9.理性


「まっず、何これ」


 とても飲めたものではない。あかつきが手ずから淹れてくれたコーヒーを、すばるは向かいに座る彼に押し返す。


「おかしいな、粉を熱湯に溶かせばコーヒーができると聞いたんだが」

「んな訳ねぇだろ。曜子ようこのとこでは専用の豆を煎って砕いて粉にして、結構手間かけてるって言ってたぜ」

「粉だろう、あってるぞ。その後は?」

「そりゃ知らねぇけど、なんか違うんじゃね? だって溶けてねぇじゃん、これ。ジャリジャリするし」

「文句ばかりだが、お前がコーヒーが良いと言ったんだぞ。……できないと言わなかった俺も悪いとは思うが」

「これはコーヒーじゃねぇっての……。無茶言って悪かったよ、オレにも水くれ」


 不服そうな暁からボトルの水を新しいグラスに分けてもらい、口の中に残る異物と苦味を押し流す。はぁ、とため息をついて、昴は改めて部屋とその主人を眺めた。

 ふかふかのソファや色ガラスの美しいランプは、彼が紹介してくれた喫茶店ともよく似ている。静謐せいひつで穏やかな空間は暁自身の人柄を表しているようで、ざわついた心を落ち着かせるにはもってこいの隠れ家だ。美味しいコーヒーさえあれば完璧だったのに、残念でならない。 


 八重やえ家の現当主あきらはその苛烈な性格で社交界にも悪名を轟かせているほどで、心労が祟った最初の妻と死別した後、彼との生活に耐えられる相手が見つからなかったのだという。跡取りを得るため、彼はたまたま目に留まった踊り子を金の力で一座から引き離し、屋敷に閉じ込めて妻とした。そうして産まれたのが暁だった。一際目を惹く彼の容姿は、美しい母とよく似ていたそうだ。


 そこまでして得た後継だというのに、晶は容赦無かった。慣れた、と諦め混じりに笑ってみせる暁だったが、当主の癇癪かんしゃくが酷い時は、やはりどうしようもなく疲れるらしい。この場所は、そういう時のための避難所なのだという。

 昴が暁に勉強を見てもらっていたのもこの部屋だ。帝大へ入学が叶った後も、合鍵は持ったままで良いと言われていたため、七重ななえ家に足が向かない日は立ち寄らせてもらっている。


 秒針の時を刻む音だけがかすかに響く。


「まあ、残念ながらこの通り何のもてなしもできないが、ゆっくりしていくと良い。隣は前に掃除していったから、使えると思うぞ」

「泊まってくほどじゃねぇよ。それじゃお前が困るだろ」

「俺はいいさ。お前が落ち着いたら帰るよ。……ああ、せっかくだ、例の曜子の知り合いとは会ったんだろう? 何か聞けたか?」

「ああ……」


 いろいろあって、すっかり忘れていた。確かに、暁が今最も欲しがっているのはその情報だろう。ここで顔を合わせたということはお互い疲労が溜まっているはずだが、多忙な彼とまたすぐ会える保証もない。胡散臭い司教から聞いた話を伝えると、形の良い眉の間に深い皺が寄った。


「アウロラ教会か。その司教の名は?」

「え、あー、……なんだっけ」

「……おい」

「違ぇよ、コクエンじゃなくてブラックフレイムだとか変なこと言うから、本名の方が出てこなくなっちまったんだよ。後で曜子に聞いてくれ」

「……わかった、そうしよう。曜子のことだ、今頃はネットで他の情報も仕入れてくれているかもしれないな。……しかし」


 薬か、と呟く暁。


「帝大の、……確か3年に、一宮の跡取りがいただろう。一宮家は代々、皇家専属の医師を輩出してきた貴族だ。何か聞けないか?」

「えぇ、オレやだよ、あいつに頼み事すんの」


 勝ち誇ったゴリラの顔が目に浮かぶ。いくら暁のためとはいえ、あんなのに借りを作るのはしゃくである。


「顔見知りか?」

「こないだ、喧嘩売ってきたバカがそうだよ。未だにオレのこと目の敵にしやがる。……いい加減嫌になるぜ」


 ふぁ、と漏れる欠伸を噛み殺しながら、昴は答える。壁に掛かった時計の針は、すでに深夜を回っていた。


「……昴」


 暁は、空になった水のボトルをとん、とテーブルに置くと、立ち上がっていつものように昴へ手を差し伸べた。


「やはり休んでいくと良い。疲れているんだろう」

「……そうだな、そうさせて」


 その手のひらを握ろうと腰を上げた昴は、ぐらりとバランスを崩した。頭が重い。思考が煙る。体を支えようとする意志とは裏腹に、手足にはまるで力が入らなかった。酷く、眠い。


 無様に床へ落ちた昴を、暁は無言のまま抱き起こして隣室へ運び、寝台へ横たえる。端正な顔が目の前に迫ったと思うと、次の瞬間には躊躇いもなく唇が奪われていた。


「ちょ、お前、何して……」


 払いのけようとするも、うまく動かない両手は逆に捉えられ、抵抗すら封じられてしまう。乱雑にネクタイを緩めながらこちらを見下ろす青い瞳に、理性は欠片も残っていなかった。熱を帯びた視線に射抜かれ、昴の背筋がぞくりと粟立つ。


「バカはお前だ、昴。こんな時間に、男と二人きりで、せめて口に入れるものくらいは警戒しろ」

「嘘……、だろ?」


 その言葉で、不自然な眠気の正体を知る。コーヒーの中に何か一服盛られていたのだろう。しかし、なぜ。


「嘘じゃないさ。お前は俺を友人だと思っていたんだろうが、俺は違う。俺は、お前の隣で、ずっとこの気持ちを押さえつけて……。だがもう、今は」


 どうでもいい、と耳元で、暁の声が囁く。吐息が首筋をくすぐり、昴は口からこぼれそうになる悲鳴を必死で堪えた。

 ますます混乱するこちらに構わず、暁の左手が学生服のボタンを外した。カッターシャツの裾から滑り込んだ指が昴の腹を撫でていく。

 

「おい……、どうでもいいじゃねぇよ、放せバカ! こんなの、オレは許さない! 絶交するぞ!」


 苦し紛れに出た言葉が届いたのかはわからない。しかし、暁は一瞬目を見開き、わずかに拘束が緩んだその隙をついて、昴は彼の額に思い切り頭突きを叩き込む。ぐわん、とこちらも気が遠くなるくらい、渾身の一撃だった。

 呻き声を漏らした暁が、昴に覆い被さるような形で倒れる。慌てて押し退けると、彼は目を回していた。


「……なんなんだよ、ったく」


 頭突きの反動が決め手となったのか、昴もここが限界だった。もう無理、と呟いて暁の隣に転がると、襲いくる猛烈な睡魔に身を任せ、昴は深い眠りに落ちた。

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