11.作戦


 息巻くすばるだったが、その後の事態に大した進展は見られなかった。五十嵐達海たつみという社員は、あかつきをバーへ誘ったその日にはすでに、内々に解雇されていたらしい。借りていた部屋ももぬけの殻だったそうだ。部下の無断欠勤を巡るやりとりが社長の逆鱗に触れ、帝都にいられなくなったのだろうと、八重やえ不動産では噂になっていた。


「例の薬についてだが……、報告書にはそれらしい記述がまるで無い」


 五十嵐が抜けた分余計に忙しくなった暁は、仕事をさばく傍ら社員の無断欠勤騒ぎの書類を読み返していたらしい。テーブルに置いた曜子ようこの携帯端末からは彼の困惑した声と共に、パラパラと書類をめくる音やペンを走らせる音が聞こえる。週末休み返上で出勤しているようだ。


「うちの報告書はおろか、医師の診断書にも出てこない。ここまで徹底していると、五十嵐先輩に騙されたんじゃないかという気がしてくるな」

「そんなはずはないよ。部屋に散らばってたってのは嘘かもしれないけど、無断欠勤していた社員さんの手に渡っていたのは本当だと思う。時雨しぐれさんが聞いてるんだもの」

「ああ……、そうか」


 六角ろっかく時雨か、とどこか考え込むような声に曜子が唇を尖らせる。あの夜の件については伏せたが、それ以外の情報はすでに彼女とも共有済みである。


「時雨さんがこの話を知っていたのは偶然でしょ。私たちに嘘を言う理由はないよ」

「さあ、どうだか。お前の気を引きたかっただけかもしれないぜ?」

「昴は黙ってて!」


 はいはい、と議論から追い出されてしまった昴は、テーブルから真っ赤なすももを手に取り、齧り付く。まだ時期ではないはずだが、滴る果汁は驚くほどに甘い。


「……うっま。何これ」

「あ、ちょっと、もったいない食べ方しないでよ。いいやつなんだから」

「じゃあ置いとくなよ、こんなところに」

「綺麗な色だから一個飾っておいたの!」


 ぺろりとすももを平らげた昴が残った種を口の中で転がしていると、銀のお盆を抱えた女中が現れ、小皿を差し出した。


「こちら、お使いくださいませ。……申し訳ございません、お嬢様。少し遅かったようですね」

「さやかさんは悪くないでしょ、昴がせっかちなんだよ。ありがとう。お父様は食べてくれた?」

「ええ、大変お喜びでした。ありがとうございます、暁様」


 切り分けられたすももの皿を置いて、女中は下がる。キラキラと輝く果実にフォークを刺し、頬張った瞬間、曜子の表情がとろけるような笑顔に変わる。


「すっごい美味しい……」

「だろ? これ、暁が持ってきたのか?」

「いいや、そちらへ行けない代わりに届けさせた。皇室御用達の高級品種だそうだぞ。五十嵐先輩の母君からいただいてな」


 さらっと付け加えられた情報に昴は目を剥く。曜子も怪訝そうな顔で、二つ目のすももを刺したまま、フォークを持つ手を止めた。


「お前なぁ、口に入れるものには気をつけろって言ったの誰だよ。何か仕込まれてたらどうすんだ」

「果物だぞ、流石にそんなことはないだろう。お前だって今、何の疑いもなく食べたじゃないか」

「曜子や暁の用意してくれたもんを疑わないのと、ヤバい薬を持ってるやつの身内からもらったもんを疑わないのは全然違うだろうが」

「うーん、私もそこは昴に賛成だけど……、経緯を聞いて良い? 暁だって、大丈夫と思ったからうちにくれたんでしょ?」


 携帯の向こうで、かちゃりと食器の触れ合う音がする。もしかすると、暁自身もこの瑞々しい甘さを糧に、仕事に励んでいたのかもしれない。


「嘘をつくような方には見えなかったが……。もらってすぐにひとつ食べたが、何も無かったし」

「食うなってば」

「五十嵐先輩の母君は迷惑をかけたお詫びだと言って、はるばる南部から駆けつけてくれたんだぞ。そんな方がわざわざ俺を騙してどうする」

「それが嘘だって可能性もあるだろ。母親もグルかもしれねぇし、息子に騙されてる可能性だってあるじゃねぇか」

「結果的に大丈夫だったからいいけど……。いや、素直に人を信じられるのは暁の美点だと思うよ? けどちょっと心配になっちゃうなぁ。大丈夫? 幸運になる壺とか買ってないよね?」

「曜子まで……」


 流石に彼も反論しようとしたらしいが、何か思うところがあったのか、すまない、と結局返ってきた声は小さかった。


「えっ、買っちゃった……?」

「違う。軽率だった。すまなかった」

 

 五十嵐家は帝国南部で代々農薬や肥料の研究をしている地方貴族の分家で、所有する農園は小規模ながら、優れた果物を生産していた。息子の不始末のお詫びにと持参されたすももも、地道な研究と努力の末に生み出された品種だそうだ。

 そんな一家に長男として生を受けた達海は、ある大事な実験結果を捏造した疑いを持たれ、結果地元での信頼と居場所を瞬く間に失った。知らない土地で一からやり直す、と帝都へ出て行った彼が天下の九重ここのえ財閥グループ企業の社長を激怒させて失職したと聞き、母親は大慌てで謝罪に来たのだという。


「親バカ……、って言っちゃ悪いか」

「そうだな、母君が怯えるのも無理はない。受付の担当者が俺に知らせてくれて良かった。社長に会わせていたら大惨事になっていただろうな」


 しかし、五十嵐本人は地元にも戻っておらず、母親ですら行方を知らないのだそうだ。


「……ねぇ、もう、私たちでなんとかできる範囲を越えてない?」


 フォークを置いた曜子がぽつりと呟く。


「最初に放っとけないって言ったのは私だけど、危なそうな薬とか、行方不明の人とか、それってもう本当に本物の事件じゃない。そろそろ、あとは帝国警軍に話してちゃんと捜査してもらった方がよくないかな」

「曜子の気持ちはわかるが……、もう少し待ってもらえないか」

「……隠してるの、よくないよ」

「すまない。責任は俺が持つ。七重ななえ家に、いや、九重財閥の名に傷をつけるような事態にはしないと約束する」


 声をひそめて続ける暁。


「今、警軍に目をつけられたら、五十嵐先輩は二度とやり直せなくなってしまう」


 この期に及んで彼は、自分を陥れようとした相手のために心を砕こうとしている。

 

「お人好しにもほどがあんだろ……」


 はぁ、と昴は大きくため息をついた。暁らしいと言えばその通りなのだが。


「しょうがねぇな、それじゃ警軍に嗅ぎつけられる前になんとかケリつけようぜ。曜子、なんか作戦あるか?」

「すまない」

「いいよ。でも、本当にこれで最後だよ? 全部綺麗に終わったら、暁は私と昴を遊びに連れてってね」

「……わかった、なんとか休暇を取る」

「丸一日だぞ! 半日じゃ足りねぇからな」


 暁の証言から五十嵐達海の人物像を割り出し、曜子の技術と知識を駆使して罠を張る。昴の出番は獲物がかかってからである。

 さあ。

 覚悟してもらおうか。

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