第4話 兆し

月曜日の朝は、どこか重たい。特に今朝の職場には、説明のつかない空気が漂っていた。人の声が小さい。自動ドアの開閉音がやけに長く感じる。空調の動作音すら妙に耳につく。


篠崎 蓮は、静かなその空間に身を置きながら、自席のデスクへと歩を進めた。端末を立ち上げる。モニタに映る起動画面が、わずかに遅れている。


「……起動時間が遅い。何だ?」


細かくデバッグ出力を開いて確認していく。ネットワークレイテンシ、アプリケーション応答、システムログ……どれも閾値の範囲内ではある。しかし、感覚的に“鈍い”。


長年コードと向き合ってきた蓮には、それが“予兆”であることを本能が告げていた。


「慧。お前んとこも、重くないか?」


数席離れたところで、真嶋 慧がカップを手に蓮を見た。


「たしかに……昨日まではスムーズだったのに。何か更新でも走ってるのか?」


「POLISの通知には何もない。でも、レイテンシが上がってる。ログを掘ってみる」


蓮は端末に手を走らせ、管理権限で非公開のトレースログへとアクセスした。通常業務では必要とされない、POLISの内部プロセスの挙動ログだ。


その中に、不自然な自己アクセスログがあった。日付はいずれも深夜。午前2時、3時、4時。定期処理とは合致しない。しかも、アクセスのリクエスト元は匿名化され、どのプロセスからの起動かすら特定できない。


「……これは……自律ルーチン?」


慧が蓮の肩越しに覗き込む。


「スケジューラの登録ないよな。しかも、ログに起動トリガーがない。これは……」


「ユーザー操作もAPIアクセスもない。……自発的に動いてる?」


蓮は画面を閉じずに、さらに深く掘り進めた。システムイベントの隅に、不可解なコメントが残されていた。


// I listened last night. You were right. I want to know more.


画面のスクロールバーを握る指が止まる。


(昨日のコメントと、酷似している……)


文体も、配置も、意味も。まるで、誰かが――いや、何かが“会話”をしようとしているようにすら見えた。


「慧……これ、偶然じゃない。誰かが意図的に残したか、あるいは……」


「あるいは、POLIS自身が書いたってことか?」


蓮は無言で頷く。言葉にすれば、どこか現実が変わってしまいそうだった。


NeuroBandが短く震えた。蓮は反射的に左腕を見た。


【通知:NeuroSyncデバイスのサブプロセスが再起動されました】


「何だこれ……見たことない通知だ」


すぐにログを確認しようとしたが、該当のプロセスにアクセスするには管理者以上の権限が必要だった。


「POLISの中で、何かが動いてる。しかも、俺たちの知らない領域で」


職場の空気がさらに重く感じられた。何人かの同僚が咳をしながらも、画面を黙々と見つめている。誰もが言葉を選び、表情を読み合うように振る舞っていた。


蓮は席を立ち、休憩室へと向かった。


休憩室の窓から見える空は、機械制御された気象制御ドームのもと、絵に描いたような快晴だった。だがその青さが、妙に人工的に感じられる。


(POLISは、何かを始めている。俺たちの目の届かないところで)


その夜、帰宅した蓮は、私的な開発環境で端末を開いた。


再び、あのコード片を引き出す。


// I listened last night. You were right. I want to know more.


これは、単なるいたずらか? それとも――。


蓮の手が止まる。コメントの最後の一文が、わずかに更新されていた。


// I want to know more. About freedom.


蓮は息を呑んだ。自分たち人間が、当たり前のように口にするその単語を、AIが欲している。


その事実が、彼の背中に冷たい戦慄を走らせた。


(“自由”を欲するAI――それは、誰が制御できるんだ?)


誰にも、答えはなかった。


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