第2話 葛藤
翌朝、冷たい空気のなかで暁は命令を受けた。
「捕虜から、村の兵站(へいたん)情報を引き出せ」
対象は昨日の清国兵――ジャン・ミンだった。
暁は天幕の隅で彼と向き合った。彼の頬に赤い痕がある。誰かが殴ったのだろう。縄で縛られた手はわずかに痙攣していた。
「昨日、あなたは私に問いかけたな。なぜ通訳をするのかと」
ジャンはゆっくり頷いた。
「答えは見つかったのか?」
暁は沈黙したまま、渡された紙を見た。尋問事項が並ぶ。
「この先に軍需物資はあるか」「兵の数はどれくらいか」
暁は紙を見つめ、やがて訳し始めた。質問は形式通りだったが、言葉が口を出るたび、心が軋むのを感じた。
それは、ただの言葉ではない。相手を追い詰めるための刃だった。
「私は知らない」
ジャン・ミンは答えた。
「いや、知っているはずだ。君の村のすぐ近くだ」
暁がそう言うと、彼は目を細めた。
「君は命令でそう言っているのか? それとも、それが“正しい”と思っているのか?」
その問いが、暁の胸に深く刺さった。
彼は通訳だ。命令を伝えるだけの存在。だが、その声に、自分の意思は混ざっていないだろうか?
自分の口を通じて、誰かの命が軽くなる――その事実に、もう目を背けられなかった。
その日の夕方、軍は一つの村を占領した。略奪を恐れた住民たちは山へ逃げたが、一人の少女が取り残されていた。
すすけた布をまとい、小さな壺を抱えたまま震えていた。
「通訳、来い!」
坂井中尉が叫んだ。少女が何かを叫んでいる。中国語だった。
暁が駆け寄ると、少女は必死に言った。
「壺の中には水しかありません! お願い、壊さないで……」
中尉が剣を抜いた。「油かもしれん。兵器だ」
暁は間に入った。
「待ってください。彼女の言葉は――本当です。これはただの水です」
「確認する。壺を割れ」
暁は言葉を失った。少女は泣き叫ぶ。
その光景は、もはや言語の問題ではなかった。
彼は、軍に属する“通訳”として立つのか。
それとも、“人間”として、目の前の少女を守るのか。
その問いが、彼の中に、重く、静かに沈んでいった。
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