第三話:幻惑の迷宮と筋肉の理性【後編】
レギウス式筋肉呼吸法によって、三人は幻覚の精神攻撃に耐性を持つことに成功した。しかし、それはあくまで対症療法に過ぎない。
迷宮の奥に進むにつれて、きらきらと輝く胞子の密度は増し、まとわりつくような甘い香りも強くなっていく。
「このまま進み続けるのは危険です。どこかに、この胞子を発生させている大元があるはず……!」
セレンはカンテラを掲げ、警戒しながら言った。呼吸法で理性は保てているものの、幻覚は常に視界の隅をちらつき、集中力を削いでいく。
やがて三人は、ひときわ開けた空間にたどり着いた。
そこは巨大な空洞になっており、中央には信じられない光景が広がっていた。
巨大な、きのこ。
あるいは、花か。
色とりどりの傘を持ち、水晶のように明滅を繰り返す、巨大な植物型のモンスターがそこに鎮座していたのだ。その傘からは、絶え間なく輝く胞子が、まるで噴水のように湧き出て、空間全体に拡散している。
あれが、この幻惑の迷宮の元凶に違いなかった。
「デカいキノコだな……」
「あれが胞子の発生源か。近づけば近づくほど、幻覚は強力になるだろうな」
ライガとレギウスが分析する。巨大キノコは、まるで呼吸をするかのように、その傘をゆっくりと開閉させていた。
「植物型のモンスターなら、火が弱点のはずです!」
セレンはバックパックから、発火効果のある魔力石と、油を染み込ませた布を取り出した。古典的だが、有効な戦術のはずだった。
「私が注意を引きますから、二人は横から……」
セレンが作戦を言い終える前に、巨大キノコが動いた。三人の存在に気づいたのだ。
巨大な傘の一つが、鞭のようにしなってセレンを襲う。
「危ない!」
レギウスがセレンを突き飛ばし、ライガがその攻撃を腕で受け止めた。
「ぐっ……! 見た目より重てえぞ!」
「セレン殿、火を!」
レギウスの言葉に、セレンは急いで発火石を打ち鳴らし、油布に火をつけた。燃え盛る布を、巨大キノコの根本めがけて投げつける。
しかし、キノコは傘から粘液質の液体を噴射し、いとも簡単に火を消し去ってしまった。
「火がダメ……!?」
セレンの作戦は、あっけなく破られた。それどころか、敵の攻撃は激しさを増し、色とりどりの傘から胞子だけでなく、溶解液や麻痺効果のある液まで飛ばしてくるようになった。
「くそっ、キリがねえ!」
ライガが攻撃をいなしながら叫ぶ。胞子の濃度が濃すぎて、筋肉呼吸法だけでは幻覚を抑えきれなくなってきていた。ライガの視界には、再び巨大な上腕二頭筋の幻がちらつき始めている。
「まずいな……このままでは消耗するだけだ」
レギウスの額にも、汗が滲んでいた。彼の目の前にも、究極のプロテインシェイクが、これまでになく鮮明な姿で誘惑してきていた。
万策尽きたか。
セレンが唇を噛んだ、その時だった。
「……いや、手はある」
レギウスが、何かを閃いたように言った。
「この胞子は、空気中に浮遊する粒子だ。ならば、この空間の空気を全て入れ替えるか、あるいは、胞子そのものを一箇所に集めてしまえばいい」
「空気を入れ替える!? どうやって!」
「我々の体で、だ」
レギウスは、真剣な顔でライガを見た。
「ライガ、我々の肺活量と、横隔膜及び腹斜筋の筋力を持ってすれば、この空間の空気を一時的に吸い尽くすことも可能だとは思わないかね?」
「……なるほどな」
ライガの目つきが変わった。彼は、レギウスの突拍子もない理論を、瞬時に理解したようだった。
「要は、このキノコごと、胞子を全部吸い込んじまえばいいってことか!」
「えええ!?」
セレンは素っ頓狂な声を上げた。
「そんなことしたら、胞子の毒で……!」
「「問題ない!」」
二人の声が、綺麗に重なった。
「いいか、ライガ! 私の合図で、同時に最大深度まで息を吸い込む!」
「おうよ! 肺が張り裂けるまで吸ってやるぜ!」
セレンの制止も聞かず、二人は巨大キノコの前で並び立つと、大きく足を開いて腰を落とした。
「いくぞ……! 吸引(インヘイル)ッ!!」
次の瞬間、信じられないことが起こった。
二人の口元に向かって、空気の渦が生まれたのだ。きらきらと輝いていた無数の胞子が、まるで掃除機に吸い込まれるかのように、凄まじい勢いで二人の口の中へと吸い込まれていく。
「す、吸ってる……空間の胞子が、全部……」
セレンは、そのあまりにも馬鹿げた光景を、ただ見つめることしかできなかった。
やがて、部屋中の胞子を吸い尽くした二人は、パンパンに膨れた頬で、互いを見て頷いた。
「では、仕上げといくか」
「ああ。俺たちの筋肉の息吹を、あのキノコ野郎に叩き込んでやる!」
二人は巨大キノコの方を向くと、限界まで溜め込んだ息を、一気に解放した。
「「マッスル・ブレスッッ!!!!」」
もはや、それは息ではなかった。
暴風。
二人の口から放たれた圧縮された空気の塊は、凄まじい突風となって巨大キノコを直撃した。
胞子を失い、無防備だった巨大キノコは、その衝撃に耐えきれず、メキメキと音を立てて根元から折れ、傘は無残に砕け散った。
嵐が過ぎ去った後には、静寂と、破壊された巨大キノコの残骸だけが残されていた。
空気は、信じられないほど澄み切っている。
「……大丈夫ですか、二人とも」
セレンがおそるおそる尋ねると、二人はケロッとした顔で答えた。
「問題ない。吸い込んだ胞子は、腹筋で濾過(ろか)しておいた」
「ああ。鍛え抜かれた横隔膜は、どんな毒素も分解するからな」
セレンは、深く、深いため息をついた。
もう、何も言うまい。この人たちの前では、常識など何の意味も持たないのだ。
こうして、幻惑の迷宮は、二人の規格外の肺活量と筋肉によって、完全に沈黙させられた。
その奥に続く新たな扉を前に、セレンは、これからの冒険が、自分の想像を遥かに超えたものになるだろうことを、確信するのだった。
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