二章 友人の仮面

第5話 友人の仮面.1

「綺羅星君」


 数字との睨めっこを終え、一息吐こうと会社のバルコニーに出ていた私の名前を呼んだのは、誰あろう、花島会長であった。


 「あぁ、会長」


 白いテーブルの上に置いていたブラックコーヒーを手に立ち上がろうとしたところ、花島会長がそれを制した。彼はそのまま私の反対側の席に腰を下ろし、精悍な面持ちに皺を刻んで笑った。


 「あの子、きちんと仕事を続けられているそうじゃないか」


 あの子というのが、千花のことであることを瞬時に理解した私は、恭しく頭を下げつつ、「まだ一カ月ほどですが、そのようですね」と返す。


 「よくやった、綺羅星君。君のおかげだ」


 私はなんとなく想像していた言葉を受けて、急に鼻白んだ。


 どうしてこうも、人は見るべきところを見ないのだろうか。私一人が努力して解決するような事態なら、そもそも、もっと早く解決したに決まっているだろうに。


 「いえ、そんな…千花さんが頑張ってくれたのです」


 私の解答を謙遜と捉えたらしい花島会長は、おおげさに首を横に振って続ける。


 「おいおい、謙遜することはない。藤光会長も大喜びだったぞ。『どんな魔法を使ったか分からんが、これで薄弱で気弱な孫のために世間体を繕う必要もなくなるだろう』とな」


 薄弱で気弱な孫、世間体…魔法…。


 私はその言葉を聞いた途端、ぐわっ、と胸の奥からせせり上がってくる感情に瞬く間に支配されてしまった。


 「魔法なんて、永遠よりも空虚な言葉です」


 「なに?」


 私は鋭い目つきで花島会長を一瞥すると、淡々と続ける。


 「会長。本当に私はたいしたことはしていません」


 「綺羅星君、行き過ぎた謙遜は――」


 「ですから」


 酷く冷たい調子で花島会長の言葉を遮った私は、彼の瞳が思わぬことに丸く見開かれるのを見つめながら、ゆっくりと立ち上がり、立場の楔よりも大事なもののために真っすぐ彼と対峙する。


 「彼女が、千花さんが本当に頑張ったのです。私はただ、背中を押しただけ。本来、美しく咲き誇ることができた花に、与えられて然るべき水と、陽の光とを捧げた。元より、それをきちんと与えてくれる人が傍らにいたのであれば、事態はもっと早く好転していたでしょう」


 私は花島会長のわずかに黄ばんだ瞳を通して、千花の祖父を――千花ではなく、藤光家の世間体を気にした男を睨んだ。


 「千花さんを追いやったのは、誰でもない。彼女と向き合うべき立場にいながら、それをしなかった者たちです」


 普段は会長の言うことに二も三もなく従う私としては、珍しいことだった。だが、自分のポリシーを優先し、行動する私らしいとも言えた。


 花島会長は無言のまま口元を曲げ、胸ポケットから電子タバコを取り出すと、ここが禁煙であるにも関わらず、喫煙を始めた。


 「ふむ…」と花島会長は遠くの空を見つめた。その横顔には、青臭い態度を取った私への呆れとか、若かりし頃を懐かしむような感情が宿っているような気がした。


 「憤りが見える。意外と青いな、綺羅星君」


 「…自分でも、驚いています。ですが、ここで自分の心に嘘を吐き、愛想をふりまくようなプライドのない人間ではいたくない」


 「ふっ…」


 花島会長の視線の先には、白い雲を貫く鳥の群れがあった。春風に乗ってどこまでも行く姿に、私は自由を見たような気になる。


 「君の雇用主として、事実だけを述べよう。君のおかげで藤光会長に恩を売ることができた。N精工は、今後いっそう、我々の上客となることは間違いない。礼を言わせてくれ、ありがとう」


 「身に余るお言葉でございます」


 深く下げた頭を戻したとき、皮肉な笑みを浮かべた花島会長と目が合った。


 彼は足を組み直すと、大儀そうに私へこんな話を続けた。


 「しかしながら、自分の雇用主に対して愛想もふりまけんのは、出世できんぞと言っておこうか」


 「はい…分を弁えず、失礼致しました」


 間違ったことを言ったとは思っていないが、と心の中だけでぼやいていると、そのうち、また花島会長の表情が変わった。


 つい数秒前までは呆れを感じさせる面持ちだったが、今では、なんだろう、どこか父親みたいな顔立ちで私を見つめていた。


 「だが、自分の言葉でモノを言えんくなった奴ほどつまらん人間はおらん。そういう意味では、まぁ、面白い人だな、綺羅星君は」


 私は思わず、きょとんとした顔で花島会長を凝視してしまった。


 まさか、今、褒められたのか?決して従順な態度ではなかったと思うが…。


 それでも、愉快そうに口元を綻ばせた花島会長の顔からして、私の判断は間違っていないらしい。


 私はどういう顔をしたらいいのか分からずにいたが、ややあって、難しく考えずに自分らしく返すことに決めた。


 どうせ評価が下がるなら、先ほど感情を表に出した時点で下げられているのである。


 「身に余るお言葉ですね」


 こちらの皮肉を聞いて、花島会長は声を上げて笑った。


 私の上司を通して、花島会長から昇進の打診が届いたのは、その数日後のことだった。


 


 時刻は18時28分。待ち合わせ時間まで残すところ2分となった今、私はできるだけ大人の余裕が見られるように、赤いブックカバーの文庫本を片手に駅の柱へ寄りかかって人を待っていた。


 先ほどから、ちらほらと改札を抜けて人が下りてくるようになった。誰かが来るたびに文字と文字の隙間から顔を上げ、その都度、少し残念な気持ちになっている自分を『少女じゃあるまいし』と呆れている。


 心なしか、心拍数まで上がってきた。待ち合わせ前にこんなこと、久との初デートのときだって起きなかったのに…。


 (若い子とのデートなんて、今までなかったものね…緊張しているのかしら)


 そんなふうに心の中で自分にジョークをかます。そうすることで、少しだけ心が落ち着いた。


 ちなみに厳密に言えば、これは“デート”ではない。単なる食事だ。


 やがて、待ち合わせの相手が改札を通り抜けてきた。


 ちょこちょこと歩く姿は、びしっとしたスラックスやシャツに不似合いであどけなくはあったが、その着られている姿がなんともまたいじらしい。


 私はクールぶって、シニカルな微笑みと共に片手を挙げる。そうすれば、千花は少女然とした笑みを浮かべて手を小さく振って走り寄ってきた。


 「ゆっくりで構いませんよ」と告げれば、彼女は苦笑交じりで歩調を落とす。ペンギンみたいに歩くその姿は、もはや愛玩動物の域に到達しそうだ。


 「お久しぶりです、綺羅星さん」


 「ええ、お久しぶりです。千花さん。フォーマルな服装も似合っていますね」


 「あはは、ありがとうございます。まだ、着慣れないですけど」


 「ふふ、色々と聞きたいお話もありますが、早速行きましょうか」


 私たちは合流するや否や、どちらからともなく歩き出した。


 すでに今日の目的地は決まっている。今日は、互いの仕事終わりに近くのファミレスで夕食を共にする約束なのである。


 駅で待ち合わせした後は、ロータリーのほうへと歩いて抜け、そのまま五分ほど肩を並べる。その間、千花は仕事であった出来事を嬉々として語ってくれるのだが、それらのちょっとしたトラブルから、彼女の人生に新しい風を吹き込んでいることを察せられて、私はなんだか嬉しくなる。日陰でくすぶっていた花がようやく咲き始めたのだ。


 二人で選んだお店は、ファミレスにしては少し高めの場所だった。そこが千花の家に帰るのに一番都合が良かったこともあるが、初任給で食べる夕食を簡素なものにはしたくなかったのである。まぁ…お嬢様の千花からすれば、この程度、庶民の食事の範疇かもしれないが。


 席に着き、料理を選んで注文する。私はハンバーグ、彼女はサラダやデザート、小さなステーキであった。


 私は、一通り千花の仕事話を聴いた後、安堵の吐息と共にこう告げた。


 「…ふふ、上手くやれているみたいで、安心しました」


 社会という大海に送り出した身としては、少しばかり不安もあったが、彼女は期待通り上手くやってくれていた。


 「そう、なんですかねぇ…現実感、なくて。それに、ほら、仕事も少なくて、暇な時間があるんですよね…」


 「それは仕事を用意していない担当者に問題があります。まぁ…年度はじまりですし、お忙しいのは同じ社会人として理解はできますが…」


 「あー…でも、みなさん、本当に良い人たちばかりで安心してます。私が立ち上がったりするだけで、『どうしたの?』って聞かれるのは、なんだかおかしくって、もう笑っちゃいそうになりますけど」


 そう言って、千花は実際に笑った。


 職場は本当に理想的な場所を引くことができたらしい。日頃の行い、などというチープなことは言いたくないが、それを信じてもいいほどに千花は実直で、勤勉だった。


 そのうち、千花が運ばれてきたサラダを箸でつまみながら言う。


 「綺羅星さんの言ったとおり、なんとかできちゃいそうな気がしてます。私。まだ、心配ではありますけど」


 「まぁ、その意気です。千花さんもきちんと自分の力を把握できるようになってきましたね」


 「えっと…」


 不意に、千花が言い淀んだ。


 千花は黒目がちな瞳で私を一瞬だけ捉えると、さっと頬を朱に染め、作り笑いみたいな微笑みを浮かべて透明な水が入ったカップに触れる。


 「…綺羅星さんの、おかげです…よ?」


 透き通る液体が、千花の瑞々しい唇の奥へ消えていく最中、私は言葉を失って彼女を見つめていた。


 普段は非情に良いレスポンスで言葉を返す私が黙ってしまったことを不思議に思ったのだろう。千花は愛らしく小首を傾げてみせた。


 (…なんて、可愛らしいの…)


 こちらを見つめる千花の姿が可憐な花そのものだったから、私はしばらく時間を要した後、やっとの思いで呼吸を再開して言葉を発してみせた。


 「わ、私?ですか?」


 「はい」澱みない瞳で、千花が頷く。「綺羅星さんが、そばにいてくれるおかげです」


 「私、は…その――何もしていません。千花さんが前に進み出そうとしていたから、背中を押しただけで…」


 「それだけじゃないですよぅ。どんな話も聴いてくれて、一緒に考えてくれて、たくさん褒めてくれて……今だって、綺羅星さんがいてくれるから、何かあっても働いていけそうだなぁって、思うんです。綺羅星さんがいないと、私、ダメかもしれません…あ、た、頼りすぎですか?」


 私は――気がつけば、テーブルの下で固く左手を握り込んでいた。


 勘違いするな。千花は一人の人間として私を頼っている。


 特別な人間としてじゃない。勘違いするな…勘違いするな…。


 心の中で、繰り返しマントラのように呟きつつ、無敵を誇る微笑みの仮面を貼り付け、私は顔を上げる。


 「いいえ、そんなことは…」


 「え、え?なんですか、その感じ。私、変なこと言いましたか?」


 「いえ、その…」


 言えない。貴方に好意を寄せられているかもしれないと夢想してしまったなんて…口が裂けても。


 でも、私はどうしようもない人間なのだ。それを改めて気づかされたのは、適当に誤魔化そうとした矢先、千花の黒く煌めく銀河を覗き込んだ私の口が勝手に動いた後だった。


 「一人の大人として、千花さんにご忠告があります」


 「え?ちゅ、忠告ですか?」


 「はい」


 千花は少し不安な顔をした。しかし、相手が私ということもあってか、彼女は神妙に頷き、言葉の続きを大人しく待った。


 「――あまり、そういう可愛いことを言わないで下さい。いい大人のくせして、ドキドキしてしまいます」


 軽口好きな私のことを知ってか、千花はその発言を冗談だと受け止めたらしい。コロコロ笑って、私を見つめた。


 「えぇ、綺羅星さんにドキドキしてもらえるなんて、光栄ですね」


 「本気ですよ」


 思わずムッとして、私は真顔で答える。


 さしもの千花も私がふざけているわけではないと悟ったらしく、段々目を丸く見開いてから、視線を右往左往させた。


 やってしまった。


 こんなふうに、彼女を困らせたかったわけじゃないのに…。


 心の片隅では、そんなことを考えている自分もいた。だが、大部分を占めている私は、自分の気持ちがちゃんと伝わってほしいと祈る私だった。


 「千花さんには嘘を吐きたくないので、伝えておきます。私、バイセクシュアルなのです。しかも、メインの恋愛対象は女性であるタイプの」


 「え、あ…」


 言葉も無くした千花は吃音みたいな声を発すると、やや俯きがちになってしまった。私はそれを細やかな反省と共に眺めた後、どうしてこんなことをしてしまったのかと後悔した。折角、千花との新しい関係が始まったと思ったのに…。


 「すみません。困惑させてしまいましたね。でも、事実なのです。気持ち悪いかもしれませんが、そういう人間も世の中にはいます」


 私は善い大人のフリをすることで自分を慰めることに努めた。そうすれば、まだ取り返しのつかない状況に陥る前に戻れるかもしれない、と。


 「ですから、千花さん。同性が相手であるからといって、先ほどのような発言はそう易々とするものではありませんよ。いいですね?」


 千花は一瞬沈黙した。その間がまた私の背筋を冷やしたのだが、直後続いた言葉に私は眉をひそめることとなる。


 「……でも、あの、私、可愛く、ない、ですよ?」


 おそるおそる、といった感じで小首を傾げる千花に、私は正直に言って先ほどよりもムッとした。


 すでにその感じが可愛い。分かっていて、私を煽っているのか。


 ようやく冷静さを取り戻しかけたのに、また熱が心を支配する。


 「可愛いですよ。どう見ても」


 「あ、あはは…」


 未だ、私の真意を図り損ねているらしい千花は、曖昧な笑いの後、伺い見るみたいにこちらの表情を観察していた。


 きっと、善い大人として私がここでするべきことは、『もう、真に受けないで下さい。冗談ですよ』とでも言うことなのだろう。そうすれば、千花は安心したように笑い、今まで通りの私たちに戻れるはずだ。


 ――でも、私はその実、まともな大人ではないから。


 何も言わず、じっと千花を見つめる。


 気まずいのか、照れ臭いのか、何度も視線を右往左往させては私の瞳をちらりと覗き込む千花。私の行動で心が乱れていることすら、今の私には嬉しかった。


 「…綺羅星さん、既婚者、ですよね」


 「ええ。でもそれは、千花さんに魅力を覚えない理由にはなりません」


 千花は、しばしの沈黙の後に、「じゃあ、気をつけます」と呟いた。


 一歩、深入りしかけた私たちの関係はどうにかラインを越えずに済んだかのように思えた。しかし、本当はそうではないと、もう、この時点で大きくラインを割り始めたのだと気付いたのは、それから一週間後になってからであった。

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