第三話:幻惑の迷宮と筋肉の理性【前編】

ゴーレムを打ち倒し、静寂が戻った遺跡の中、セレンは崩れ落ちた岩の山を見つめていた。

まさか、本当にあの巨大な岩が古代遺跡の入り口だったとは。そして、その番人であるゴーレムを、魔法ではなく純粋な肉体だけで倒してしまう二人がいるとは。

彼女の冒険者としての常識は、この数時間で何度も覆されていた。


「さて、と。この先はどうなっているのかな?」


ライガが、砕けたゴーレムの残骸を蹴飛ばしながら、明るい声で言った。まるで、手頃なサイズの岩を片付けただけのような気軽さだ。


「油断は禁物だ、ライガ。番人がいたということは、この奥には何らかの目的がある者が作った空間が広がっているはずだ」


レギウスは周囲の壁を注意深く観察している。壁には奇妙な文様が途切れることなく刻まれており、その一部は微かに光を放っているようにも見える。


セレンも二人に続いて遺跡の奥へと進んだ。足元にはゴーレムが崩れた際に散らばった岩の破片が転がっており、注意深く歩かないと躓きそうだ。カンテラの光が、行く手をぼんやりと照らし出す。


やがて、三人は広い空間へと出た。

天井は高く、巨大な石柱が林立している。まるで、忘れ去られた古代都市の一角に迷い込んだようだ。

しかし、先ほどまでの空間とは明らかに異なる点が一つあった。


空気中に、微かにだが、奇妙な香りが漂っているのだ。

甘く、どこか懐かしいような、しかし同時にほんの少しだけ刺激的なその香りは、セレンの意識をじわじわと揺さぶるようだった。


「何か匂うな……」

ライガが鼻をひくつかせた。


「ああ。注意しろ。自然な香りではないようだ」

レギウスも警戒の色を濃くする。


その時だった。

セレンの脳裏に、鮮明な映像が浮かんできた。

それは、一番最近掴まされた、偽物の宝の地図を買った時のこと。情報屋の嘲笑うかのような目。なけなしの金貨が吸い込まれていく感覚。そして、雨の中、ただの岩の前で膝をついた時の、あの冷たい絶望感。


「またダメだった」「私なんかが宝を見つけられるわけない」「やっぱり、私はどこまでも運がないんだ」


過去の失敗が、囁き声となってセレンの心を苛む。


「うっ……!」


セレンは頭を抱えてその場にうずくまった。分かっている。これは幻覚だ。だが、あまりにもリアルなその感覚は、彼女の自信と気力を容赦なく削り取っていく。


「おい、どうした嬢ちゃん!」


ライガがセレンの異変に気づいて声をかける。だが、彼もまた、突然動きを止めてあらぬ方向を睨みつけた。


「……なんだテメェは」


その視線の先には、何もない。しかし、ライガはまるでそこに誰かがいるかのように、唸り声を上げて威嚇していた。


「その上腕二頭筋……俺のよりデカいじゃねえか……! 気に入らねえな、オイ!」


「ライガ、何を言っている。そこには誰もいないぞ」


レギウスが冷静に指摘する。しかし、そのレギウスもまた、虚空の一点を見つめて深く頷いていた。


「なるほど、興味深い。この空間では、対象の深層心理に存在する『理想』あるいは『渇望』が具現化するらしい」


「レギウス? あなたも何か見えてるんですか?」

セレンが苦しい息の下から尋ねる。


「ああ」

と、レギウスは至って真面目な顔で答えた。

「私の目の前には、完璧な栄養バランスで配合された、究極のプロテインシェイクが浮遊している。見ろ、この美しい乳清の輝きを。そして、その隣には、純粋な闘争心そのものを鍛え上げたかのような、黄金のダンベルが……」


セレンは、もうツッコむ気力もなかった。

自分は過去のトラウマに苛まれ、立っているのもやっとなのに。この筋肉たちは、プロテインと筋肉の幻覚を見て、真剣に唸ったり分析したりしている。

状況は、最悪だった。


「二人とも、しっかりしてください! これは幻覚です!」


セレンは必死に叫ぶが、二人の耳には届いていないようだった。


「あのプロテインは罠だ、ライガ! 恐らく、摂取すると筋肉が分解される成分が含まれている!」

「なんだと!? 許せねえ! 筋肉への冒涜だ!」


幻のプロテインを巡って、二人が言い争いを始める。

きらきらと輝く胞子は、彼らの混乱を嘲笑うかのように、ますますその濃度を増していく。セレンの意識も、過去の絶望に引きずり込まれるように、少しずつ遠のいていった。

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