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露路や怜が、大劇場崩落の現場から来る報告を受けている頃。仕事部屋の外から女中が、遠慮がちに呼びかけた。お客様です、と。
「こんな時間に、ですか。どんな方です、名前や用件はお伺いしましたか」
怜が疑わしげに尋ねると、女中はうなずいた。
「ええ、中年の殿方で、『××呉服店』にお勤めの間島様とおっしゃいました。この邸の外を通りがかった時、怪しい人物が出てくるのを見たのだと仰せで、ちょっとお報せ申し上げたいとのことです」
「怪しい人物?」
今度は露路も振り返る。そして、今日紗百合が話したことを思い出す。彼女の話からすると、我が邸はいつ不埒な輩がやって来ても不思議はなさそうであった。念のため確認した方がよい。
玄関から程近い応接間に通されていた間島某は、若き主人の姿を見ると立ち上がって頭を下げた。
「如月様、お忙しいところを誠に……」
「いいんですよ、こちらこそお待たせして相済みませんでした。それで、用件というのが……」
「ええ、このお邸の外、煉瓦塀のところを歩いておりましたのですが……」
彼は客先から店に戻る途中、ここの煉瓦塀の外に停まる幾台かの一頭立て馬車を見かけた。お客ならなぜ邸内に入らないのだろうかと妙に思いながら眺めていると、塀の内からよっこらせと現れた者がいる。彼は紐らしきものを向こう側に垂らした。すぐ後に仲間らしき者達が続々と塀を乗り越えてきたが、彼らは全員庭師の出で立ちであった。頭に鉢巻き、着物は脛まで捲くり……。
「で、最後の奴が大きい袋を抱えていました。奴らはさっき申し上げた一頭立て馬車に分かれて乗って、どこかへ行っちまったんです。私も迂闊なもので、この有様を呆気に取られて見ておりましたんですが、ひょっともしやあれは泥棒の類かもしれねえと思いまして。それで、慌ててこちらにお目通りを願ったわけで、ハイ」
「そうでしたか。いや実際、あなたのご判断は正しい。うちではこんな夜に、それも塀を乗り越えて行き来するような庭師を雇った覚えはありませんのでね。しかしそうなると、奴らは何を盗んでいったのでしょう」
「手の空いている者に点検させましょうか、ご主人様」
怜の提案はすぐに容れられて、邸中で大捜索が始まった。
塀を越えて……と聞いた時、怜が真先に考えたのは、「庭を散歩してくる」と言っていた紗百合のこと。廊下ですれ違ったきり姿を見ていないが、もう部屋に引き揚げて休んでいるはずである。けれども、念のため、彼は女中のひとりに客人の様子を見に行くよう命じた。
それからそう経たないうちに、女中は当惑気味にこう報告してきた。
「瑶子様の方はお部屋でよくおやすみになっていらっしゃいます。紗百合様の方は、お部屋にいらっしゃらないようなのですが」
「紗百合様がいらっしゃらない? 瑶子様の方にいらしてはいないのだね?」
「はい。お湯や御不浄も確認しましたが……」
(庭には誰もいなかったと知らされている。まさかとは思うが)
彼は露路と間島に、息せき切って紗百合の不在を伝える。
「何、紗百合さんが……本当なのかい。庭に散歩に出たままいなくなったというのは」
「そういえば、奴らが担いでいた袋はかなり大きかったので、人ひとりくらい入っていてもおかしくありません」
「彼らはどの方向へ行ったか、ご覧になりましたか」
「ええと、あれは、富貴村の方面でしたなあ。ほら、収容所の高い塔がいつも遠くに見えているでしょう、あの方向です」
露路は怜と目を見交わし合った。二人とも最悪の事態を疑い始めたのである。
間島には丁重に礼を言って帰した。
警察にも捜索を依頼しておいたものの、二人の胸からは不安の影が去らない。否、ますます濃くなりつつある。
紗百合と瑶子は、民衆が意図的に見逃してきたものの、お尋ね者であることに変わりはない。相手は富貴氏と央間氏。自分達の血眼になって探し求めている二少女が、敵の如月家の邸に落ちのびたと知ったら、どんな強硬手段に出ないとも限らない。
「ご主人様、私が収容所に参ります」
出し抜けに、そう申し出る怜。彼の瞳は、爛々と燃えて、いかなる諫めも宥めも聞かぬ者のよう。
「行ってどうするんだ。あそこには政治犯や思想犯、反逆者といった、簡単に面会できそうにない人ばかりが容れられている。名簿の照会も時間がかかるだろう。第一、本当に紗百合さんが誘拐されてそこに放り込まれたというのなら、部外者には秘匿にされて会うことすら叶わないだろう」
「しかし……」
「怜、君が紗百合さんを気にかけるのはよくわかるし、責任を感じるのもわかる。けれども、決して早まっちゃいけない。下手をすると、却って紗百合さんに危険が及ぶことだってある。ひょっとしたら、今は安全な瑶子さんにも……」
「……私のことでしたらお構いなく」
凛とした声が背後から響く。当の瑶子が、応接間の戸を開けて入ってきたところであった。着物の襟にも裾にも乱れなどなく、髪も丁寧に編み垂らされている。先まで「よくおやすみになっていらっしゃった」とは思えない姿、そして威厳ある態度。
「紗百合が行方知れずだそうですわね。もしお探しに行かれるのでしたら、私も連れて行っていただけませんかしら。ずっと旅をしてきた私なら、何か小さなことにも気づけるかもしれません」
「お心はありがたいのですが、手がかりが少なく、捜索範囲を絞り込めていない状況なのです」
「先程『収容所』とおっしゃっていたのは?」
彼女は部屋の外で、二人の話をある程度聞いていたのだった。こうなっては二人とても、隠し通すことはできない。――彼らのいう収容所は、央間村と富貴村が共同で管理しており、主に反逆罪を犯した者が容れられる牢獄を指していた。特に重い罪を犯した者は、高い塔の頂上にある房に、日々を過ごさなければならないというので、地元民の間ではよく知られ、恐れられている。――そう説明を受けて、瑶子は大きくうなずいた。
「そう! 高い塔があるのなら、人ひとりを秘匿するくらいわけないことでしょうね。それに相手は富貴氏と央間氏の手下ですから、どちらかの土地か、少なくとも如月の警察が手を出しづらいところに紗百合を隠すはずですわ。すぐに見つけられては意味ありませんもの。……」
そこまで夢中で喋って、瑶子はふと、紗百合が乱暴された挙句息絶える幻を思い描いてぞっとした。しかしすぐに首を振って、忌まわしい景色を追い払う。紗百合は央間道鷹に恋慕されていると言っていた。誘拐されて間髪おかずに殺されたり、傷つけられたりすることはあるまい。最終的にはそうなるにしても、一度は央間氏に引き合わされてからになるだろう。
瑶子が思慮を巡らせる僅かの時間に、露路と怜は早くも計画を立て始めている。彼らも、瑶子の説を聞いた後では、紗百合の在処はそこ以外にないと確信するに至った。
「土地の目ぼしい場所は警察に任せて、我々は収容所に向かいましょう。如月家当主直々のお出ましとなれば、中に入れないこともありますまい」
「ああ、だが単に如月家の威光を行使しただけでは難しいかもしれない。何か決定的な証拠でもあればいいけれど」
「そうしたことは着いてから考えても遅くありません。監守の態度に怪しい態度があれば、そこから情報を引き出すことだってできましょう」
「君は紗百合さんのことになると、随分大胆になるね。いつも君の方が慎重なのに」
露路の呟きが、なぜだか瑶子の耳に印象深く残った。
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