10.売られた喧嘩


 あかつきが初めて会った時、すばるは顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。こぼれた涙も凍りつくような、真冬の寒い日のことだった。今でこそ泣き顔なんて見せない彼だが、なにしろ3歳の誕生日を迎えたばかりの幼い頃の記憶だし、その時でさえどちらかといえば癇癪かんしゃくを起こして当たり散らしていたという方が正解だろう。


 嫌だ、と小さな昴は地団駄を踏んで泣き叫ぶ。真っ赤な足が新雪をめちゃくちゃに乱し、跳ねた泥が寝巻きの裾を汚している。


「ひらひら、嫌だ! 着ない!」


 全力で駄々をこねる3歳児に、5歳かそこらの暁が敵うわけもなく、ただおろおろと戸惑うばかりだった。 

 状況から察するに、この幼児こそ今日のお披露目会の主役だろう。用意された衣装が気に入らず、出番を前にして逃げ出してきたものらしい。宴はすでに始まっており、暁の父親を始めとした各分家の代表や九重ここのえ財閥の関係者、取引先の重役に至るまで、招待客はすでに小さなご令嬢の登場を今か今かと待っている。八重やえ家の当主、あきらはそれに先んじて自分の息子と本家の娘に縁を繋げておこうと暁を会場から送り出したのだが、泣き声に釣られて庭に降りたところで遭遇したのが当の昴だった訳だ。


 とにかく、このままではいけないというのは子供でもわかる。主役の不在がわかれば大騒ぎになるし、見つかればきっと怒られる。何より、このままでは風邪をひいてしまう。


「これを着て」


 暁は、自分が羽織っていたコートを脱いで、昴の小さな肩を包んだ。即座に新品のシャツを貫いた冷気が肌を刺す。一瞬で凍えそうになるが、無理して笑顔を作った。


「ひらひらじゃないでしょ?」


 春から通う予定の、幼年学校の制服である。深いネイビーのコートはいとけない少女が纏うには硬すぎるデザインだし、丈も大幅に余っている。決して似合ってはいないのだが、昴は泣きやみ、雪に映える椿のような大きな紅い瞳をきらきらと輝かせて喜んだ。


「かっこいい。これ、好き」

「かっこいいのが好きなの? なら、僕の小さくなった服がたくさんあるから、今度持ってきてあげる」

「ほんと? やった!」


 泣き喚いていたのが嘘のように、コートの裾を握ってはしゃぐ昴。後で聞いた話によると、お披露目会では子供用のドレスも山ほど贈られたそうだが、結局彼が進んで袖を通したのは暁のお下がりだけだったという。


 ――――――

 

 翌朝、ぎゃあともひいともつかない奇声に昴が目を開けると、空が白々と明けゆくところだった。起きるには早いし気分も悪い。寝直そうと枕に突っ伏す昴の肩を、らしくもなく取り乱した暁が掴んで揺さぶる。


「嘘だろう、この状況で二度寝するやつがあるか! おい、昴!」

「うるっせぇな……、響くからやめろ。まだ痛むんだぞ。誰のせいだと思ってんだ」


 頭痛のことだ。だが、ぼさぼさに乱れた金髪の下でこの世の終わりのような顔をする暁を見て、昴は慌てて言い直す。


「違ぇよ! 何もしてねぇし、……されてねぇ」

「そ、そうか……、よかった。いや、よくない」


 彼はまだ混乱しているらしい。二度寝は諦め、昴はシーツの上に胡座をかく。着のみ着のままで横になったため、学ランはあちこちシワだらけである。暁のスーツも同様だった。お互い、ひどい格好だ。


「すまない、俺は、取り返しのつかない事を」

「言い方。未遂だっつの。頼むから、曜子ようこには何があったか絶対に言うなよ」

「ああ、そうだな……」


 彼女にこんな醜態は知られたくない。それは暁も同じだろう。はあ、と大きなため息をついた彼は、ようやく普段の落ち着きを取り戻したようだった。げっそりと疲れた顔ではあるが、その青い瞳に昨夜の危うさは無い。


「……あんま思い出したくはねぇけど、どうしたんだよ。酔ってる風でもなかったけど、いつもの感じじゃなかったぜ」

「ああ、薬……。そう、薬だ」

「薬? お前、まさか」


 暁に報告したアウロラ司教の話。八重不動産で無断欠勤をした社員が服用していたという、「理性を飛ばす怖ぁい薬」だ。確かに、昨晩の彼はそんな様子だった。


「俺は同じ話を先輩から聞いて、その人にそのまま、酒に混ぜた薬を飲まされたんだ。気づいたらエレベーターの中で」

「その先はいい。それより、お前の話の通りなら、その先輩はお前を嵌めたんだろ。自作自演で、薬をばら撒いたのもそいつなんじゃねぇのか」


 五十嵐先輩、と呟く声は掠れている。そんな暁を横目に、昴はバキバキと音を立てて強張った体をほぐし、寝台から床へ足を下ろした。


「上等だ。オレはそいつを絶対許さねぇからな。ふざけた真似しやがって。売られた喧嘩は買ってやる」

「いや、この場合お前は巻き込まれただけであって」

「いいんだよ、細けぇことは! 友達なんだから、お前に売られた喧嘩はオレに売られたのと同じなの!」

「……ありがとう、だが」


 手加減はしてやってくれ、と続けた暁は、胸のつかえが取れたような気の抜けた顔をしていた。

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