第6話 友人の仮面.2

 ゴールデンウィークを目前に控えた仕事終わり。私は、中間管理職としての煩わしさから思考を逸らすべく、片手にブラック缶コーヒーを手にして薄闇に染まる空を会社のバルコニーから眺めていた。


 (仕事は好きだけれど……忙殺されるような状況は好きじゃないわ。早く、新しい仕事に慣れる必要があるわね…)


 花の金曜日。その仕事終わりだ。本来なら解放感から自然とテンションが上がるものだが、その日は疲労感からそうもいかなかった。


 そんな灰色の空気感の中、テーブルの上に置いていた携帯のディスプレイが点灯する。


 (…誰かしら)


 私は、ちらり、と画面を一瞥すると、そこに映し出された人物の名前を確認するや否や、慌てて携帯を手に取った。


 『綺羅星さん、お疲れ様です。今夜、お時間ありますか?』


 メッセージの差出人の名前には、藤光千花の名前。先週、妙な感じで別れてしまったから、もしかするともう連絡は来ないかもしれない、と私は不安に思っていた。


 


 『お疲れ様です。ちょうど今、仕事が片付いたところです』


 『あ、お忙しいときにすみません!本当は、一緒に晩御飯でもとお誘いするつもりでしたが、またの機会にさせて頂きます!無理せずお仕事頑張って下さい!』


 


 「ちょっと…」と思わず声を発してしまう。


 折角の機会を不意にしたくはない。何の機会なのかと問われると、答えようもないのだが…。


 私は一応就業時間内であるにも関わらず、携帯に食い入って返事を送る。


 


 『お気遣いありがとうございます。仕事はきちんと終わりましたので、私は大丈夫ですよ』


 『本当ですか!?』


 『ええ、もちろん』


 


 私たちはすぐに時間と場所の約束をした。場所はまた千花の降車駅。時間はおよそ一時間後。駅は私の職場から歩いてすぐだったので、双方問題はなかった。


 「あ、お疲れ様です!」


 待ち合わせ時刻ちょうどに千花は現れた。着られていたスラックスも、ストライプのシャツも、少しだけ彼女に合わせて形を変えているような気がした。


 お店はこの間とは違うファミレス。彼女の希望もあったので私の車で移動する。


 ウェイトレスに案内されて対面で席に着いた私たちが最初にした話題と言えば、やはり仕事のことだった。


 仕事の話題と言うのは良い。どんな職種であれ、必ず何かしら通ずる性質があるため、相手を選ばずに活用できるからだ。


 私は他愛もない話を続けながら、内心でホッとしていた。


 先日、私は千花にバイセクシュアルであることを告げた。そのうえで、千花のことを可愛いだなんだと褒めちぎったから、私が彼女に多少なりと好意のあることが伝わってしまい、気色悪がられると思っていた。しかしながら、千花の他者への鈍感さ(他者の心内を読めない、という意味で)が幸いしたようで、彼女はいつもとなんら変わりない表情を私に見せていた。


 「そうだ、この後、どこか行きたいところはありますか?」


 私より少し遅れて食事を平らげた千花に私は問いかける。


 その問いは、願わくは千花との時間を少しでも長く引き伸ばしたいという気持ちから出たものだった。とはいえ、彼女からの具体的な返答を期待していたわけではない。そこまで、自分が彼女に信頼されているという実感はなかった。


 だが…。


 「えー…あー…」


 千花は少し言い淀んで空のグラスを見つめた。変に気を遣って考えているわけではないのは分かったので、珍しいことだな、とそのときの私は不思議に思っていた。


 ややあって、顔を上げた千花が苦笑しながらこんなことを告げた。


 「あのぉ、本当はカラオケに行けたらなぁ、なんて思うんですけど…」


 「カラオケ?」


 私自身、夫の久と度々カラオケ店に遊びに行くので妙な抵抗感とか、気恥ずかしさはない。ただ、時計の短針はすでに夜の八時を指している。これから移動して、カラオケに興じようとすれば、自然と夜遅くになってしまうのではないだろうか?


 「えと、あの、時間、まずいですかね?」


 私が時計を一瞥したのに気づいたらしい千花は、依然として苦笑いの表情でそう続けた。


 千花がそうしたいと言うのだ。私のほうに断る理由はない。久には何時になるか分からないと伝えていたから…1、2時間遊ぶ程度なら問題はないだろう。


 「いえ、大丈夫ですよ。――では、早速行きましょうか?」


 「あ、はい!ありがとうございます」


 割れんばかりの笑顔を見せる千花に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 彼女が望むことであれば、なんでもしてあげたい。自分の夫にすら抱かない全面的な献身の気持ちと千花と共に店を出て、金曜日に湧く夜道を車で走らせた。


 


 店に着いて、急な階段を上る途中、千花の真っ白いふくらはぎを見つめていた私に、彼女は振り返って尋ねた。


 「あの、時間、どうしますか?」


 これからカラオケを楽しめるワクワク感が、声の抑揚に現れている千花にそう尋ねられると、私にできる返答などたかが知れていた。


 「もちろん、千花さんのお好きにどうぞ?」


 「え、ええ…いいんですか?」


 「はい。カラオケ、お好きなんでしょう?」


 千花は引きこもってからも、時折、一人でカラオケに行くことはあったという。一体全体、引きこもりとは何なのかと思う人もいるだろうが、他者との関わり合いを避け、6か月以上概ね家庭内に留まっている状態のことを引きこもりと形容するので、千花はまあ多分、引きこもりだったのだ。定義に固執しても意味はない。


 利用時間を千花に一任した私だったが、長く利用しても2時間ほどだろうと高をくくっていた。しかし、小型犬みたいに尻尾を振って喜んでいた千花がカウンターで告げたのは、とんでもない時間だった。


 「フリータイムでお願いします」


 「え?」思わず、声を出してしまう。


 「あ、ダメ、でした?」


 酷く残念そうな顔をする千花に下から見上げられた私は、失態だったと内心で反省しつつも、「いえ、大丈夫ですよ。カラオケ、お好きなんですね」なんて答える。それで誤魔化された千花は、「はい。綺羅星さんと一緒にカラオケ行くの、夢だったんです!」と穢れない純朴さをもって言ってのけた。


 私は彼女から降り注がれる光を払いのける術を持たないから、「それでは、フリータイムでないといけませんね」と笑顔で答えた。まあ仮に持っていたとしても、使うことはなかっただろうが。


 グラスなどが入ったかごを手に部屋へ移動する。扉を開ければ、狭い長方形のスペースで大きなスクリーンが目のチカチカする輝きを放っていた。


 それから私は、当初の想定を超える時間――4時間と少しほどカラオケに興じ、深夜1時を過ぎるまで共にいたのだが、彼女の歌声がこれまた私の想定を遥かに上回るほど澄んでいて、歌の音程を綺麗にたどるものだったこと、そして、私自身、今までのどの相手の前で歌うよりも緊張していたことを綴ろう。


 千花の歌声は透明感があった。歌う歌は英語の歌詞が入ったものが多かったが、私の好きなアップテンポでロックなものばかりで、聴いていて気分が昂揚した。また、決められた工程に対しては無類の強さを誇ることは作業傾向を測ったときに十分知っているつもりだったが、こんなところでまで発揮されるなんて、千花が何度も90点台を超えるのを見るまで思いもよらなかった。


 「千花さん、とっても歌が上手いですね。声も綺麗で安定感があって…ふふ、夫よりも聞き心地がいいわ」


 「えー、そんな。私の声、ロックと合わないんですよぉ、かっこよくならないですし」


 「そんなことないですよ。上手。聴いていてテンションが上がります」


 私は繰り返し千花の歌声を賞賛した。決して千花のご機嫌を取ろうとお世辞を並べたのではない。そうさせるだけのものを、千花が持っていたのである。


 一方、私はというと、人前で歌うのにこんなに緊張することがあっただろうかと考えさせられるほど心臓が打っていた。


 元々、私は人前で話したり、行動したりするのは苦手ではない。歌うのだって然りだ。それなのに、口の中はカラカラだったし、何曲歌っても鼓動が緩まることはなかった。


 「わー、綺羅星さん、やっぱりお上手ですね!かっこいい」


 楽しそうに笑い、拍手する千花。私よりも俄然高い点数を出す彼女に褒められると何とも言えない気分になったが、彼女にそういう嫌味とか、お世辞とかを口にする器用さがないことは明らかだったので、「千花さんほどではないですが」と軽い皮肉交じりに返した。


 充実感のある時間というのは、まさに飛ぶように過ぎていく。私はふとした拍子に何度も時計を確認しており、夜が更けるに従って、千花を早々に返したほうがいいのでは、と考えさせられた。


 零時に至る直前、さすがにと思い、千花に時間は大丈夫なのかと問いかけた。さすがの彼女も時間の冷徹さには驚いていたが、ほんの少し携帯をいじると、笑って顔を上げた。


 「大丈夫です。家には連絡入れてますし、ハウスキーパーさんもさすがに帰ってますから」


 「それは大丈夫と言うのでしょうか…?」


 「大丈夫ですよぉ。私が家にいても、いなくても、お母さんたちは気づきもしませんし、お爺ちゃんも、遊びまわってるほうが健康だ、ぐらいにしか考えてません。あ!相手が綺羅星さんだから安心してるとも言ってました」


 テンションが上がっているからか、珍しく饒舌になっている千花を見ながら、私は会ったこともない藤光会長に思いを巡らせる。


 (…その綺羅星がバイセクシュアルであると知ったら…こうもいかないのでしょうね。得と言うべきか、呪うべきか…)


 何はともあれ、久には改めて連絡を入れようと思い立ち、私は携帯を片手にトイレへと移動した。


 久は数コールですぐに電話に出た。今思えば、遅くなっている私を心配してくれていたのかもしれない。


 『もしもし、久?』


 『おう。どうしたんだ、随分と遅くなってるな』


 『ええ、千花さんったら、フリータイムでカラオケしたいって言い出すから…』


 『へぇ。まぁいいんじゃないか?その子、二十歳そこそこだっただろ?夜遊びするくらいが健康的だよ』


 『まぁ…そうね。とにかく、もう少しかかりそう。だから、先に寝ていて大丈夫よ?』


 『うーい。今まさにそうしようかと思っていたところだよ』


 『ごめんなさいね、久』


 『ははっ、いいって』


 カラカラと笑う久。久の寛容さにはいつも助けられることが多いな、なんて考えながら何度か感謝の言葉を口にした私は、そのまま電話を切ろうとした。だが、その直前、久がいつもみたいにふざけた調子で告げた言葉に、私はほんの少しだけドキリとさせられる。


 『あっ、そんな若い子と浮気すんなよぉ』


 『…心配ないわ。あの子、カラオケに夢中だもの』


 私は通話を切ると、そっとため息を吐いた。


 嘘は言っていない。それなのに、どこか罪悪感の火が心を炙るのは、私の心に疚しさがあるからなのだろうか?


 鏡に映った私の顔は、白く、曇っていた。


 


 部屋に戻ると、千花は新しい歌を入れずに私を待っていた。


 さすがに帰ると言い出すか、と相手の言葉を待っていると、彼女がしたことは曲を入れるパッドツールの画面を私に向けるというものだった。


 「綺羅星さん、これ、一緒に歌いませんか?」


 そこには千花からお勧めされて私も聴き始めていたバンドの楽曲が表示されていた。デュエット曲だ。


 「ええ。大丈夫ですよ。上手な千花さんのお邪魔にならないよう、気をつけますね」


 「えっ?もう、綺羅星さんったら…綺羅星さんもお上手じゃないですか」


 「そうかしら」と肩を竦めてみせれば、千花は曖昧に笑って曲を入れた。


 流れるイントロ。車の中で散々聞いたが、心臓のビートだけが耳慣れないノイズとなってそこに響いていた。


 「嬉しいです」


 唐突に、千花がそんなことを言った。


 私はイントロのせいで何か聞き間違えたかと思ったが、満面の笑みと共にこちらを振り向いた千花の様子から、そうではないことを悟る。


 「綺羅星さんと一緒にカラオケ来られて、一緒に歌えて。嬉しいです」


 何のことはない、短い感想だ。


 特段気の利いた表現を使われたわけでもない。それがフィクション世界でヒロインがヒーローに贈る愛の言葉であったならば、肩透かしもいいところだと揶揄されたかもしれない。


 しかし、私にとってはこれ以上のない音色をもった言葉だった。


 神の祝福が込められた福音も、心臓を止める呪言も、審判の日を告げるラッパの音も、まっさらな世界へと押し流されてしまいそうなほどに澄んでいる、千花の言葉。


 「……私もよ」


 私は、どうにかそう答えるので限界だった。


 すでに、仮面は引き剥がされた。


 そうしたのは千花だったし、それを望んでいたのは私だ。


 時間よ、止まれ…と願うほどに、私の心は喜びを叫んでいた。そしてそれと同時に、もっともっとと渇望の悲鳴を発していたのだ。

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