第五話:湖の主と水圧トレーニング【中編】
「トレーニング……ですか?」
セレンと依頼主の漁師は、レギウスの言葉の意味が分からず、呆然と聞き返した。目の前には、船を一瞬で飲み込むであろう、荒れ狂う嵐の湖が広がっている。どう考えても、生命活動に適した環境ではない。
しかし、レギウスは至って真面目な顔で、自らの上腕二頭筋を軽く叩きながら、滔々と持論を展開し始めた。
「そうだ。陸上でのトレーニングには、常に一定の重力しかかからないという限界がある。だが、この荒れ狂う水中ではどうだ? 全身の筋肉にあらゆる角度から、常に、予測不能な負荷がかかり続ける。すなわち『水圧』だ。これは、停滞した筋肉を新たな次元へと進化させる、またとない機会と言える!」
「なるほどな!」
隣で聞いていたライガが、ポンと手を打った。
「つまり、最高の『水圧トレーニング』ってわけか! ついでにあのナマズもぶっ飛ばせば、一石二鳥だな!」
二人の間だけで、完全に話がまとまってしまった。
セレンは、目の前の光景が信じられなかった。嵐の湖を見て、「最高のトレーニングジムだ」と喜ぶ人間(?)がいるなど、想像したこともなかった。
「い、いや、無理ですよ! 普通の人間なら一瞬で溺れますし、リザードマンだってこんな嵐の中じゃ……!」
セレンが常識的な観点から必死に訴えるが、レギウスは静かに首を振った。
「問題ない。肺を限界まで拡張し、肋間筋(ろっかんきん)で圧力をかけて固定すれば、常人でも数時間は無呼吸での活動が可能だ。これもまた、日々の鍛錬の賜物、筋肉のなせる技だ」
「俺なんか、三日は余裕だぜ!」
セレンが何かを言い返す前に、二人は「ウォーミングアップだ」と言って、湖畔で準備運動を始めてしまった。
それは、準備運動というにはあまりにも常軌を逸していた。打ち寄せる大波に体当たりして押し返したり、嵐で岸に打ち上げられた巨大な流木を軽々と持ち上げてスクワットをしたりしている。
依頼主の漁師は、あまりの光景に腰を抜かして、その場にへたり込んでしまった。
やがて、十分に体が温まった(と彼らが判断した)のか、二人は満足げに頷き合うと、荒れ狂う湖の前に仁王立ちになった。
「じゃ、いっちょトレーニングしてくるか!」
「うむ。セレン殿と依頼主殿は、ここで我々の筋肉の躍動を、その目に焼き付けるといい」
そう言い残すと、二人は「「うおおおおおっっ!!」」という雄叫びと共に、嵐の湖へと真正面から突進していった。
ザッパン!と巨大な水しぶきが上がり、二人の姿はあっという間に荒波の中へと消えていく。
「…………」
後に残されたのは、呆然と立ち尽くすセレンと、魂が口から抜け出たような顔をしている漁師だけだった。
しばらくして、湖の中心あたりで、巨大な水柱が何本も上がり始めた。
ドゴォォン!という、岩でもぶつけ合ったかのような鈍い音が、嵐の音に混じって響いてくる。二人が、水中で何かと戦っているのは間違いなさそうだった。
やがて、湖面が大きく盛り上がり、巨大な黒い影が姿を現した。
小舟ほどもある、巨大なナマズ。長く黒光りする髭を揺らし、巨大な口を開けている。あれが、湖の主だ。
湖の主は、侵入者である二人を排除しようと、その巨大な尾を鞭のようにしならせ、水面を叩きつけた。しかし、その攻撃を、水中から飛び出したライガが、腕をクロスさせてがっしりと受け止める。
「効かねえな! その程度の衝撃じゃ、俺の筋肉は喜ばねえぞ!」
「ライガ! 尾の衝撃を大胸筋で受け止め、その負荷を利用して筋繊維を刺激しろ! より効率的だ!」
水中からレギウスの声が響く。
二人は、巨大ナマズとの戦闘すらも、自らの筋肉を鍛え上げるためのトレーニングメニューの一環としか考えていないようだった。
だが、数十分が経過しても、一向に決着がつく気配はなかった。二人の攻撃は、確かにナマズにダメージを与えているようだが、決定打には至らない。
「くそっ! このナマズ、水の中だとヌルヌルして殴りずれえ!」
ライガが、苛立ったような声を上げる。水中では、自慢のパワーも上手く伝わらないようだ。
レギウスも、水中から顔を出すと、冷静に状況を分析した。
「ふむ……我々の筋力は十分だが、この環境そのものが、敵に圧倒的な利をもたらしている。このままでは、ただ体力を消耗するだけだ。ラチがあかん」
「じゃあ、どうするんだよ!」
「戦術を変更する必要がある」
レギウスはそう言うと、ライガに何かを耳打ちした。それを聞いたライガの顔が、ニヤリと喜びに歪んだ。
「なるほどな! そいつは、最高のトレーニングになりそうだ!」
二人は、巨大ナマズから一度距離を取ると、湖の岸辺へと戻ってきた。そして、セレンと漁師に向かって、こう宣言した。
「今から、この湖の環境を、我々に有利なものへと変更する」
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