3

 瑶子、露路、怜の三人が件の収容所に向かって自動車を走らせた頃。丁度収容所の高塔の房で紗百合は目を開いた。


 彼女は、積み上げた藁屑の上に投げ出されていた。片手でまだぼんやりする額をさすり、もう片方の手で周囲を探る。冷たい石の壁に指が触れる。


 そろそろと起き上がってみると、そこは四方を壁に囲まれた石造りの部屋で、大して広い場所ではなかった。左手に窓らしきものがあるが、すぐ外に生えている樹木が室内まで枝を伸ばしており、繁った葉のために大半が塞がれていた。今夜は月夜だったはずだが、月光も中々届いてこないほど。――近づいて窓の外を覗いてみれば、樹木の幹が遥か下まで続いている。してみるとここはかなり高い建物の一室らしい。


(庭で薬を嗅がされたけど、こんなことまでして私を誘拐するなんて、敵はよっぽど焦っているらしい)


 紗百合はもう一度藁屑の上に腰を下ろして、自分の置かれた状況と、これからの処置方を考えようとした。……が、ワアワアと人のうち騒ぐ声が近づいてきて、折角冷静になろうとした心を乱す。


 やがて石の頑丈な扉が四角く開いて、ひとりの人物が投げ込まれた。紗百合があっと思う間もなく扉は再び堅く閉ざされる。


「人でなし! 悪魔! 鬼! 畜生! 獣!」


 投げ入れられた人物は果敢にも扉の向こうに、あらん限りの罵言を浴びせ続けた。その声が若い女性のものだったので、紗百合は少なからず驚いた。そして同時にこうも考えていたのだった。この人が瑶子だったらどんなに心強かっただろう、否、瑶子でなくて幸いだった……と、まるで正反対のことを。


 女性は悪口に疲れたのか、辺りをぐるりと見回した。そこで漸く、先客がいることに気がついて息を呑んだ。


「あの、失礼いたしました。お見苦しい、お聞き苦しいところを……」

「いいえ……あなたも誘拐されてきたとか? 私はそうなのですが。ああそうそう、私、東風紗百合と申しますの。央間村の東風建設の娘ですわ」


 先客の身元がはっきりしたので、相手も幾分打ち解けた気になったらしい。彼女は瀬戸恵美子と名乗った。


「私の家は、富貴村でも有数の名家と誇っております。長らく、富貴家に次ぐ地位を保っておりました。維新の前までは富貴家の第一の家臣として、維新の後も公私ともに親しくし、政事の面でもお支えしていたものです。けれど、今の当主が就任してからは、急速に冷遇されるようになりました」


 薄い月明かりの中では、恵美子の表情はよく見えない。けれど、彼女が美しいことと、名家の一員としての自尊心を保ちつつ話していること、この二点は紗百合にもわかった。


「それでも、初めのうちはまだよかったのです。いつから悪化したかといえば……そうねえ……丁度、富貴家の瑶子さんが失踪する前後くらいだったかしら。あの辺りから……」

「待って。あなたは瑶子をご存知なの」

「まあ、あなたは瑶子さんと親しくていらっしゃるの」

「ええ。私はその失踪した後の瑶子と出会って以来、今日まで一緒に旅してきたのよ」

「そう、では瑶子さんは生きていらっしゃるのね! ああ、よかった、本当によかった……富貴家の奴らに殺されたのではあるまいかと、そればかり案じておりましたのです。ええ、あの方は女学校の同級生で、卒業してからも親しくしておりました」


 瑶子という共通項を見出して、二人の距離は俄然縮まった。恵美子は張り詰めていた心の糸が切れたとみえ、さめざめと涙にかきくれながら後のことを語るのだった。


 瑶子が全く姿を見せなくなってから、富貴村の治安は目に見えて悪くなった。それまでも決して良くはなかったが、さらに人心が荒廃したというのか。誰もが誰かを疑い、誰かを嘲り、誰かを侮蔑した。知恵でも力でも、強い者が弱い者を苦しめた。ひとたび親切心を見せた者はそれに付け込まれて窮地に陥り、お人好しだの木偶の坊だのと嘲笑される有様なので、誰も親切をしなくなった。仮に親切をしても、何か貸しを作る気だろうと考えられて疎まれるに違いない。皆が自分の財産を守ろうと必死になる余り、他人を蹴落としたり密告したり、傷つけ合ったりする……。


「そうなったのも、あの忌まわしい処刑のせいです。それを陰で推進する富貴家のせいです。富貴村の処刑がどんなものか、ご存知? 富貴邸に程近い広場に、棒杭を立て、その下におが屑を敷き詰めて火を放つのです。棒杭には、罪人とされた人がくくりつけられております。そうして、罪人が火あぶりになるのを村人は一種の見世物として喜んで眺めているのです。……この火あぶりは、明治の御代に一度は姿を消したのですが、十年ほど前からまた復活したのだそうです。勿論公式なものではなく、有志の者が全て取り仕切って執り行う、所謂私刑でした。今となっては、その処刑された人々が本当に咎めるべき悪人だったかどうかもわかりません。裁判なんか当然やらなかったでしょうし……」

「陰で富貴家が推進しているとおっしゃいましたわね」

「ええ。正確にいえば、富貴利男氏です。氏はそれこそ十年ほど前に、村の司法に関する部門の長になったと聞きました。そこで、自分に都合の悪い人物や、富裕層を処分して、危機を遠ざけたり豊かな財産を没収して我が物にしたりすることを覚えたのでしょう」

「住民主体の私刑なら、後で追及されても知らん顔で押し通せる……ということ」

「ええ、そうなのです。私の父がそのからくりに気づき、確たる証拠を秘密裡に探しておりました。そして二週間前、とうとう見つけたのです。罪人とされた人々が本当は無罪であり、後付けの罪を拵えて罪人に仕立て上げられた過程がはっきりとわかる書類を。そこには富貴氏の印や、部下連中の名もしたためてありました。父はそれを以て富貴氏を告発したのです」


 肩を震わせて泣く恵美子。憤りのためとも悲しみのためとも、判別のつかぬ震え。紗百合は胸が一杯になって相手を抱き寄せた。彼女の目からもまた涙が流れる。――二人はそのまま、無言ですすり泣いていた。恵美子の父の瀬戸氏が富貴家に盾ついたために全てを失ったのだということは、語られずとも明白だった。でなければ、娘の恵美子がひとり、こんな所に放り込まれるはずはない。


 涙が渇きかける頃、恵美子はやおら着物――囚人服なのか、ごわごわとした粗末な生地――をはだけて、腰紐の間から薄い紙束を取り出した。


「これが富貴家の悪事の証拠となる書類です。初めは父が持っていましたが、火あぶりにされる直前に母に託されました。その母もやはり火あぶりにされてしまうというので、私が引き取ったのです。……もうこの世にいない両親のためにも、私は敵を倒し、我が家の名誉を回復、再興させなければならないのです」


 言って、またその紙束を懐にしまおうとする。咄嗟に紗百合はその手を掴んで引き留めた。


「恵美子さん、それ、私が預かりますわ」

「まあ、でも……」

「実は私、如月家当主の庇護を受けていますの。瑶子も一緒に。ですから、私が一旦預かり、私の手から如月さんに渡します。相手が相手ですもの、いくら富貴氏だって強くは出られませんわ」

「ええ……それもそうですわね。では、くれぐれも、よろしくお願いします」


 かくて秘密の書類は紗百合の着物の下に納められた。……けれど、恵美子の手前、露路に手渡すと言ったものの、彼がここまで自分を助けに来られなければ意味がない。さてどうしようか。


「ねえ恵美子さん、ここがどこだか、あなたわかって?」

「ええ知っておりますとも。央間村と富貴村が共同で使っている収容所。その象徴たる高い塔の頂上です」

「ふうん……」

「ああ、あなたは誘拐されてきたのだとおっしゃっていらしたわね。ではずっと、ここが収容所――良くも悪くも、権力者に歯向かった者だけが容れられる忌まわしい所だとは、ご存知なかったのね」

「ええ……」


 紗百合はふらりと立ち上がって、窓際へと歩を進める。その姿がいかにも心ここにあらずといった風で、恵美子は何がなし不安になった。結局彼女も立って、相手の背後に添うのだった。


 窓といっても、硝子や障子がはめ込まれているわけではない。ただ、壁を四角にくり抜いただけである。大きさは、やっと頭部が収まるくらいなので、鉄格子がないとはいえここからの脱出は不可能。おまけに細い木の枝がわさわさと中まで伸びているので、なおさら、脱出の気が失せるというもの。


 さて、紗百合はかの枝の一本を引き寄せた、と思うと、鈴なりに繁る青葉を一枚むしった。彼女はそれをパキンと二つ折りにして、窓の外にぽろりと落とした。


「恋しお方と出会うたは、桜咲く頃、花見頃……花にまぎれて忍び来る、恋しお方の深情……」


 よくよく耳を澄ますと、彼女は巷の流行歌を口ずさんでいる。その間も、彼女の手は次々と青葉をむしっては二つ折りにして外へ落とす、これをずっと繰り返している。この謎の遊戯はいつ果てるとも知れない。


 彼女の白い横顔は、恵美子には、意思を砕かれた、無目的な女性のそれと映った。


「可哀想に! この方とうとう気が狂ってしまったんだわ。こんな酷い所に連れて来られたばかりに……」


 恵美子の呟きなどまるで聞こえないかのように、彼女の手は青葉を二つに折り続ける。パキン、パキン、パキン……。

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