第三話:幻惑の迷宮と筋肉の理性【中編】

「いい加減にしてください!」


セレンは、心の底から叫んだ。

幻覚のせいで、涙が滲む。過去の失敗が次々と脳裏を駆け巡り、胸が張り裂けそうだ。それなのに、この筋肉たちは幻のプロテインと幻の筋肉に夢中になっている。情けなくて、悔しくて、そしてほんの少しだけ、その能天気さが羨ましかった。


その叫び声が、意外にも二人の耳に届いたらしい。

レギウスとライガは、はっと我に返ったようにセレンの方を向いた。


「す、すまん、セレン殿。あまりに理想的なタンパク質だったので、つい理性を失うところだった」

「ちっ、幻覚だと分かっていてもムカつくぜ……俺よりデカい上腕二頭筋なんざ、存在が罪だ」


ライガはまだ虚空を睨んで悪態をついている。


「このままじゃダメです! この胞子、吸い続ければ本当に精神が持たなくなります!」

セレンは、震える足でなんとか立ち上がった。

「何か、この胞子の効果を打ち消す方法は……」


「落ち着け、セレン殿」

レギウスは、セレンの肩にそっと手を置いた。その分厚い掌は、不思議なほどに温かく、セレンの心の震えを少しだけ和らげてくれた。

「パニックは、幻覚をさらに増幅させる。こういう時こそ、冷静な分析と、それに基づいた行動が必要だ。まず、この胞子が我々の精神にどのように作用しているかを考察しよう」


レギウスは、きらきらと舞う胞子を指でつまもうとするが、それは指をすり抜けていく。

「物理的な干渉は不可能。となれば、吸引することによって効果を発揮するタイプと見て間違いないだろう。つまり、我々が呼吸をする限り、この幻覚からは逃れられない」


「じゃあ、どうしろってんだ! 息を止めてこの迷宮を抜けろってのか!?」

ライガが苛立ったように言う。


「不可能だ。だが、呼吸の『質』を変えることはできる」


「呼吸の質?」

セレンは、レギウスの言っている意味が分からず、聞き返した。


「そうだ」

レギウスは、深く頷いた。

「我々の体は、呼吸によって酸素を取り込み、それをエネルギーに変換して筋肉を動かす。このプロセスを最適化することで、肉体はより高いパフォーマンスを発揮する。そして、精神もまた肉体の一部。ならば、呼吸の最適化は、精神状態の安定にも繋がるはずだ」


「つまり、だ」

とレギウスは続けた。

「この精神攻撃に対し、我々は『筋肉による呼吸最適化』で対抗する!」


(また筋肉……!?)


セレンは、もはや驚きもしなかった。このリザードマンの思考は、いついかなる時も、最終的に筋肉へとたどり着くのだ。


「いいか、二人とも。私の指示に従って呼吸をするんだ。まず、体内の空気を全て吐き出す。腹の底から、もう何も出ないというところまでだ。さあ!」


レギウスの号令に、セレンとライガは戸惑いながらも、ふーっと息を吐き出した。


「足りん! まだ腹筋に甘えがある! 腹斜筋を意識しろ! 腹直筋に力を込めて、肺を限界まで収縮させるんだ!」


レギウスの指導は、まるで地獄の筋力トレーニングのようだった。

セレンは、言われるがままに腹に力を込める。すると、自分でも驚くほど、さらに息が吐き出せた。


「よし。次に、吸うぞ。鼻から、ゆっくりと、天上の清浄な空気を取り込むイメージで。そして、その空気を、横隔膜を押し下げるようにして、腹の底へと溜めていくんだ!」


すーっ、と息を吸い込む。

言われた通りにすると、確かに、いつもより深く、多くの空気が体の中に入ってくるような気がした。


「いいか、ここからが本番だ。吸い込んだその酸素を、全身の筋肉へと送り届ける! 血流を意識しろ! 大胸筋、広背筋、僧帽筋、そして大腿四頭筋へ! 全ての筋繊維に、新鮮な酸素が行き渡るのを感じるんだ!」


レギウスの言葉は、もはや呼吸法というより、何かの儀式のようだった。

しかし、不思議なことに、彼の言う通りに呼吸を続けていると、セレンの心の中を渦巻いていた、過去の失敗の記憶や、絶望の囁き声が、少しずつ薄れていくのを感じていた。


頭が、クリアになっていく。

体の芯から、力が湧いてくるような感覚。


ふと隣を見ると、ライガもまた、目を閉じて深く呼吸を繰り返していた。先ほどまでの苛立ちや混乱は消え、その表情は驚くほど穏やかだ。彼の隆々とした筋肉が、呼吸に合わせて静かに、しかし力強く脈打っているのが分かった。


「どうだ、セレン殿。少しは落ち着いたかね?」

レギウスが、穏やかな声で尋ねる。


「……はい。なんだか、頭がすっきりしました。幻覚も、まだ見えますけど、さっきみたいに苦しくはありません」


「それが、筋肉による呼吸最適化の効果だ。精神が乱れれば呼吸も乱れる。逆もまた然り。呼吸を支配する者は、精神をも支配する。そして、呼吸を支配する上で最も重要なのが、それを支える強靭な筋肉なのだ」


レギ-ウスは、誇らしげに自らの胸を叩いた。

セレンは、この筋肉理論が正しいのかどうかは分からなかった。だが、結果として、幻覚による精神攻撃を乗り越えられたのは事実だ。


「よし! これなら行けるぜ!」

ライガが、すっかり調子を取り戻して叫んだ。

「あのクソみてえな幻覚も、今の俺の筋肉の前じゃ、ただの空気の揺らぎにすぎねえ!」


三人は、再び迷宮の奥へと歩き始めた。

きらきらと輝く胞子は、相変わらず空気中を舞っている。時折、幻覚がちらつくこともあった。

だが、三人はもうそれに惑わされることはなかった。彼らはただ、レギウス式筋肉呼吸法を続けながら、黙々と、しかし力強く、この幻惑の空間の、さらに奥を目指して進んでいくのだった。

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