第4話 はじまりの嘘.4
千花の就職計画、並びに、実際の就職活動について、結論から言おう。
千花は優秀だった。
立てた目標に対しては黙々と、最大効率で臨むから、実際の就職活動で必要となるだろう書類の作成はハイクオリティで瞬く間に仕上がったし、自分自身の傾向、症状を言語化するフェーズにおいても、私の力などほとんど借りずまとめてみせた。
とにかく、千花の言語面における強みは群を抜いていた。私もそれなりの自信を持っているが、彼女はそれを凌駕している。
文章力、比喩力、例示、言葉のチョイス…どれも高レベルだ。それに、少しばかり早口な私と違って、千花は淡々と話すから聞き取りやすく、これなら面接も問題ないだろうと思えた。
彼女の就職活動はおよそ一年半に渡って行われた。その中でも色々なことが起きたのだが、それは必要が出たときのみ後述することとする。なにせ、その長いようで短い時間のうちに私と千花との間で起こった出来事は、数えだしたら枚挙に暇がないのだ。後述するものも、特別な意味を持つことになるエピソードだけを記すつもりである。――とはいえ、私と彼女の間に、どうでもよいエピソードなど、あろうこともないのだが…。
とにかく今は、私と千花の関係がある種の終焉を迎えたときのことを話そう。
「おめでとう、千花さん」
私は選考結果を電話で受け取り、珍しくゴムボールみたいにはしゃいだ千花が多少の落ち着きを取り戻すのを見届けてから、彼女へ賞賛の言葉を贈った。
「よく頑張りましたね。体調も崩さず、素晴らしいことです」
千花は公的機関の障がい者雇用での就職を勝ち取っていた。公務員――という扱いになるのかはイマイチ理解できていなかったが、たいした問題でないことは直感的に理解していた。千花を受け入れてくれた担当者の様子、千花になされた説明からもその予想が的を射ているのは間違いなさそうだった。
「いくら千花さんでも分が悪いと思っていましたが……まぁ、さすがというか、何と言うか…。お見事です」
私も鼻が高いです、という言葉は飲み込む。この結果は、明らかに千花自身が勝ち取ったものだったからだ。
私がしたことと言えば、彼女が落ち込みから自分を取り戻すための思考法を伝授し、大きくブレた際に精神の闇の底に落ちぬよう、相談を聴き続けたこと。そして、花島会長の許可を得たうえで千花に自社の仕事を割り振り、事務職の疑似体験を何度となく繰り返させたことぐらいだろう。
想像していたとおり、千花は仕事の面においても優秀な人間だった。
一度教えた内容はメモを取らずともしっかり記憶できていたし、持ち前の不安感から来る緻密な確認も、ミスに気付く、あるいは失くすために非常に役立った。さらに、より効率的な方法を提案する力も優れており、大人顔負け――あぁ、一応、彼女も大人か――の処理能力を発揮したのである。
とにかく、この結果は、才気あふれる千花の力なのだ。
それにも関わらず…、「全部、綺羅星さんのおかげですよ」なんてことを真っすぐな目で私に言うから、侮れない。こういうことを言われる度に、私のちっぽけな承認欲求が満たされた。
一方で、それが社交辞令であることもちゃんと弁えていた。いくら純朴な千花の言うこととはいえ、アラサーにもなって、二十歳そこそこの相手が口にする誉め言葉を真に受けすぎていてはお笑い種だ。
「私、自分が働き始める日なんて、永遠に来ないと思っていました」
千花がなんとも言えない顔で口角を上げる。喜びか、不安かは分からないが、今の千花ならば、必要以上に彼女を気遣うことはないと思い、私は頭に浮かんだままに応えた。
「永遠なんて、空っぽですよ」
「空っぽ?」
「そうです。あるかどうかも分からないものですからね。自分自身が行動を続ける限り、永遠に手に入らないものなんて、本当に限られていると私は思います」
一年前から何も変わらない千花の部屋で、私はひとしきり、彼女の努力の気高さ、粘り強さを褒め称えた。これから新世界に足を踏み出すも同然の千花に、せめてもの手向けとなればと考えたのだ。
(…でも…)
私はそっと目を閉じた。
これで、私と千花の関係は終わる。
私が与えられた役割。それは、引きこもりであった千花の精神を安定させ、再び外の世界へ臨むよう手助けすることだった。
桜舞う来月、つまりは四月から、千花は働き出す。必要なときは彼女に呼ばれるかもしれないが、その機会に恵まれなければ、私はもう千花と顔を合わせる理由がなくなる。
その事実が、少しだけ…いや、正直に言うと、かなり私の心を暗く曇らせていた。
千花に会えない。
この知性と純朴さの煌めきが渦を巻く黒曜石を覗き込むことが、もうできなくなってしまう。
それが酷く悔やまれた。大人として、祝福するべきことなのに…。
(……それだけ楽しかったのね、私…。千花さんと話をすることが…)
元々変わり者の私が、心を開いて言葉を交わせる相手などほとんどいない。夫である久さえ、すべてをさらけ出しているわけではないのだ。
(寂しい、なんて…口にするものではないわね)
私は優雅な微笑みの仮面の下で、唇を尖らせ、今日一日の時間がもっと緩慢なものであればいいのに、と祈り続けていたのだが、非情かな、面談の終わりである18時はあっという間に来てしまった。
「この間、アップされていた新曲のMVが最高だったんですよぉ」
千花は時間に気づいていないのか、次の話題に移ろうとしていた。とても嬉しいことだが、遅くなれば遅くなるほど、別れが辛くなる。今生の別れでもなんでもないのだが…千花が『会いたい』と思って、それを行動に移してくれなければ、似たような結末にはなるのだ。
「あの、千花さん」
「あ…」
ちらり、と千花が時計を一瞥する。それで時間には気づいただろうに、彼女は、「ど、どうしました?お飲み物でも用意しますか?」なんて、珍しく見当違いの発言をしてみせた。
「いえ、もう時間も時間ですので…」
私が言いづらそうに告げると、千花は時計も見ずに肩を落とし、明らかに寂しそうな表情を浮かべた。
「あ、あー…はい…」
もしかして、別れが惜しいのだろうか、なんて都合のよいことを考えてしまう。そんな自分が哀れだった。
「…もう、こうして会うこともなくなりますね」
何か言ってほしくて、こんなことを言っている。それが分かっているから、ますます自らへの憐憫が強まる。
「はい…」
長い沈黙。
今日は待てない。
「寂しい、ですか?」
半分冗談、半分…期待を込めて。
「あ、はい。寂しいですよ」
でも、千花の心内は分からない。今のだって淡白だった。
いや、もしかするとこれが、彼女が私に抱いている感情のすべてなのかもしれない。つまりは、無味無臭。たいしたものではない。
それもそうだろう。まだ若々しい千花がこれから積み重ねていく時間のことを思えば、私と過ごした一年余りなど、所詮、一瞬の光。星の瞬きにも満たない、あっという間に忘れ去られてしまう出来事なのである。
「ふふ、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。これからはもっと楽しいことが増えます。私のことを、忘れてしまうくらいに」
何を言っている、と内心で自分に対し呆れる。慰めの言葉を求めてしまっていた。
案の定、千花は私の言葉を否定した。
「えぇ、忘れませんよ」
私が欲しかった言葉。なのに、ひねくれ者の私はどうにも真っすぐ受け止められない。
「…忘れますよ、きっと。貴方の人生は長く、これからが豊かなのですから」
千花は寸秒、考える仕草を取った。そして、頭の中で言葉がまとまったのか、思わず私が驚くようなことを淀みなく語り始める。
「綺羅星さんが面談に来てくれるようになってすぐ、私が母からの手紙を勝手に見て落ち込んだとき、あったじゃないですか」
「え?ええ」
「そのとき、綺羅星さんが言ってくれた、『こんなインクが綴る貴方ではなく、本当の貴方を、その言葉で知りたい』っていう言葉、すごい嬉しかったんです。この人、本当に私のことを知ろうとしてくれてるんだなぁ、って思えて…」
「あ、へぇー…私、そ、そんな、気障なことを…」
「はい。あの、『私がそばにいて、貴方の本当の価値を伝えます』って言ってくれたことも嬉しかったです」
「う…」
嬉しい、と言ってもらえて小躍りしそうな反面、酷く、気恥ずかしかった。何をよい大人が格好つけていたのだろうか…。
だが、そんな羞恥心は続く千花の言葉で簡単に消えた。
「だから、忘れません。きっと、永遠に」
――思うに、この世で最も寂しいことは、人の記憶から消えてしまうことだ。
どれだけ親交を深めた相手でも、その存在が忘却の彼方に消えてしまっては、もうそれは、いてもいなくてもいいのと同じだ。
生きていても、誰も覚えてくれていない人間より、死んでも、誰かの記憶に残れる人間になりたいと、私は常々思っている。
だからこそ、千花のその言葉は何にも代えがたい福音となって私の心の一番深いところに響いた。
「千花さん…」
「それを証明する方法はないんですけどね…あはは」
ちょっとだけ嬉しそうにはにかんだ千花を見て、無意識のうちに左手が肩の高さまで上がってしまう。
「…私も寂しいわ…」
本音交じりの独り言が漏れる。
(もう、可愛いわね、本当…)
指先が、千花の艶やかな黒髪に伸びる。
不思議そうな顔で、千花が小首を傾げた。そのおかげで私はハッと我に返り、苦しい誤魔化しだったが、自分の肩にかかったロングヘアを払う動きに変えることができた。
でも、言葉が出ない。話すのは得意なのに…。
私がそうして何も言えずに目を逸らしていると、思いがけず、千花のほうが前のめりになってこんなことを言った。
「あの、綺羅星さん。お願いがあるんですけど」
「…どうしたのですか、珍しい。なんでもおっしゃって下さい。千花さんの言うことであればなんでも聞いてあげますよ」
「では、その…」
一瞬、千花が目を伏せるも、すぐにその煌めく瞳で私を上目遣いに見上げてきた。
「私と、お友だちになってくれませんか?」
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