筋肉の理(マッスル・ロジック)

メロンパン

第一話:雨と偽りの宝の地図

ざあざあと、空が泣いているのか、あるいは世界がうんざりしているのか。

どちらにせよ、冒険者ギルドに併設された酒場の窓を叩きつける雨音は、今のセレンの心境を的確に代弁していた。


「はぁ……」


木のテーブルに突っ伏したセレンの目の前には、一枚の羊皮紙が広がっている。すっかり水分を吸ってふやけ始めているそれが、彼女の絶望の源だった。


つい半日前の自分を、この手に持つショートソードの柄で思い切り殴ってやりたい。


『古代エルフの秘宝が眠る丘』


今思えば、あまりにもありきたりで、胡散臭い謳い文句だ。

だが、生活費が底をつきかけていた焦りと、万に一つの可能性に賭けたいという愚かな願望が、なけなしの銀貨を情報屋の手に渡してしまった。


結果は、この通り。

地図が示した街外れの丘には、苔むした巨大な岩が一つ、雨に打たれて鎮座しているだけ。宝はおろか、エルフの「エ」の字も見当たらない。掘り返してみても、出てくるのは硬い土と石ころばかりだ。


緑色のミディアムヘアから、ぽたりと雫が落ちる。

雨に濡れたのか、情けなさから滲んだ涙なのか、もうどうでもよかった。


トレジャーハンターなんて、聞こえはいい。現実は、日々の糧を得るためにギルドの地味な依頼をこなし、たまに掴まされるガセネタに踊らされるだけの、しがない冒険者だ。


運がない。

それはもう、体質のようなものだと諦めている。私が本気で何かを期待すると、決まって雨が降るのだ。まるで、天が「お前なんかに期待させるものか」と嘲笑っているかのように。


「どうしました、お嬢さん。そんなに深いため息をついていては、幸運が逃げていきますよ」


不意に、頭上から穏やかで、しかし妙によく響く声が降ってきた。

顔を上げると、そこに立っていたのは、テーブルが子供用の玩具に見えるほどの巨躯を持つ二人組だった。


影が、濃い。


一人は、深緑の鱗に覆われたリザードマン。酒場の薄暗い照明が、オイルを塗ったかのように艶めくその筋肉を照らし出している。

鍛え上げられた、という表現では生ぬるい。それはもはや、神が筋肉という概念を突き詰めて生み出した、一つの芸術作品のようだった。知的な光を宿す金色の瞳が、こちらを静かに見つめている。


もう一人は、虎を思わせる縞模様を持つ獣人だ。

腕組みをしたその上腕は、そこらの丸太よりも太い。ニヤリと笑う口元からは鋭い牙が覗き、全身から野生的な活力が湯気のように立ち上っていた。


あまりの圧に、セレンはゴクリと喉を鳴らす。

(ギルドでもトップクラスの冒険者だろうか。こんな人たちが、私なんかに何の用だろう)


「……別に。ほっといてください」


セレンは再びテーブルに顔を伏せた。これ以上、惨めな気分を衆目に晒したくない。


「まあ、そう言うな。俺はライガ。こっちは相棒のレギウスだ。見たところ、あんたも冒険者のようだが、何か困りごとか?」


獣人――ライガが、空いていた隣の椅子に腰を下ろす。ギシッと、頑丈なはずの椅子が悲鳴を上げた。


「ご婦人が憂いを帯びた表情をされているのを見て、黙って通り過ぎるのは紳士として忍びない。我々にできることがあれば、力になりましょう」


リザードマン――レギウスが恭しく一礼する。その動きに合わせて、力こぶがむくりと儀礼的に盛り上がった。

(紳士的なのは結構だけど、その筋肉のせいで威圧感がとんでもないことになってる……)


セレンは観念して、ふやけた羊皮紙を指でつついた。

「これを、買っちゃったんです。偽物でした。それだけです」


「ふむ」

レギウスは興味深そうに、セレンの向かいの席に静かに座ると、その地図を覗き込んだ。

「『賢者の石筍(せきじゅん)』『妖精の隠れ里』『竜の涙が眠る泉』……。なるほど、ありとあらゆる伝説をごちゃ混ぜにした、実に欲張りな地図だ。これは確かに、偽物だろうな」


「だろうな、じゃありませんよ! 分かってて買った私が、私が馬鹿なんです!」


思わず声を荒らげてしまい、セレンはハッとして口をつぐむ。周りの冒険者たちがジロリとこちらを見た。みっともない。穴があったら入りたい。


だが、二人の反応は予想外のものだった。

「いや、実に興味深い」

レギウスは真剣な表情で頷いた。


「興味深い? どこがです? こんな出来の悪い、子供だまし……」


「そこだ」

と、レギウスは人差し指を立てる。

「これだけ徹底した偽物、ということだ。普通、偽物の地図を作るなら、一つか二つ、もっともらしい伝承を引用し、信憑性を高めようとする。だが、これは違う。あらゆる可能性を詰め込み、逆にリアリティを失わせている。これはもはや、偽物であるという一点において、真実の域に達していると言える」


「……何言ってるんですか?」

セレンは本気で引いた。このリザードマンは、頭まで筋肉でできているのだろうか。


隣で腕を組んで話を聞いていたライガが、ニヤリと牙を剥いて解説する。

「つまり、だ。レギウスが言いてえのは、こうだ。『宝なんてこれっぽっちもありませんよ』って、地図の方から正直に白状してるようなもんじゃねえか。ここまで潔いと、逆にその『何もない場所』に、本当に何があるのか、見に行きたくなるだろ?」


「その通りだ、ライガ。何もない、と断定するには、我々はまだ自らの目で確かめていない。それは論理的飛躍というものだ」


「いや、だから、私が見てきたんですってば! 本当に、ただのデカい岩があっただけですから! 雨の中ずぶ濡れになって、半日かけて確かめたんですから!」


セレンの悲痛な叫びも、彼らの好奇心という名の薪に変わるだけだった。


「ほう、巨大な岩が」

レギウスの金色の目が、爛々と輝き始める。


「よし、決まりだ。お嬢さん、案内してくれ。その岩とやらを、俺たちが検分してやる」


「はぁ!?」

話がとんでもない方向に転がっていく。なぜこの筋肉たちは、偽物の地図の、その先の、何もない場所に、これほどまでの情熱を燃やせるのか。理解の範疇を完全に超えている。


「しかし、我々も無償でというわけにはいかない。もし、万が一、億が一にも何かが見つかった場合、報酬は三等分。これでどうだろうか、セレン殿」


「え……あ、はい。私の名前、ご存知なんですか」


「君のような特徴的な髪色の冒険者は、ギルドでも噂になっているのでな。『不運な緑髪(アンラッキー・グリーン)』と」


「最悪なあだ名じゃないですか……」

セレンはがっくりと肩を落とした。


「どうする? 俺たちの筋肉、貸してやるぜ?」

ライガが力こぶを作って見せる。その上腕は、セレンの胴回りほどもありそうだった。


セレンはしばらく考えた。

この二人、どう見てもまともじゃない。言っていることも支離滅裂だ。

だが、その目には奇妙な力強さと、退屈を嫌う本物の冒険者だけが持つ輝きがあった。

何より、このまま一人で酒場で落ち込んでいても、何も変わらない。雨が止むのを待つだけだ。


「……分かりました。案内します」

セレンは顔を上げた。半ばヤケクソだった。

「ただし、本当に、本当に何もなくても知りませんからね! 交通費も出ませんから!」


「問題ない。我々の脚は、どんな馬車より速く、正確だ」

「おうよ! 筋肉があればどこへでも行ける!」


自信満々に胸を張る二人を見て、セレンはまた一つ、深いため息をついた。


外はまだ、雨が降っている。

いつもなら憂鬱になるだけの雨音が、今はなぜか、これから始まるであろう途方もなく馬鹿げた冒険の、けたたましいファンファーレのように聞こえていた。

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