第二話:筋肉岩と古代の番人【前編】
酒場の扉を開けると、先ほどよりも強くなった雨が、待っていたかのように三人を迎えた。
地面はあっという間にぬかるみと化し、跳ね返る泥がセレンのブーツとマントの裾を容赦なく汚していく。普段なら、この時点で心が折れて宿に引き返し、毛布にくるまって不運を呪うところだ。
「さあ、行こうか、セレン殿。未知への探求は、いつだって心を躍らせるものだ」
「おう!退屈で筋肉が腐るより百万倍マシだぜ!」
しかし今、彼女の両脇には、その雨をまるで心地よいシャワーでもあるかのように楽しんでいる二人の巨漢がいた。
レギウスはぬかるみをものともせず、まるで磨かれた大理石の上を歩くように背筋を伸ばしている。ライガに至っては、わざと大きな水たまりを選んで踏みつけては「ふん、この程度の水圧ではトレーニングにもならんな!」などと訳の分からないことを言って豪快に笑っていた。
(なんでこんなことに……)
セレンは、フードを目深にかぶりながら、何度目かもわからないため息を心の内でついた。
偽物の地図。有り金の大半を失った絶望。そして、酒場で出会った規格外の筋肉二人組。どう考えても、自分の人生における不運の煮凝りのような一日だ。
「しかし、本当に来るなんて、物好きですね」
半ば嫌味、半ば本心でそう呟くと、レギウスが穏やかに振り返った。
「物好き、か。あるいはそうかもしれん。だが、セレン殿。我々冒険者という稼業は、誰もが見過ごすような石ころの中に、宝石を見出す仕事でもある。その可能性を、自らの思い込みで捨ててしまうのは、あまりにもったいないとは思わないかね?」
「……それは、まあ、理屈としては」
トレジャーハンターの心得として、ギルドの先輩に何度も聞かされた言葉だ。だが、それをこんな、どう見てもただのガセネタに適用するのは、ポジティブが過ぎるのではないだろうか。
そんな会話をしているうちに、一行は街のはずれの丘にたどり着いた。緩やかな坂道を登りきると視界が開け、雨に烟る景色の中心に――それがあった。
「ほら、着きましたよ」
セレンは、諦めと徒労感を全身ににじませながら、丘の中心を指さした。
ゴウン、と擬音がつきそうなほどの存在感で、巨大な岩が鎮座していた。
高さは大人三人が肩車をしても届かないだろう。表面は黒ずんだ苔に覆われ、無数の雨筋が滝のように流れ落ちている。ただ、大きい。それ以外の特徴は何もない。昨日、セレンが絶望した光景と寸分たがわぬ姿がそこにあった。
「……言った通りでしょう。ただの、大きい岩です。これで満足しましたか? 私はもう宿に帰って、今日の不運を忘れるまで眠りたいんですが」
セレンの言葉に、しかし二人は答えなかった。
彼らは目を輝かせ、まるで稀代の芸術品を鑑賞するかのように、巨大な岩の周りをゆっくりと歩き始めた。その真剣な眼差しは、先ほどの酒場でのやり取りが冗談ではなかったことを物語っている。
「ふむ……」
レギウスは岩の根元に膝をつき、地面と岩の境界線を指でなぞった。
「セレン殿、この岩の材質は、この丘を形成する土壌や岩石とは明らかに異質だ。成分が違う。つまり、これは自然にここにあったものではなく、人為的にどこかから運ばれてきたものと考えるのが論理的だ」
「ああ、それに」
隣で岩肌の感触を確かめていたライガが同意する。
「風雨の侵食にしては、妙にツルツルした部分とザラザラした部分が混在しているな。まるで、誰かが『ここを掴め』と言わんばかりに、手や足がかかりやすいようになっている。……あるいは、定期的に『磨いて』いるのかもな」
「こじつけですよ、そんなの……」
セレンはか細い声で反論する。彼らの目には、世界が一体どう見えているのだろう。ただの岩肌の凹凸が、古代人のメッセージに見えているとでもいうのだろうか。
「いや」
と、レギウスは立ち上がり、岩のある一点を指さした。
「この部分は不自然なほど平坦で、直線的な線が走っている。自然の亀裂にしては、あまりにも幾何学的すぎる。まるで、二つのパーツを組み合わせた『継ぎ目』のようだ」
「本当だぜ。こっち側にも似たような線がある。ってことは、こいつはやっぱり……」
二人は顔を見合わせ、満足げに頷き合った。
「ただの岩じゃねえ。何かを隠すための『蓋』だ」
「その通りだ、ライガ。そして、蓋があるということは、その下には必ず、隠された空間が存在する」
蓋。
この、家ほどもある巨大な岩塊が?
セレンは、あまりの突拍子もない結論に、雨のせいではない頭痛を覚えていた。
「いやいやいや、無理ですって! 仮に、仮にですよ? 百万歩譲ってこれが蓋だったとして、どうやって開けるんですか! クレーンか何かを持ってこないと……!」
「セレン殿、物事の本質は、もっとシンプルだ」
レギウスはそう言うと、やおら立ち上がり、ザッザッと岩の正面に仁王立ちになった。
「開かない扉は、どうするべきか」
「だから、鍵を探すとか、魔法で開けるとか……」
「違う」
レギウスの隣に並んだライガが、ゴキリと首の骨を鳴らした。その音は、岩が砕ける予兆のようにも聞こえた。
「押してダメなら、もっと押す。だろ?」
「その通りだ」
レギウスは、セレンの返事を待たずに、岩盤に両の手をかけた。ライガも反対側に回り込み、同じように分厚い掌を岩肌に押し付ける。ミシミシと、二人の全身の筋肉が軋む音が、雨音に混じって聞こえてくる。
「ちょ、ちょっと、本気ですか!? そんなの、人間……いや、リザードマンや獣人の力でどうにかなるものじゃ……!」
セレンの常識に基づいた制止は、もはや彼らの耳には届いていなかった。彼らは今、目の前の非常識な岩塊と、自らの筋肉との対話に集中している。
「準備はいいか、ライガ。全身の筋肉繊維一本一本にまで意識を通わせろ。力点を定め、効率的に負荷を伝達させる」
「おうよ! とっくにだ! 俺の上腕二頭筋が、早く叫びを上げさせろって急かしてやがるぜ!」
そして、二人の呼吸がぴたりと合った瞬間。
「「いくぞォォォッッ!!」」
二人の咆哮が、雨の丘に響き渡った。
途方もない力が岩盤に加えられ、ゴゴゴ……と、大地そのものが呻くような、低い振動がセレンの足元に伝わってきた。
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