の触手は、彼の筋肉の動きに合わせて、その締め付けをさらに強くしていく。
「無駄ですよ。それは、あなたの筋力に比例して、その強度を増す『影の理』。あなたの力が強ければ強いほど、その拘束は強くなる」
男は、もがくライガを一瞥すると、再びセレンへと視線を戻した。
「さあ、お越しください、『最後の楔』よ。抵抗は、苦痛を長引かせるだけです」
男が、セレンに向かって手を差し伸べた、その時だった。
「――させん」
地を這うような低い声と共に、レギウスが動いた。
彼は、ライガを拘束する影の触手そのものではなく、その影を生み出している、男の足元の「床」に向かって、渾身の拳を叩きつけたのだ。
「おおおおおっっ!!」
ズガアアアァァァンッッ!!!
レギウスの拳は、古代の遺跡の頑丈な石畳を、まるでクッキーのように粉々に砕いた。男の立っていた足場が、完全に崩壊する。
足場を失ったことで、影の魔術が、一瞬だけ揺らいだ。その隙を突き、ライガは「うおおお!」という雄叫びと共に、自らを縛っていた影の触手を、力任せに引きちぎった。
「ちっ、危ねえところだったぜ……!よくやった、レギウス!」
「……なるほど」
崩れた足場から、ふわりと宙に浮かび上がった男は、初めて、少しだけ感心したような声を漏らした。
「魔術そのものではなく、その術者が立つ『理』そのものを破壊する、か。力一辺倒に見えて、実に厄介な手を打ちますね」
男は、それ以上攻撃を仕掛けてはこなかった。
彼は宙に浮いたまま、静かにセレンを見下ろすと、こう言った。
「今日のところは、ご挨拶まで、ということにしておきましょう。しかし、覚えておきなさい。あなたはその宿命から、決して逃れることはできない。我々は、いつでも、どこにでも現れる」
そう言い残すと、男の体は、まるで陽炎のように揺らめき、次の瞬間には、黒い影の粒子となって、その場から跡形もなく消え去っていた。
後に残されたのは、不気味な静寂と、粉々に砕かれた床、そして、あまりにも重い真実を突きつけられた、三人の冒険者だけだった。
セレンは、自分の掌を見つめた。
ただ、運がないだけだと思っていた。雨を呼ぶ、少し変わった体質なだけだと思っていた。
だが、違った。
この手には、この血には、世界を揺るがすほどの、巨大な厄災の運命が握りしめられていたのだ。
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