第7章 封じ文

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 運命的な邂逅を果たした四人といえども、いつまでも喜びに浸っているわけにはいかなかった。大劇場崩落の件で、如月邸にはひっきりなしに報告が入ってくる。露路と怜はその対応に追われ通しだった。


 それでも彼らは、瑶子と紗百合への親切は決して忘れなかった。


「お二人とも、長旅の上、色々な事件に遭遇してお疲れになったでしょう。部屋と食事を用意させますから、僕達のことは構わず、どうぞお寛ぎになって下さい」


 その言葉通り、隣り合った二つの客間と、湯気の立つ美味しそうな洋食が程なくして供された。


「そういえば私達、朝に軽く食べたきり、何も食べなかったのねえ」

「そうね」


 卵色の灯がともるシャンデリアの下で、心尽くしの食事をとる二人。既にこの家の湯を借りて身を清め、用意された着物に着替えさせてもらっている。空腹のせいか、二人とも無言でひたすらナイフフォークを動かすばかり。


 腹ができると、瑶子の方は歯磨きもそこそこでベッドに潜り込んでしまった。無理もない。今日一日で、余り多くのことを経験しすぎたのだから。驚き、悲しみ、恐怖、喜び……感情の整理をつけるためにも、心身を休ませるのは、まことに理に適っているではないか。


 瑶子はすっかり寝入った。長い睫毛のふさふさとかかった瞼は閉じられて、夢すらも見ていないのだろう、ぴくりともしない。羽根布団に隠された口元からは、微かな寝息が漏れている。


(私はこんな風に眠られそうにないわ)


 紗百合は、慈しみ半ば、羨望半ばといった気持ちで瑶子を見つめていた。その寝顔に、あの大劇場崩落で生命を落とした子供の面影が重なる。山のような瓦礫を踏み越え、或いは持ち上げた時の感触や、その時の周囲の喧騒までが、全身にひしひしと迫ってくる。


 外に目を向けると、窓掛けの隙から藍色の空が見える。


 何かいたたまれない気持ちが起こって、紗百合はそっと客間を出た。少し庭でも巡り歩いて、ほどよく疲労すれば眠る気にもなるだろう……。


 廊下を歩いていると、途中で怜に出くわした。


「紗百合様、何かございましたでしょうか」

「ううん、ちょっと庭を散歩して来ようと思っただけよ」

「左様ですか。では……」


 彼は少しばかり微笑を片目の端に現しただけで、礼をして行き過ぎてしまう。


(一緒にどう? なんて言えやしないわ。向こうは忙しいんだし……)


 それでも、心の内の寂しさは拭えなかった。


 もう宵だのに、外は思いのほか明るい。見上げると、巴旦杏型の月が冴えた光を投げかけていた。


 月の光は人の心を、慰めもすれば逆撫でもする。導きもすれば誤らせもする。


 紗百合はとぼとぼと、足の歩むに任せて、小径を行き来する。月光の中に伸びる自分の影を、眺めるともなく眺めながら。


(瑶子はまだ眠りこけているだろう。怜さんはまだ忙しく働いているだろう。……大劇場の跡地はどうなっただろうか、今日の救出作業はもう終えただろうか)


 彼女の心に去来するものは、結局その三つの事柄に終始した。如月家の当主たる露路に、危機が迫っていることを伝える……その責務を果たしてしまった今、彼女は何を拠り所にするべきか。それがわかりそうでわからないもどかしさが、胸の内にくすぶっていた。一番に思いつくのは大劇場の件なのだが、また今から現地に行って人助けをするというのは、何だかピントがずれているように思われてならない。では、如月邸に残って露路や怜の助手にでもなるか? それも違う気がする。かといって何もしないでお客様然としているのは尚更耐えられない。


 私には何ができるんだろう。


 明日にでも瑶子に相談しようかと考えもしたけれど、もう少しこの庭園で、自分の意思を見極めてみたくなった。折角月も綺麗なんだもの。


 彼女の口元に、微かに笑みが漏れる。視線を巡らせてみると、月光を浴びた花々が慰め顔に佇んでいた。彼女は大輪の花を両手で支え、その香しい芳香を堪能した……。


 ……ふと背後に気配を感じて、彼女は花から顔を上げた。それがいけなかった。


 顔を上げざま鼻と口を布で塞がれてしまい、何が何だかわからぬままに意識を失ってしまったのである。


 ――彼女を急襲した男達は、ぐったりした身体を抱え上げて、大きな麻袋に放り込んだ。見れば彼らは全員、庭師の扮装をしている。


 彼らは噴水や木々の陰に隠れながら、煉瓦塀まで移動する。身軽なのが、仲間の肩を借りて塀を越えた、と見る間にするすると細い縄梯子が垂らされてくる。残りの男達もこれに縋って次々と塀の外に逃げおおせた。無論、麻袋も一緒に……。

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