第五話:湖の主と水圧トレーニング【後編】

「湖の環境を、我々に有利なものへと変更する」


レギウスの自信に満ちた宣言に、セレンは何を言っているのか理解できなかった。湖の環境を変える? まるで神様のようなセリフだ。


「どうやって……?」

セレンが尋ねると、レギウスは湖畔の、比較的波の穏やかな場所を指さした。


「簡単なことだ。この湖の水を、全て対岸へ移動させる」

「……はい?」


セレンは、自分の耳を疑った。今、このリザードマンは何と言っただろうか。湖の水を、移動させる?


「ライガ、準備はいいか」

「おうよ!最高の全身運動になりそうだぜ!」


二人は、セレンが何かを言う隙も与えず、湖畔に並び立つと、その巨大な両腕を水面へと突き刺した。そして、信じられないことに、その腕で水を「掴む」ような動きを始めたのだ。


「「うおおおおおっっ!!」」


次の瞬間、セレンと漁師は、物理法則が崩壊する光景を目の当たりにした。

二人の腕が、まるで巨大なタービンのように回転し、凄まじい勢いで湖の水を汲み上げ始めたのだ。汲み上げられた水は、放物線を描いて空を舞い、はるか対岸へと降り注いでいく。

それはもはや、水を移動させているというより、湖そのものを持ち上げて、ひっくり返しているかのような、途方もないスケールの作業だった。


ザバアァァァァァァンッッ!!!


無数の水塊が、絶え間なく空を飛び交う。嵐で荒れ狂っていた湖は、二人の人力によって、さらに激しく波立ち、渦を巻いていた。


「な、な、な……」

依頼主の漁師は、あまりの光景に言葉を失い、ただ口をパクパクさせている。


「嘘……でしょ……」

セレンもまた、目の前で起きていることが信じられなかった。嵐を起こした自分の雨女体質も大概だが、その嵐の湖を、人力でどうにかしようとしているこの二人組は、もはや同じ世界の生き物とは思えない。


「肩甲骨の可動域を意識しろ、ライガ! 広背筋との連動で、より多くの水を運べる!」

「へっ、言われなくてもな! この動き、三角筋にもキクぜ!」


二人は、楽しげに筋肉の部位を確認し合いながら、黙々と水を対岸へと放り投げ続ける。

そして、数十分が経過した頃。

信じられないことに、荒れ狂っていた湖の水位が、目に見えて下がり始めていた。


嵐は相変わらずだというのに、湖の中心部は、まるで干潮時のように水が引き、湖底の一部が露わになっている。

そして、その中央。

水深が浅くなり、身動きが取れなくなった巨大なナマズが、ビチビチと巨体をくねらせていた。


「よし! 環境は整ったな!」

ライガが、満足げに笑う。


「うむ。これで、言い訳はできんぞ、湖の主よ」

レギウスも、静かに闘志を燃やす。


二人は、浅くなった湖をバシャバシャと進み、巨大ナマזの前へと仁王立ちになった。

水中でのアドバンテージを失った湖の主は、もはやただの大きな魚だ。


「さあ、ラウンドツーだ!」

ライガの拳が、ナマズの巨大な頭部に叩き込まれる。

「今度はヌルヌルしねえからな!」


「仕上げだ」

レギウスは、もがくナマズの巨大な髭を両腕で掴むと、その途方もない筋力で、巨体ごと持ち上げ始めた。


「な、ナマズが、空を飛んだ……」

漁師が、力なく呟いた。


レギウスは、持ち上げたナマズを、そのまま地面へと叩きつける。凄まじい地響きと共に、湖の主は完全に動きを止めた。


嵐は、まるで役目を終えたかのように、少しずつ勢いを弱めていった。

後に残されたのは、水位が半分ほどになった奇妙な湖と、気絶した巨大なナマズ、そしてびしょ濡れで満足げな表情を浮かべる筋肉二人組だけだった。



村に戻った三人は、英雄として迎えられた。

「湖の水を対岸に移動させて、主を釣り上げた」という常識外れな報告を、村人たちは最初こそ信じなかったものの、変わり果てた湖の姿と、陸に打ち上げられた巨大なナマズを見て、最終的に「偉大なる筋肉の神々の御業」として納得(?)したようだった。


報酬の金貨を受け取り、村人たちの盛大な感謝を受けながら、セレンは一人、遠い目をしていた。

(私の不運も、この人たちの筋肉の前では、ただのトレーニングメニューの一つでしかないのかもしれない……)


そう思うと、少しだけ、ほんの少しだけ、自分の体質も悪くないのかもしれない、とセレンは思うのだった。

もちろん、そのせいで毎回死ぬような目に遭うのは、もう勘弁してほしかったが。


こうして、パーティー『マッスル・ラック』の初仕事は、湖の生態系を根本から揺るがすという、とんでもない形で幕を閉じたのであった。

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