第3話 選択

壺は、割られなかった。


あのとき暁が身を挺して中尉の前に立ったことで、坂井は一瞬ためらい、剣を収めた。「お前の顔を立てたんだ」とだけ告げて去っていった。


少女――名をアイランと言った――は、両手で壺を抱きしめ、黙って涙をこぼしていた。暁はその横でただ立ち尽くし、喉の奥が焼けるような思いにとらわれていた。


その夜、軍の一角に避難民が集められた。アイランもその中にいた。兵士たちは彼らを「掃除する」と呟いていた。

暁は、意味を悟った。


翌朝、命令が下った。

「避難民の村は、敵軍の補給地の疑いあり。制圧後、痕跡を残すな」


痕跡を残すな――それは、破壊せよという意味だった。


暁は中尉のもとへ向かった。


「その中に、民間人もいます。昨日の少女も含まれているはずです。確認の時間をください」


「無理だ。これは軍の判断だ。お前に命令する権限はない」


「それでも、彼らは……」


「黙れ、暁。お前は通訳だ。軍人ではない」


坂井の声が冷たくなった。


「越権だぞ」


暁は唇を噛み、視線を落とした。その場を下がるしかなかった。


だが、その夜、暁は密かに行動した。

軍の監視をかいくぐり、避難民の一団へと向かったのだ。


「行こう。ここにいては危ない」


そう中国語で囁いたとき、アイランは彼を見上げた。その目には、もはや怯えはなかった。ただ、強く、生きようとする光があった。


暁は彼女たちを村の外れに導き、近くの林へ逃した。

命令違反だった。軍律に照らせば、処罰されてもおかしくない。


戻った彼を、坂井中尉は何も言わずに見た。

その目にあったのは、怒りか、失望か、それとも理解か――わからなかった。


数日後、戦線が移動するなか、ジャン・ミンが処刑されたことを知らされた。


「情報を吐かなかった。無駄な誇りだったな」と兵士は言った。


暁は何も返せなかった。言葉に、もう意味を感じなかった。


数年後、戦争は終わった。

だが、暁はその後も、自分の選択を問い続けた。


正義とは、命令に従うことだったのか。

それとも、命を救おうとしたあの瞬間だったのか。


答えは出なかった。


だが、今も胸に残っているのは、

あのとき壺を抱きしめた少女の手のぬくもりと、

詩を手渡してきた少年兵の澄んだ声だけだった。


[完]

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言葉は銃よりも重く 蒸気研究所 @rabomem

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