第3話 七月二十四日 朔編
「怪しいな」
そう呟きながら歩くのは、九重 朔だった。
物理室の前を通り過ぎ、左に曲がって教室へ向かう。
堺 幹人の死から、すでに二日。
だが、未だに犯人の手がかりすら掴めていない。
朔は一度、警察に話を聞きに行った。だが返ってきたのは曖昧な対応と、事務的な言葉だけ。
教師にも質問してみたが、「そういうことは警察に任せなさい」と、冷たく目を逸らされた。
日本の警察は優秀なはずだ。
それでも何の進展もない。となれば——もう諦めたのか、それとも最初からやる気がなかったのか。
いずれにしても、朔は悟った。
もう、大人たちは当てにならない。
「警察もお手上げの事件か。面白いじゃないか」
表情ひとつ変えずに、朔は微かに笑った。
——彼を動かすのは、圧倒的な“好奇心”。
それを刺激するには、この状況はあまりにも格好の材料だった。
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朔は湊と同じクラスで授業を受けている。
午前八時三十分。
チャイムの音が鳴り響くと同時に、教室の扉がガラガラと音を立てて開かれた。
「皆さん、おはようございます。朝のショートホームルームを始めます」
身長が高く、目にどこか濁った影を宿す男——それが担任の**戸川 刺来(とがわ しらい)**だった。
これが、朔と湊にとっての“いつもの朝”だった。
戸川のその一言から、一日が始まる。
それが、ごく普通の、当たり前だったはずの日常。
だが——
堺 幹人が死んだ、あの事件以来。
戸川の声には明らかな陰りがあり、
教室はまるで夜が来たかのような空気に沈んでいた。
生徒たちの視線は揃って沈黙の中をさまよい、誰もが疑念を飲み込んでいた。
その中でただ一人、朔だけが冷静に思考を巡らせていた。
(……まず、どこから手をつける?)
(幹人が死んだ時刻に、誰がどこにいたのか——そして、彼はどこで殺されたのか。それを突き止めたい)
そう考えているうちに、一限目の授業が始まろうとしていた。
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四限目の物理が終わると、朔は中庭にあるベンチへと向かった。
昼の光が校舎の窓を照らし、そこかしこに夏の匂いが漂っている。
ベンチに腰を下ろし、今朝コピーしてきた新聞部のプリントを広げる。
《堺 幹人君(17)は、7月22日の午後6時頃、自宅で死亡しているのが発見された。死因は出血死。室内から血のついた刃物が見つかり、警察は殺人と断定した。》
「ん……?」
朔は目を細め、紙面の文字をじっと見つめる。
ベンチの前では、パンや唐揚げを買おうとする生徒たちが購買部の前を行き来していた。
だが、その喧騒の中でも、朔の思考だけはひたすらに静かだった。
(午後6時、自宅で発見……?)
——違和感の正体は、“時間”だった。
堺 幹人はハンドボール部に所属していた。
富崎高校のハンドボール部は、県内でも有名な強豪校で、全国大会にも出場する実力を持つ。
放課後の練習は厳しく、遅くとも21時、場合によっては22時頃まで残るのが当たり前だ。
(そんな幹人が、その日だけ早く帰宅していた? それも、死亡推定時刻が“午後6時”?)
犯人は、堺がハンドボール部に所属していたことを知っていたはずだ。
であれば、普通は“もっと遅い時間”に手を下すはず。
(……呼び出されたか、あるいは練習に出ていなかった?)
そう考えた瞬間、朔の背中を冷たい風がかすめた。
——なぜ、あの日だけ。
幹人は練習を休んだのか。
あるいは、休まされたのか。
(……ハンドボール部に当たってみるか)
朔はゆっくりと腰を上げると、
まだ食べかけのサンドイッチを口に放り込みながら、体育館へと歩き出した。
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キュッ、キュッ、キュッ——
体育館の床と靴が擦れる音が響く中、朔はまっすぐ体育館の隅へ向かった。
スポーツドリンクのボトルを傾けていたのは、水森 磨人だった。
ハンドボール部の練習は熱気に包まれ、ゴールが決まるたびに歓声が上がる。
その喧騒の中で、朔に注目する者はいなかった。
「水森、少しいいか」
朔の無機質な声が、わずかに空気を切った。
磨人が振り返る。目は笑っていなかった。
「その話し方、朔か。何か用?」
朔は一歩近づくと、まっすぐに問う。
「堺のことだ。七月二十二日、あの日……練習はあったのか?」
一瞬——ほんのわずか、磨人の視線が揺れた。
だがすぐに、いつも通りの口調に戻る。
「ああ。あったよ、練習は。……まあ、いつも通り」
「そこに堺はいた?」
間髪入れず、朔はさらに聞く。
磨人は少し顎を引いて、視線を宙に泳がせたあと、短く答えた。
「いたよ。でも、途中で帰った。“用事ができた”ってさ」
その言葉を最後に、磨人は立ち上がった。
もうこれ以上話す気はない、というように。
「じゃ、そろそろ練習に戻るわ。大会近いしな」
「……そうか。ありがとう」
朔は軽く会釈し、踵を返した。
そのとき——
「磨人副部長! 練習の準備できました!」
体育館の向こうから、1年生の声が飛んできた。
朔の足が、わずかに止まった。
(副部長……)
再び歩き出しながら、朔の頭の中でいくつかのピースが音を立てて動き始めた。
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朔はたったこれだけのピースで革新に迫っていた。
(これまでの状況を整理しよう)
まず、これは間違いなく外部者からの殺害ではなく、関係者によるものだ。
部外者が堺を殺す理由はあるか? ——可能性はゼロではない。
だが、わざわざハンドボール部の練習がある日を狙い、彼が帰宅する時間まで把握し、その上で自宅に侵入して殺す。
そこまでの執着と綿密な計画を、ただの通り魔や恨みのない者がやるだろうか?
(しかも、刃物は現場に残っていた。計画性があるようでいて、どこか稚拙だ)
仮にプロの犯行なら、もっと証拠を残さないやり方をする。
だが現場には凶器が残され、死亡推定時刻も隠されていなかった。
そこには“感情”が混じっている。
怒りか、焦りか、あるいは恐れか。
——つまり、これは個人的な動機による犯行だ。
そしてなにより、“堺が部活を途中で抜けていた”という事実。
磨人は言った「用事がある」ではなく「用事ができた」と、つまり、はじめから用事はなかったが、今日急に用事ができたということ。
犯人は堺が練習を抜けることを知っていた、あるいは——そうさせた。
それが可能なのは、学校関係者しかいない。
(教師、生徒、あるいは——)
朔は、思考の中に一人の名前を浮かべかけて、首を振った。
まだ早い。決めつけは推理を鈍らせる。
(……次は、堺がその日、誰と会っていたのかを調べる)
視線を横にやると、グラウンドの向こうに校舎の影が伸びていた。
まるで、犯人の影が自分をじっと見つめているような、そんな錯覚。
朔は、握りしめていたサンドイッチの包装を静かに丸め、立ち上がった。
”学校関係者が犯人”この推理が頭の中でこだました。
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