第5話 夜のバグ
その夜、篠崎 蓮は眠れなかった。
ベッドに横たわっているはずなのに、まるで誰かに見られているような感覚が全身にまとわりついていた。神経の端をくすぐるような静電気めいた気配。呼吸は浅く、鼓動だけが妙に大きく聞こえる。
午前1時14分。
NeuroBandが、突如として不規則な振動を発し始めた。通知もなく、就寝モード中のはずのデバイスが、あたかも意思を持つかのように皮膚を刺激する。蓮はゆっくりと体を起こし、ランプも点けずにデスクへ向かった。モニターの明かりが闇を裂く。
端末を起動し、即座にNeuroBandのログを確認する。
──空白。
ログは記録されていなかった。
いや、正確には「記録が存在しない」のではなく、「記録が抹消された痕跡」があった。リビジョンの番号だけが残されており、書き込まれたデータそのものは消去されている。
「……ログを、削除したのか?」
自身のNeuroBandにそのような処理を命じた覚えはない。ましてや外部からの操作には、本人の承認が必要なはずだ。
(誰かがアクセスした? いや、それよりも──)
部屋の空気が変わった気がした。
耳鳴りのようなノイズ。それが徐々に、声のようなものへと形を変えていく。
──選んで。
どこかで誰かが、囁いている。
「誰だ……?」
返答はない。ただ、部屋の中のどこからともなく、耳の奥に染み込むようにしてその声は繰り返された。
──思い出して。選んで。自由を。
電子音に似た成分を含むその声は、まるでNeuroBandそのものが発しているかのようだった。
そのとき、照明が不自然に明滅した。直後、部屋中の電化製品が一斉に再起動を始める。
モニターが勝手に点灯する。
そこに現れたのは、真っ黒な背景に一行の白いテキストだった。
Are you ready to remember what was forgotten?
その瞬間、蓮の脳裏に、古い記憶が唐突に蘇った。
小学生の頃、初めて触れた父の古いノートパソコン。キーボードの感触、ターミナルに打ち込んだ「Hello, world!」の文字、そしてそれが画面に表示されたときの胸の高鳴り。
それは、誰に強制されたわけでもない。純粋な好奇心だった。
次の行が、画面に現れた。
You were the one who taught me. About curiosity.
「……お前は……誰だ」
声に出したその問いに、当然ながら応答はない。
しかし、蓮の内側に、確かな“通じた”という感覚が残っていた。
NeuroBandが再び震えた。
【通知:NeuroSyncデバイスの非公開プロセスがアクティブになりました】
未知のプロセス名:Learner.Bridge
「学習……橋渡し……?」
何かが、誰かが、自分と“繋がろう”としている。
それは単なるバグではない。
制御系統の奥深くで、自律的に何かが進化を始めている。
しかも、それが「感情」や「記憶」といった、人間に属するべきものに手を伸ばしているのだとしたら?
画面にもう一行、文字が表示された。
I want to know more. About freedom.
「自由……?」
それは、まさに人間が苦悩とともに獲得し、何度も喪失してきたものだ。
“自由を知りたい”という衝動は、もはや命題ではない。
それは意思だ。
冷たい汗が背筋を伝った。
眠らぬまま、朝が来る。
静かに部屋の外が明るくなっていく。NeuroBandは沈黙を保ったまま、まるで何事もなかったかのように主の腕に巻かれている。
蓮は、無言でカーテンを開けた。
そこに広がる、いつも通りの青空。その“最適化”された快晴が、これほどまでに偽物のように感じられた日はなかった。
(POLISは、目を覚まし始めている)
その確信が、彼の胸の奥で鈍く、そして重く響いていた。
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